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近代革命の社会力学(連載第389回)

2022-03-02 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(5)チェコ/スロヴァキア分離革命

〈5‐3〉チェコとスロヴァキアの分離
 1989年12月に共産党独裁体制が崩壊したことで一段落したチェコスロヴァキアにおける「ビロード革命」はその後、1990年6月の連邦及びチェコとスロヴァキア各々での統一選挙の結果、連邦(及びチェコ)ではチェコの民主組織「市民フォーラム」が第一党、スロヴァキアでは民主組織「暴力に反対する公衆」が第一党(連邦では第二党)につく結果となった。
 これにより、非共産党系政権が全土で正式に発足することになったわけであるが、このことは連邦を構成するチェコとスロヴァキアの分離へ向けたプロセスの始まりでもあった。このプロセスも流血なしの交渉によって進められ、最終的に1993年1月1日、両国は正式に分離独立したため、これも「ビロード解体」と通称されることがある。
 元来、「プラハの春」以来、チェコスロヴァキアで何らかの変革をしかけてくるのは、劣勢に置かれていたスロヴァキアの側であった。89年革命自体も端緒はスロヴァキアの学生蜂起であり、チェコ側は押される形で革命潮流に乗っている。
 分離プロセスもまた、スロヴァキア側が提案し、攻勢をかけていった。90年統一選挙の翌月にはスロヴァキア国民議会が一方的に国家主権宣言を採択したのが最初の大きな動向であるが、これに対しチェコ側は抑圧姿勢を見せず、基本的に連邦解体に同意したため、その後のプロセスは平和的交渉に委ねられることとになった。
 とはいえ、長く連邦体制を維持してきた関係上、その急激な解体は容易でなかったが、1990年11月に連邦議会が可決した連邦終了基本法をもとに、2年間の経過措置を経て92年12月末日をもって連邦を解体することで合意が形成された。
 その間、領土や国有資産、各種社会基盤、通貨といった重要な分野における二国分割の協議が展開されていくが、これは法に基づく政府間協議であり、こうした分離問題に付きものの流血事態を見なかったことは奇跡とも言え、同時期に同様の連邦解体問題に揺れ、流血事態や内戦を経験したソヴィエト連邦やユーゴスラヴィア連邦とは好対照の範例となった。
 結局のところ、チェコスロヴァキアにおける1989年革命は脱社会主義革命にとどまらず、1918年のオーストリア革命によるオーストリア‐ハンガリー帝国からの独立以来のチェコとスロヴァキアの統合という理念からの離脱も結果したのであった。
 この二国分離プロセスは現象上は1989年の革命と区別することもできるが、大きく見るならば、89年革命あって初めて平和的に遂行することができたという点で革命の第二段階とみなすこともできる。そう見れば、チェコスロヴァキアにおける革命は、連続革命の中でも、最も長いプロセスかつ最終の締めくくりを成したものと見ることもできよう。


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