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近代革命の社会力学(連載第184回)

2020-12-28 | 〆近代革命の社会力学

二十六 グアテマラ民主化革命

(4)革新民政の樹立
 1944年の軍民連合の革命が成功した後、不安定な三党体制の革命統治評議会は政権に居座ることなく、1944年末に新たな大統領選挙を実施した。この選挙には評議会のメンバーは誰も立候補せず、革命派は当時はまだ無名に近かった哲学者・教育学者出身のフアン・ホセ・アレヴァロを擁立して、圧勝した。
 アレヴァロはウビコ独裁体制を逃れ、南米のアルゼンチンで学者生活を送っていたが、祖国での1944年革命を見て帰国、学生や教職員団体のほか、幅広い中産階級の支持を得て、急速に新たな指導者として台頭した。
 アレヴァロは精神主義に傾斜した「唯心論的社会主義」を標榜し、マルクス主義や共産主義には反対していた。このような穏健な―急進派からすれば、ブルジョワ的な―中産階級左派としてのアレヴァロは、革命の方向性が不透明な状況下で、革命の急進化を避け、保守勢力からも一定の同意を得られる存在として、言わば革命を中和するには適した人物であった。
 一方、前年10月の革命の際、軍内革命派をまとめて重要な役割を果たしたアルベンスは国防相の地位に就いた。しかし軍トップの総司令官には保守派のアラナが就き、軍部内には革命に反対的な保守派もなお多く、1951年まで6年続いたアレヴァロ政権下ではクーデター未遂がたびたび繰り返され、政権は常に崩壊の脅威にさらされていた。
 とりわけ、革命評議会のメンバーでもあったアラナは次第に野党的な立場を取るようになり、政権後半期の1949年にはアルベンス派の一掃を要求して反乱を起こした。革命派内部における内戦の恐れもあったが、これはアルベンス派の反撃により、銃撃戦の渦中、アラナが死亡し、ひとまず決着がついた。
 こうして、グアテマラ民主化革命は急進化することなく、かつ反革命派からの攻撃もかわして、革新民政の樹立という一応の着地点を得た。ただし、共産党に対して否定的なアレヴァロ政権下では、共産党の活動自体は保障されたものの、共産党寄りの労働運動は抑圧された。
 他方、農地改革に関しては、大土地所有制にメスを入れ、未耕作地の補償付き収用と先住民族を中心とした農民への土地の分配策を実施した。これもいさささ中途半端ながら、社会主義的な国有化政策を回避して地主階級を納得させつつ、農地改革を前進させるにはぎりぎりの妥協線であった。
 ただ、外交的にはファシズムのフランコ独裁下のスペインやカリブ海域周辺の親米独裁国家と断絶しつつ、カリブ海域での民主革命を推進する目的で戦後に結成されていた国際革命支援組織カリブ軍団を支持するなどしたため、アメリカ政府からは「容共的」との警戒を招いたが、干渉はなかった。
 こうして、革新民政最初の政権となったアレヴァロ政権は20回を越えるクーデター未遂に見舞われながらも、中和的なバランス感覚によって政情不安を乗り切り、6年の任期を全うした。ただし、この政権はアレヴァロ個人の哲学と性格とに支えられていた面が強く、その継承は困難であったことが革命の行方を左右した。
 もっとも、アレヴァロ政権下の与党として、革命行動党が結成されたものの、同党はその名称からしても、革命に参加した諸派の連合体であったため、統一的な政党としては育たず、急進派と穏健派の間で内紛と分裂を繰り返した末、次期政権下、1954年の反革命クーデター後の強制解散措置により、解体される。


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