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近代革命の社会力学(連載第172回)

2020-11-25 | 〆近代革命の社会力学

二十三 チリ社会主義革命

(5)早まった革命の瓦解と事後的結党
 ダビラ暫定大統領による政変で、チリ社会主義共和国は第二段階を迎えるかに思われたが、頼みの陸軍との亀裂から、1932年9月13日に辞職に追い込まれ、陸軍出身の内相バルトロメ・ブランシュに地位を譲った。
 基本的には、この新たな政変により社会主義共和国は事実上終焉したと言えるが、ブランシュも政権閣僚だったことを考慮すれば、共和国は形式上まだ存続していた。
 しかし、10月に陸軍の一部が反乱を起こし、ブランシュも一か月持たずに辞職、後任は最高裁判所長官に委ねられたが、これはもはや政権の清算と革命前の体制の回復への過渡的な過程にほかならなかった。
 こうして、チリ社会主義革命は100日余りの天下で幕引きとなるのであった。結局のところ、チリにおける社会主義革命は恐慌後の社会的な混乱を背景として突発的に生じたもので、準備不足の早まった革命であることを免れなかった。
 この100日余りの期間は、独立以来のチリの歴史の中ではごく短い異例の一幕にすぎなかったが、社会主義政権は大恐慌後の経済危機に対応する緊急措置に関しては、平常時の政権では成し得ない対応を矢継ぎ早に実行したという点で、危機対応政権としての意義はあったと言えるかもしれない。
 また、同時期の欧州やチリ以外のラテンアメリカ諸国では、恐慌を契機にファシズムが台頭し、ナチスドイツをはじめ、いくつものファシズム体制が樹立されたのとは対照的に、チリでは社会主義革命を経験し、ファシズム体制の台頭を阻止した点でも、特筆すべきものがある。
 もっとも、社会運動のレベルではチリにもファシズムの波は発生し、特にドイツ移民の多いチリではナチスに同調するチリ国家社会主義運動がドイツ系チリ人の支援を受けて伸張し、1938年にはクーデターを企てたが、時のアレッサンドリーニ自由党政権によって武力鎮圧された。
 一方、社会主義陣営では、組織化の欠如が革命の早期挫折を招いたことの反省も踏まえ、革命翌年の1933年、改めて社会主義政党としてのチリ社会党が結成された。社会主義革命が事後的に社会主義政党を産み落とすという異例の事例である。
 党総書記には社会主義革命の主要メンバーでもあったマーマデューク・グローベが就任し、同じくマッテや元暫定大統領のダビラも入党したほか、後に社会党初の大統領となるサルバドール・アジェンデも若手党員として参加している。
 チリ社会党は、1930年代、ファシズムに対抗するため、共産党をはじめとする幅広い革新政党を糾合するソ連・コミンテルンの新戦略・人民戦線の中核となり、1938年には急進党のルイス・アギーレを大統領に当選させることに成功している。
 これ以降、人民戦線は40年代に民主戦線と改称しながらも、急進党出身の大統領を連続して選出する革新的選挙連合として、第二次大戦をまたぎ終戦直後まで継続されていく。その結果、総じて、社会主義革命終息後のチリ政治は、急進党の時代を迎えた。
 1938年から第二次大戦後の短い中断をはさんで52年まで6人の大統領を輩出した急進党は社会主義政党ではないが、反教権主義の中道左派的な位置を占める政党であり、このような革新政治の定着も社会主義革命の間接効果と言えるかもしれない。


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