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近代革命の社会力学(連載第147回)

2020-09-21 | 〆近代革命の社会力学

二十 エジプト独立‐立憲革命

(1)概観
 近代革命の歴史において、エジプトは興味深い事例を提供している。この国では、1881‐82年の失敗に終わった立憲革命に始まり、世紀をまたぎ、1919年‐23年の独立‐立憲革命、さらに1952年の共和革命と、おおむね30年乃至40年という間隔を置きながら、革命が段階的に進展していくという経過をたどった。
 エジプトも包含されるアフリカ大陸は、20世紀初頭までに、東部のエチオピアと西部のライベリア(誤称リベリア)を例外として、全域が西欧列強各国に分割され、植民地ないしはそれに準じた保護国名目で西欧に従属する状態になっていた。エジプトも例外ではなかったが、ここでは、奇妙な二重支配の状況下にあった。
 エジプトは16世紀以来、オスマン帝国の版図に入っていたが、ナポレオンによるエジプト遠征・占領が失敗に終わった後、帝国から派遣されてきたアルバニア人傭兵隊長ムハンマド・アリーがエジプト総督となり、オスマン帝国から事実上独立した王朝を形成した。
 ムハンマド・アリーはある種の啓蒙専制君主であり、事実上のエジプト君主の権限において、エジプトの近代化を強力に推進し、その政策は彼の子孫である歴代君主にも継承された。
 しかし、フランス軍を撃退する際にオスマン帝国に支援介入したイギリスの宗主的影響力、さらにはスエズ運河建設に寄与したフランスの経済的支配力も強まり、英仏の内政干渉が構造化されていった。
 一方、ムハンマド・アリー朝下でも、形式上はオスマン帝国版図であったため、トルコ人が優遇され、先住のアラブ人が劣遇される構造は変わらず、このことへのアラブ人の不満を背景に、アラブ系職業軍人であったアフマド・ウラービ大佐に指導された立憲蜂起が発生した。
 この蜂起はイギリスの軍事介入によって鎮圧され、イギリスはこれ以降、ムハンマド・アリー朝を統制する形で、エジプトを間接支配するようになる。こうして、形式上はオスマン帝国版図ながら、イギリスが実質支配するという変則的な二重の外国支配体制が成立する。
 このような複雑な状況を脱するには、やはり第一次世界大戦による地政学上の構造変化を利用しなければならなかった。大戦渦中、形式上の宗主国オスマン・トルコと争うことになったイギリスはエジプトを保護国化したが、このことはかえって大戦後、エジプト人のナショナリズムを刺激し、独立・立憲革命への道を整備したのである。
 もっとも、1919年‐23年の革命は共和革命まで進展せず、ムハンマド・アリー朝自体はなお温存されたため、エジプトにおける共和革命は第二次世界大戦を越えた1952年を待たねばならなかったし、ムハンマド・アリー朝を介したイギリスの影響力を完全に排除するのも、同様に共和革命後まで持ち越しであった。


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