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近代革命の社会力学(連載第258回)

2021-07-06 | 〆近代革命の社会力学

三十八 アフリカ諸国革命Ⅰ

(2)ルワンダ革命/ブルンディ革命

〈2‐3〉トゥツィ強硬派とブルンディ共和革命
 ベルギー統治下のルアンダ‐ウルンディの南半分に相当するブルンディも、多数派フトゥと少数派トゥツィという基本的な民族構成の点では共通であるが、その独立及び独立後の歩みはルワンダとは対照的に、少数派トゥツィの支配が継続されたのであった。
 ブルンディのフトゥ族の間でも解放への希求は見られたが、ルワンダにおけるような政治的に組織された「フトゥ・パワー」の隆起が見られなかったため、トゥツィ系の君主制がひとまず護持された状態で、君主国として独立を果たしたことが、ルワンダとの相違である。
 1915年から半世紀近く在位していた独立当時の国王ムワンブツァ4世は立憲君主制を目指しつつ、フトゥとトゥツィの民族的な均衡を保つことに執心し、首相を両民族から交互に任命するなどしたが、フトゥ族の不満を抑制し切れず、1965年10月にフトゥ系勢力によるクーデターに見舞われた。
 このクーデターに先立つ同年5月には、独立後初の議会選挙が行われ、トゥツィ系主体の国民進歩連盟(UPRONA)が圧勝していた。ルワンダとは反対に少数民族系政党が選挙で多数党となったのは、UPRONAがフトゥ族にも一定浸透していたためもあった。
 この選挙結果に不満のフトゥ系強硬派の国家憲兵隊軍人らが企てたのが、65年のクーデターである。クーデター自体は失敗に帰したにもかかわらず、身の危険を感じたムワンブツァ4世は国外に脱出した。その後、王は66年7月、今度はトゥツィ系強硬派のクーデターにより廃位され、18歳の王太子がンタレ5世として即位した。
 このクーデターを指揮したのは、トゥツィ系のミシェル・ミコンベロ大尉であった。彼は23歳で国防大臣となった異例の青年将校であったが、ンタレ5世は即位後、ミコンベロを首相に抜擢した。こうして、10代の国王と20代の首相という異例の青年コンビの統治が開始されたのであるが、長くは続かなかった。
 1966年11月、ンタレ5世が国賓として隣国コンゴを訪問中、ミコンベロ首相がクーデターを起こす。このクーデターは王の交代では終わらず、クーデター後、ミコンベロを長とする国家革命委員会が設置され、君主制の廃止と共和制への移行が宣言された。
 こうして、66年11月クーデターは政体の変更に進んだため、共和革命となった。もっとも革命委員会はミコンベロ以下、軍将校のみで構成されたため、限りなく軍事クーデターに近い軍事革命であったが、以後、ブルンディの共和制は今日まで恒久化している。
 ミコンベロがンタレ5世を裏切る形で革命に出たのは、事前の計画通りか、それとも両者間で確執があったのか詳細は不明であるが、ミコンベロも党員であったUPRONAにとって、民族バランスに腐心する君主制はトゥツィ系少数支配の障害と認識されていたことはたしかである。
 かくして、新生ブルンディ共和国の初代大統領にはミコンベロが就き、以後のブルンディではUPRONAの一党支配を通じたミコンベロの独裁体制が76年まで続く。この間、72年にはフトゥ族の反乱を契機に、ミコンベロ政権が報復戦を展開し、10万人とも言われるフトゥ族を殺戮した。この時、復帰を図ったとされる廃国王ンタレ5世も殺害されている。
 ミコンベロは、同時代の隣国ルワンダでフトゥ優位の独裁政治を展開したカイバンダに匹敵する人物であるが、明確に反共・親西側の立場をとったカイバンダとは対照的に、半社会主義的な政治を展開しつつ、冷戦期の東西両陣営に対しては中立的な立ち位置を保った。
 ミコンベロも1976年の軍事クーデターにより失権、亡命に追い込まれたが、彼が確立したトゥツィ系支配体制は再度のクーデターをはさみ、90年代まで続く。しかし、初のフトゥ系政権への交代を機に民族紛争が激化、2005年に終結するまで10年越しの内戦に発展したのである。


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