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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

人類史概略(連載最終回)

2013-11-28 | 〆人類史之概略

第8章 電気革命以後(続き)

不均等発展のゆくえ
 19世紀末に始まる電気革命は、人類の生産様式のみか、生活様式そのものを根底から変革したと言ってよい。電気が、現生人類の生活様式の物質的基礎となった。電気革命とともにあった20世紀は、おそらくそれ以前のどの世紀よりも、世界を劇的に急変させた。  
 とはいえ、最初の電気革命から100年以上を経た現在でも、電気と無縁の生活者は全世界に14億人存在するとされる。ましてコンピュータと無縁の生活者となれば、いわゆる先進諸国民をも含めて、それをはるかに上回るだろう。というように、電気革命の成果は全世界にあまねく行き渡っているわけではない。
 元来、人類史は先史時代を含めて不均等に発展してきたが、電気革命以後はそうした不均等がいっそう拡大したのである。実際、24時間イルミネーションに彩られた大都市があるかと思えば、いまだ文明世界と接触を断ったままの未接触部族の密林集落も存在している。
 要するに、現生人類ご自慢の「文明」そのものが、決して地球全域で普遍的なものとはなっていない・・・。他方で、電気と石油の結合以来の生産活動の飛躍的拡大は、人類出現以前から周期的に生じていた地球温暖化の人為的要因の比重をかつてないほど高め、地球環境の持続可能性にも黄信号をともすに至っている。
 そういう岐路に立つ人類史は今後どんな方向に向かうのであろうか。考えられる三通りのシナリオがある。
 一つは、このまま永続的に電気革命の道を歩み、まさに全世界を電化するというもの。このシナリオは、20世紀末以降、資本主義がグローバルに拡散していく中、世界の資本家・経営者とそのパトロン政治家たちの支持するところである。
 このシナリオによれば、いずれ地球は昼夜を問わず電気のともった不夜城の惑星となるだろう。しかし、それは地球環境の持続可能性をいっそう危殆化させることになる。
 もう一つのシナリオは電気を捨て、電気革命以前へ立ち戻るというもの。このシナリオは、電化大国の米国内で、しかも実用コンピュータ発祥地ペンシルベニアを中心に、電気を使用しない生活を営むドイツ‐スイス系のキリスト教少数宗派アーミシュの人々がすでに実践している。
 しかし、このようなアーミシュ的生活様式を普遍化するのは無理であろう。人類は、総体としてはもはや電気革命以前に後戻りすることができない地点まで来てしまっているからである。
 三つめのシナリオは、電気革命の成果を環境的持続可能性の枠内で維持していくというもの。このシナリオは今日、世界の最も良識ある各界の人々によって提唱されているところである。
 しかし、実現の道は険しい。そもそも電気の大量消費に支えられた資本制生産様式がこのような中庸の道を容易に許すとは考えられないからである。生産様式の変革なくしては、このシナリオは結局のところ、第一のシナリオに併呑されていくだろう。
 いずれにせよ、現生人類20万年に及ぶ前半史において、現在一つの大きな分かれ道にさしかかろうとしていることは、確かなことである。(連載終了)

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人類史概略(連載第19回)

2013-11-27 | 〆人類史之概略

第8章 電気革命以後(続き)

電動機から電算機へ
 19世紀に始まる電気革命を大きく二期に分ければ、発電機・電動機の発明を中心とした「第一次電気革命」に対し、20世紀半ばにおける電算機の発明を「第二次電気革命」と位置づけることができる。
 第一次電気革命の主役はドイツ・米国であったが、第二次電気革命の主役は圧倒的に米国である。従って、これ以降の用具革命はほとんど常に米国が主導していく。
 最初の機械式電算機はあまり知られていないドイツ人発明家ツーゼが1938年に開発したが、より完全な最初の電算機は1946年、米国のペンシルベニア大学が開発した。これを機に、1950年には初の業務用電算機が開発され、その後も米国系企業による電算機の改良的開発が続発していく。その結果は、周知のとおりの「情報社会」の到来であった。
 発達した電算機はもはや単なる計算機ではなく、人間の脳に代行して様々な業務をこなす半有機的な頭脳機械であり、いわゆるコンピュータを「電算機」と訳すのは誤りとは言わないまでも、不正確となりつつある。おそらく中国語訳の「電脳」のほうが実態に沿うかもしれない。
 こうした電算機の発明に始まる第二次電気革命は、工業のみならず、商業のあり方をも変革し、商取引と付随業務のコンピュータ処理・オンライン化が進展し、国境を越えた敏速な取引決済が実現するようになった。
 さらに第二次電気革命の余波としてのインターネットの全世界的普及―別個の「第三次電気革命」と位置づけることもできなくない―は、世界中のコンピュータをネットワーク化することにより、20世紀末に起きた資本主義革命の世界輸出を可能とし、地球全体を資本主義一色に染める勢いを示している。いわゆる「グローバル化」とは、そうした電気革命以後における資本主義の地球規模化を示す標語である。
 グローバル化された資本主義においては、物より情報の流通が先行するから、工業と商業の区別も曖昧となり、資本を媒介する情報産業が投資銀行と並ぶ主役となる。 
 第二次電気革命はまた、労働世界にも重大な変化をもたらした。すでに18世紀の機械革命によって機械が人間の労働者に取って代えられる事態は始まっており、有名なラッダイト運動はそうした労働者の危機感を背景とした打ちこわし運動であった。
 電気革命は工場のオートメーション化、商業オフィスのオンライン化の波を作り出し、当然にも労働者の削減を結果している。今後さらにコンピュータの性能が高度化し、コンピュータのロボット化が進めば、人間の作業の大半をロボット=コンピュータが代行することも考えられる。
 そうなると、人間の労働者はいよいよ削減される。資本主義の代名詞であった賃労働が例外的なものとなる可能性もあるのだ。そうなると、人類史は言わばロボ・キャピタリズムの時代に入ることになるだろう。 

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人類史概略(連載第18回)

2013-11-26 | 〆人類史之概略

第8章 電気革命以後

電気革命と高度資本制
 18世紀に突破口が開かれた機械革命は、次の19世紀に入ってもなお途切れることなく、今日まで連続革命的に継起しているが、19世紀における画期は電気の普及であった。
 電気という物理現象自体は古代から気づかれていたと言われるが、これを単なる物理現象としてではなく、産業的な動力源として実用化し得るようになったのは、19世紀も末以降のことである。
 18世紀機械革命の象徴として登場した蒸気機関は動力源として画期的であったが、エネルギー効率の点ではいまだ後進的であった。これに対して、電気を動力源とすることはエネルギー効率を高め、生産活動をいっそう大量化・高度化する契機となったし、市民の日常生活をも大きく変革していくのである。
 電気革命初期の20世紀初頭にロシア革命を指導したレーニンは「共産主義とは、ソヴィエトプラス電化である」という言葉を残したが、これをもじれば「資本主義とは、マネープラス電化である」と定義づけすることもできるだろう。
 こうして発電機が発明されたことを契機に電気の実用が始まって以降の用具革命のプロセス全体を「電気革命」と規定することができるが、現時点の人類もそうした「電気革命以後」の時代を生きていると言える。
 電気革命は同時に、新たなエネルギー革命を伴っていた。すなわち石炭から石油への転換である。電気と石油が結ばれたことで、生産活動は量的にも質的にも飛躍していく。
 この間、用具革命の主役にも入れ替わりがあった。18世紀機械革命の主役は何と言っても英国であったが、続く電気革命の主役は英国からドイツ・米国に移っていくのである。
 電気革命においても、最初のきっかけは発電機を発明したファラデーのような英国人が作っているが、実業家としても大資本ジーメンス社の創業者として成功を収めるドイツ人発明家ジーメンスや米国の発明王エジソンが出た頃から、電気工学分野の主要な発明はドイツや米国で打ち出されていくようになる。
 その理由を確定するのは難題であるが、ドイツや米国はいずれも後発資本主義国として、英国に追いつき、追い越すことを目標として驀進していく中で、新たに登場した電気技術の開発を基軸的に追求していったことが考えられる。
 こうして19世紀末から世紀をまたいで20世紀初頭にかけての電気技術の発達は、工場の自動化を推進する大きな力となり、より効率的で集約的な大工業を可能とし、工業に基盤を置いた資本制の高度化を促進する。米国やドイツには、大規模な独占・寡占企業体が出現し、英国型の国家に後援された個人資本家の資本主義を凌ぐ今日的な法人資本主義の先駆けとなっていった。
 他方、20世紀に入ると、ロシア→ソ連をはじめ、資本主義に反発して、社会主義体制を標榜する諸国が現れたが、それは土地私有制を否定し、国家に産業労働の主導権を与えた限りで(国家社会主義)、東洋的な公地公民制の近代的な再現に近い側面があった。しかし、この体制は結果として、言わば国家が独占資本家に比定される国家資本主義に収斂していった。

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人類史概略(連載第17回)

2013-11-13 | 〆人類史之概略

第7章 機械革命と資本制(続き)

資本制の発達
 資本制が最も早くから発達したのはイタリアとされるが、その最も早い完成者はやはり英国であった。その推進力となったのは、18世紀機械革命とその下での工場制度の発達である。
 機械を配備する工場を基盤とした機械制工業は生産財と人材とを集約化した生産体制を備え、それは伝統的手工業の場であった職人工房の非能率を克服し、大量生産への道を開いた。こうして、資本制は新しい工業の発達を物質的な土台として完成される。
 このように資本制の土台に工業が存することは、今日的な「情報資本主義」の時代にあっても不変である。一見抽象的に見える情報産業も一つの「工業」であり、その根底には18世紀以来の機械革命の基礎があるからである。その意味で、しばしば聞かれる「脱工業化」という時代認識はいささか表層的である。
 とはいえ、工業だけで資本制が成り立つわけではなく、商業の飛躍的な発展も重要な要素である。それは交通機関の発達によってもたらされた。さしあたりは19世紀初頭にやはり英国で相次いだ蒸気船、蒸気機関車の発明である。これ以降、海運・陸運の時間が急速に短縮化され、物と人の移動が活発になる。かくして、資本制とは工業的土台の上に築かれ直された商業とも言える。
 資本制はまた、賃労働者という新しい階層を生み出した。賃労働者とは法的には自由民でありながら隷従的であるというアンビバレントな存在であって、ある立場から言えば「賃金奴隷」(賃奴)ということになるが、中世の農奴が真の「奴隷」ではなかったのと同様、賃労働者も真の「奴隷」ではない。
 しかし「自由な隷民」という農奴以上にアンビバレントな賃労働者の特殊性は法と現実の容易に埋め難いギャップを生じさせ、賃労働者を保護する労働法がザル法となりやすい原因を成している。
 とはいえ、表向きは労働法によって「保護」された自由な隷民である賃労働者を大量的に使用することで成り立つ資本制とは、おそらく人類史上最も洗練された形態の隷民制であり、こうした資本制を自国の基軸的な経済体制として構築し得た国家は、最も近代的な隷民制国家と言えるであろう。
 このような近代隷民制国家はやがて帝国主義へと赴く。この場合も、英国―大英帝国―が最初の範例を示したのであるが、ここでの帝国はもはやかつてのローマ帝国が体現したような古代帝国とは異なり、自由貿易の御旗の下、資本投下先として海外侵略・植民地化を企てる帝国であり、その本質は経済帝国であった。
 ただ、近代帝国もローマ帝国のような古代帝国の基盤であった軍事力という物質的土台を欠いていたわけではない。それどころか、18世紀機械革命は兵器の革新の契機ともなり、大英帝国軍は当時世界最新鋭の軍隊として、まさに七つの海を支配するうえでの強力すぎる武器となったのである。

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人類史概略(連載第16回)

2013-11-12 | 〆人類史之概略

第7章 機械革命と資本制(続き)

機械革命の18世紀
 18世紀は人類史にとって大きな画期であった。その大きさは紀元後最大規模と言ってよいかもしれない。すなわち18世紀、とりわけその後半期は機械革命―それは紀元前の金属器の発明に次ぐ用具史上の大革命であった―の時代であって、これ以降、現在に至るまで用具革命が連続的に継起し、技術革新の進歩自体が加速化していく契機ともなった。
 18世紀以前にも中東などでは中世から機織を効率化する糸車のような簡単な仕掛けの手動「器械」は発明されていたが、それらは生産様式自体を変革するほどに生産活動の効率化には寄与しない用具であった。生産様式をも一変させるほど効率化に寄与するより複雑な機械の発明は18世紀の西欧、それも特に英国に集中的に現れた。
 なぜ英国かと言えば、それはイタリアに発祥したルネサンスの集大成とも言うべき17世紀科学革命の中心地が英国であったことと関連があるだろう。すなわちフックやニュートンらを生んだ前世紀の科学革命が、18世紀機械革命の知的土台となったのである。中でも二大発明と言えるのは、蒸気機関と紡績機―両者が結びついて蒸気力績機となる―であった。
 蒸気機関はいち早く18世紀初頭にニューコメンが初めて本格的に開発したが、同世紀後半にはワットがより効率的かつ実用的な蒸気機関を開発した。蒸気機関はエネルギーを機械的な仕事に変換する本格的な原動機の嚆矢となり、大規模な生産活動に要するエネルギー供給に寄与した。
 蒸気機関はまた次の世紀に入ると、船舶や鉄道といった交通機関の動力源として応用化され、古代以来の商業活動にとってアキレス腱であった流通の速度を飛躍的に高め、商取引の敏速と貿易の拡大とに寄与した。
 一方、紡績機は古くからの糸車に代わり、18世紀後半にはより効率的な紡績機が次々と開発・改良され、最終的に蒸気機関を動力源とするカートライトの自動織機(力織機)につながり、いわゆる産業革命の主要舞台となる紡績業の進歩を促進した。 
 また鉄器に関しても、18世紀にはこれまた英国で石炭を使用するコークス製鉄法が開発され、鉄の大量生産に道が開かれるが、それは各種機械製品の登場ともマッチしていた。そのことは当然にもエネルギー源としての石炭の需要を高め、従来の木炭から石炭へのエネルギー革命を結果した。
 こうした18世紀の機械革命は、職人工房が担った伝統的な工業活動のあり方を変え、未熟練労働力を集約し、同一規格品の機械的量産を可能とする工場制度という全く新しい生産様式を生み出したのだった。 

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人類史概略(連載第15回)

2013-10-30 | 〆人類史之概略

第7章 機械革命と資本制(続き)

資本制誕生前夜
 マルクスは、封建社会の経済構造の解体が資本主義社会の経済構造の諸要素を解き放した、といささか形式的な命題を立てているが、実際のところ、西洋でも封建制の解体から資本制の誕生までの間には相応のタイムラグがある。
 マルクスによると、資本主義が最も早くから発達したのはイタリアだとされるが、それは農奴制解体と農奴の都市労働者化が比較的早くから進んだ限りでのことであって、イタリアの資本主義的経済発展はかなり遅れた。
 むしろ資本制を準備したのは、ポルトガル、スペインが切り拓いた世界航路を利用して台頭したフランス、イギリス、オランダの重商主義であった。重商主義の革命性は、古代国家にせよ、封建制国家にせよ、従来国家の物質的土台がおおむね農業生産力に置かれてきたことを根本的に転換し、商業それも貿易に国家の物質的土台を置いたことにある。言わば、農本主義から商本主義への転換である。
 また重商主義は国家が商業活動を掌握し、国家に富を集中する点で、国富の蓄積の先駆けを成した。この点では、国家の経済的関与を最小限にとどめる自由主義経済体制とは異質的であって、その意味では重商主義をもって市場主義的な資本主義の直系の祖とみなすことはできないだろう。
 こうした国家主導の経済体制が可能になったのは、中央集権制の再構築が単純に国王への権力集中ではなく、政策集団としての官僚制(ないしはその萌芽としての国王顧問団)の発達を伴って行われたことの結果である。
 このような国家重商主義の中心地が先のフランス、イギリス、オランダであり、三国とも重商主義を象徴する国策会社・東インド会社を相次いで設立してこれを国家の経済的マシンとして駆使していく点では共通するが、それぞれの重商主義のあり方にはかなりの相違点があった。
 重商主義の典型例であったブルボン朝フランスでは官僚制の発達が高度に見られたが、その分、その経済的展開には官僚制特有の硬直さが見られ、初めからオランダ、イギリスには押され気味であった。
 一歩先行したのは新興国オランダであった。オランダは独立当初共和制という当時はまだ革新的な政体で始まり、王を持たない貴族寡頭制にして分権的な連邦制であり、東インド会社に対する中央政府の介入は少なく、政府の役割は支援的なものにとどまっため、ある意味では自由主義的な経済体制としてスタートした。このような柔軟さが、フランスやイギリスにも先んじて重商主義で成功を収める要因となったと言える。
 だが、最終的な勝者となるのは、イギリスであった。かの国では「イギリス絶対王政」の象徴とみなされるテューダー朝末期以降、重商主義が現れるが、イギリスでは「絶対王政」といってもフランスのような官僚制の発達は見られず、政策集団はせいぜい国王顧問団にすぎなかった。一方で、オランダのような共和制は清教徒革命後のクロムウェル独裁期に一時見られただけで、王制を基本とし、オランダほどに自由主義的ではなかった。
 こうした官僚制的ではない比較的柔軟な国家の支援的介入を伴うイギリス型重商主義は、当初オランダに遅れを取ったが、やがて強力な軍事力をもって小国オランダも大国フランスも圧倒し、首位に躍り出て、18世紀後半以降、資本制をいち早く確立するのである。
 以上の西洋的重商主義に対して、東洋では自覚的な形で重商主義を追求した体制は同時期には現れなかった。中国では遊牧国家モンゴルの支配下に置かれた元の時代、政府は交易を重視したが、間もなく農民王朝の明に取って代わり、古典的な朝貢貿易を伴いつつ農本主義的な政策がなお続いていく。
 徳川幕藩体制下の日本は「鎖国」政策により、貿易を厳しく制限する自給自足政策を取り続け、一時的に貿易拡大・商業重視の政策が現れたことはあるものの、根本的な政策転換にはつながらなかった。
 農業適地が限られた西洋に対し、農業地帯である東洋では農本主義的な国策が転換され、資本制が立ち現れるには、「近代化」を志向する人為的な社会革命を経る必要があったのである。

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人類史概略(連載第14回)

2013-10-29 | 〆人類史之概略

第7章 機械革命と資本制

封建制の崩壊・移行
 中・近世を特徴づけた封建制は、やがて中央集権制の再構築を狙う国家権力によって挑戦を受けることになる。中でも西洋封建制はいち早く崩壊していった。その中心地フランスでは16世紀末以降、絶対王政が成立する。
 このことには、またしても商業が関わっていた。中世も末期になると、西洋農村にも貨幣経済が普及し、封建領主も貨幣地代で所得を得るようになり、地主化していくが、収益力の乏しい領主は当然没落していく。さらにペストの大流行による農奴人口の減少による労働力不足も加わり、農奴は団結して解放闘争をするまでになった。
 一方で、貨幣経済の発達は商業都市の力を高めた。改めて商業の時代の到来である。封建制絶頂期には封建領主中の首席者にすぎない地位に甘んじていた国王はこうした商業都市の商人資本と結びつくことで資金力もつけ、経済的に優位に立つことに成功したのである。
 一方、マルクスが西洋以上に西洋的と評した日本の封建制は表見上維持されていたものの、近世に入ると徳川幕藩体制の下、中央集権的に脱構築されていった。
 中国では律令国家の公地公民制が崩壊した後に封建制と大地主制の中間形態的な土地制度が形成されたが、それは秦・漢以来の伝統であった皇帝中心の中央集権体制の内に組み込まれる形で清の時代まで続いていく。
 イスラーム世界でも新たな盟主となったオスマン帝国は君主スルターンへの権力集中と中央集権制の確立を強力に推進し、イスラーム世界でも発現していた封建的分裂状況を解消しようと努めた。しかし体制内在的に残存した準封建的なイクター制の系譜を引くティマール制が末期になると崩壊し、次第に地主制的な形態が現れ、分裂が進行したが、これはむしろ近代的土地私有制度の萌芽であった。
 これに対して、中南米で特徴的な大地主制型の封建制は中央集権国家の挑戦を受けることなく、その体制内に深く埋め込まれ、近現代まで引き継がれていく。これは、このタイプの封建制が所有権の観念に立脚しており、近代的所有権制度への移行の意義を持っていたことと関連しているだろう。
 いずれにせよ、封建制崩壊期ないし移行期には、農奴にせよ小作人にせよ、こうした隷民の地位と自由が相対的に上昇・拡大し、労働者化していくが、これは来たる資本主義的賃労働の時代を間接的に準備したと言えよう。

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人類史概略(連載第13回)

2013-10-15 | 〆人類史之概略

第6章 農業の発達と封建制(続き)

封建制の中・近世
 周の封建制は一つの広域統治の技術にすぎなかったが、封土という観念の遠い先駆けではあった。一方、ローマの大土地所有制は封建制までは進まなかったが、没落農民を小作人として使役したコロナートゥスに至り、農奴を使役する西洋中世の封建制の伏線とはなった。
 こうして、中世から近世にかけては、世界的に封建制が普及した。といっても、ここで言う「封建制」とは広い意味における包括概念であって、西洋中世の封建制はその最も典型的な―それゆえに例外的な―形態にすぎない。
 広い意味での封建制の中には、大別して「領主制」と「大地主制」とが見られた。前者の領主制は西洋中世の封建制の別名であり、領主が自己の封土を一円的・排他的に支配する形態のものである。といっても、それが典型的に発現したのは、西洋でもフランスを圧倒的な中心として、あとは一時期のイングランドくらいのものであり、その余は半領主制といった体のものであった。
 興味深いのは、日本の近世の大名制度が西洋封建制と類似していることであるが、少なくとも徳川時代に入ると、藩主となった大名に対して幕府は改易・転封などの処分を科す権限を留保していたから、これは典型的な封建制とは言えず、中央集権制の萌芽であった。
 ただ、領主が主君たる君主―将軍を「君主」とみなせるかは問題だが―から与えられた封土を一円支配することに封建制の重点を見るならば、「日本は、その土地所有の純封建的な組織とその発達した小農民経営をもって・・・・われわれのすべての史書よりはるかに忠実な西洋中世の姿を示している」とのマルクスの指摘は妥当するかもしれない。
 他方、大地主制の典型は、それが現代まで根強く継承されている中南米などに見られる。この場合、大地主は封土を与えられた領主ではないから本来的な意味での封建制に当たらないが、大地主が小作人を従属的に使役しつつ、自己の農園を排他的に支配する限りでは広い意味での封建制の一形態に包括できるものである。ただ、この形態は領主制のような封土の観念によらず、所有権の観念による点で、すでに近代的な土地所有制度への過渡的形態とも言えたであろう。
 なお、領主制と大地主制の中間形態として、官僚などに中央政府から領地が支給された均田制崩壊後の中国や朝鮮の制度がある。また騎士が分与地の徴税権を委託されるイスラーム圏のイクター制のような準封建制とも言うべき形態もあった。この制度は騎士に領主権を認めるものではなかったが、これも次第に私有地化していくことを免れなかった。
 こうした広い意味での封建制は農業の発達がもたらしたものであったが、逆に封建制の発達が農業の発達を促進した面もあった。特に領主制の下、領主らは自己の封土で競争的に農業開発を進め、西洋中世ではようやく始まった鉄製農具の使用も加わり、技術の進歩によって農業生産力の拡大を実現したのであった。また大地主制の場合も、地主たちが自己の農園の収益性を上げるために努力したことで農業はいっそう発達した。

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人類史概略(連載第12回)

2013-10-14 | 〆人類史之概略

第6章 農業の発達と封建制

領土の拡大と分裂
 国家ははじめ、都市域を単位とする国家(都市国家)として成立したが、強力な都市国家が周辺の弱小都市国家を征服・併合して支配域を拡大し、領域国家へ成長していく。
 こうした領域国家は王(皇帝)によって統治されるのが通例であったが、当然にも広大化した領土を一人の統治者が完全に掌握することは技術的に不可能であった。
 そこで、アッシリアのように領土を属州に分けて、王の代官としての総督を置く方法が発明されるが、そのような分権化はまだ封建制の域には達していないものの、古代領域国家の解体への道であった。実際、アッシリア滅亡後、オリエントの覇者となるアケメネス朝ペルシャのように、最期は属州総督の反乱によって分裂・崩壊した例もある。
 封建制という術語のもとになったのは、古代中国の周王朝の統治制度であった。中国王朝は周知のとおり内陸の広大な平原地帯であるいわゆる中原を支配する関係上、中央集権を貫徹することが困難であった。そこで、周王朝は主に王族を各地に配置し封土を与え、宗族関係に基づいてその統治を委ねるシステムを編み出した。逆説的にも、領土を分封することが広大な国家の統一性を維持する秘訣となったのである。

農耕の拡大と土地私有制
 国家の分裂は、経済的に見れば農耕の拡大と不可分であった。農耕が拡大していくと農地面積も広がり、領域的な農園と呼ぶべきものも現れ、農耕が一つの産業として―まさに農‐業―発達していく。
 領域国家の領土の主要な部分は農地から成るようになり、土地=農地問題が重要な政治問題として浮上してくる。そうした農‐政が最も深刻な政争の具となったのは、共和政時代のローマであった。
 共和政時代のローマでは、元老院議員らの貴族が征服した属州で国有地を借り受けたり、事実上占有したりする形で奴隷を使役した農園経営を始め、実質上の大土地所有制が成立する。これにより、土地持ち中小農民の没落と都市貧民化が加速したため、改革者グラックス兄弟が土地の均分化を志向した改革に着手する。しかし貴族層の強い反発を招いて成功せず、兄弟ともに命を落とす結果となった。
 最終的に、ローマでは奴隷に代わり没落農民を使役するコロナートゥスという新たな農園経営手法が登場し、ローマ帝国末期にはこうしたコロナートゥスが一種の荘園と化し、帝国の封建的分裂が進行し、西洋中世を特徴づける封建制の伏線となる。
 同様の経過は、公地公民制が崩壊した後の中国や日本でも見られた。ただ、中国の場合、荘園は不輸・不入の権利を持つには至らなかったが、日本では西洋封建制に類似した不輸・不入の権利を持つ荘園制が発達していく。
 結局のところ、洋の東西を問わず、土地私有化に対する人間の欲望を抑制することに成功し得た国家は現れなかったのである。

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人類史概略(連載第11回)

2013-10-02 | 〆人類史之概略

第5章 国家の成立と隷民制(続き)

隷民制国家
 古代国家の物質的土台が鉄にあったとすれば、もう一つの物質的‐経済的土台は隷民制に置かれていた。すなわち、成功した古代国家はみな効率的な生産活動のために人を動員・隷従させるシステムを巧みに構築し得た国家であった。
 遺憾なことではあるが、現生人類は無力な同胞を隷従させて自己利益の拡大のために使役することを躊躇しない傾向性を共通して持つ。このことは、今日まで一貫して変わっていない。
 そうした隷民制の究極は奴隷制であるが、隷民制=奴隷制ではない。奴隷制は隷民制の中の最も典型的な類型にすぎず、奴隷にウェートを置かない隷民制の諸形態も種々存在するからである。
 そうした点で、古代エジプトは王を究極的な頂点とし、隷民制を巧みに組織して強国となった先駆者であった。ただ、古代エジプトでは奴隷は家内奴隷が中心で、生産活動におけるウェートは小さかった。しかし王(ファラオ)は民を動員して巨大建造物の建設に従事させるだけの動員力を保持していた。
 古代において奴隷制を最も広く活用したチャンピオンは古代ギリシャ・ローマであった。とはいえ、ギリシャでもアテネの私有奴隷とスパルタの国有奴隷には違いがあったし、ローマの奴隷はしばしば解放されて市民権を得ることもあった、というように各々特色を備えていた。
 隷民制の最も洗練された形態は、東洋の公地公民制律令国家に現れた。この体制では奴隷はとして国家や豪族によって使役されたが、生産活動におけるウェートは低く、むしろ王(皇帝)が領有する隷民としての農民を生産活動の主要な担い手とする体制―マルクスの言う「総体的奴隷制」―であって、土地も王に属するという点では、ある種の国家社会主義の先駆け―隷民制社会主義―であった。
 しかし、この体制はあまりにも理念型的であり過ぎて、結局は経済的現実を前に貫徹されることなく、その発祥地中国でも継受した日本でも土地私有制度の発達を食い止められなかった。人類の強欲さという性格は、土地に対する私有の欲望を規制することを困難にし、「公地」という土地国有化原則は形骸化・崩壊の道を歩むべく運命づけられていたのである。
 こうした隷民制古代国家はほとんどの場合、頂点に王を戴く王制を上部構造として持っていた。国家の長たる王が人民を国土ごと領有するというのが最も単純明快な国家の原初形態であったわけである。
 もっとも、古代ギリシャのポリスや共和制時代のローマのように、都市国家の中には王を擁しない革新的な共和制も見られたが、古代共和制はいずれも例外的・一時的な体制であって、やがてマケドニア帝国や帝政ローマのような王制へ吸収・回帰することを避けられなかった。

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人類史概略(連載第10回)

2013-10-01 | 〆人類史之概略

第5章 国家の成立と隷民制

鉄器革命と国家
 商業=都市革命によって、とりわけ早くから啓けた西アジア・エジプト地域には多くの都市が誕生していった。これら都市はメソポタミアのシュメール諸都市のように都市ごとに王を擁する都市王国に発展したり、エジプトのように都市群を束ねる形で早くから統一国家が形成されたりと、経緯は様々ながらそれぞれ国家という新しい社会体制へ発展していった。
 しかし、物質的にもその持続性を担保された真の国家が成立するには、鉄器の発明という用具革命における新たな画期を経る必要があった。そうした鉄器革命の発祥地となったのはアナトリアに興ったヒッタイト王国であった。
 その担い手ヒッタイト人については不明な点が多いが、言語から見るとインド‐ヨーロッパ語族の古い分派と見られ、オリエントに広く展開するアフロ‐アジア語族系の集団に対して、脇から現れた新興の強力なライバル集団であった。
 ロシアの黒海周辺が原郷とされるヒッタイト人の最大の強みは当初は騎馬戦力であったが、やがて秘伝の製鉄技術を独占し、鉄製武器を開発したことで、エジプトに比肩し得る強国に成長した。おそらく世界史上最初の「帝国」と真に呼び得るのはこのヒッタイト帝国であったが、その物質的な基盤は鉄にあったのである。 
 ヒッタイト帝国は前14‐13世紀に全盛期を迎えた後、前12世紀に入ると国力が衰え、同世紀に地中海から侵入してきたギリシャ系を主体とすると見られる混成海賊集団「海の民」の襲撃破壊なども加わり、滅亡に至る。しかしこれ以降、ヒッタイト秘伝の製鉄技術はオリエント全域に普及していき、国家の物質的な基盤として広く活用されるようになる。

古代国家の発展
 こうして最初期の国家(古代国家)は鉄―とりわけ鉄製武器―を基盤として成立する。このことは、ここでもシュメール都市国家が先駆的に示していたように、国家の発展にとって軍事力がものを言う以後現代に至るまで続く人類社会前史最大の嚆矢でもあった。
 そうした古代国家の成立・発展もやはりオリエントが先駆的であったが、中でもヒッタイト滅亡後の西アジアにおける新たな覇権国家となったのはセム語派系のアッシリアであった。
 おおむね前2千年紀に始まるアッシリアの歴史はまず中継貿易のような商業を基盤とした都市国家として勃興し、やがて農業生産力にも支えられながら領域支配を拡大し、古代国家として発展していくプロセスを明瞭に示している。
 アッシリアは前10世紀のいわゆる「新アッシリア時代」に入ると、鉄製武器で武装した強大な地上軍を組織して征服活動を進め、前7世紀前半には当時衰微しつつあったエジプトをも支配下に収め、後にアケメネス朝ペルシャやローマ帝国が体現する「世界帝国」の不完全な原型となった。
 「世界帝国」としてのアッシリアの支配は属州制と駅伝制を組み合わせ、情報通信手段の乏しい時代に情報を基盤とした広域支配であった。情報は軍事とも商業とも密接に関連するが、国家がその領域支配を拡大し、異民族支配を打ち立てる上では不可欠の非物質的要素であり、こうした「情報統治」はアケメネス朝ペルシャやローマ帝国にも引き継がれる新しい統治技術であった。

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人類史概略(連載第9回)

2013-09-18 | 〆人類史之概略

第4章 商業革命と都市の成立(続き)

商業=都市革命
 通常、農耕の開始を「革命」と呼ぶことはあれ、商業の開始を「革命」とはあまり呼ばない。しかし交易の大量反復化としての商業の開始は、単なる物品ではなく、初めから交換に供する目的を帯びた「商品」の生産を結果した点で、人類史上もう一つの大きな生産経済革命であった。
 それはまた都市の成立を促す一大要因でもあった。農耕の発達は農村の大規模化を促進していたが、それだけで農村が即都市に変貌したわけではない。都市化は商業活動によって促進されたと考えられる。
 その際、原始遊牧民の役割は小さくなかったであろう。遊牧生活は農耕民の牧畜活動から派生したものだが、一箇所に定住しない遊牧民は交通機関の役割を担い、農耕民と商取引関係を結び、農村の点と点をつないだ。
 かれらはまた流民として農村に流れ込むこともあり、農村は次第に新規メンバーを加え都市化され、あるいは遊牧民の商業拠点が常設の都市化することもあっただろう。
 都市の成立を促したものとして宗教という要素も無視できず、古代都市は決まって神殿のような宗教施設を中心に持つのが通例だが、それは共同体的な統一を保つための精神的な手段にすぎず、シュメール人諸都市に見られたように、神殿が貿易の拠点を兼ね、商業とも深く結びついていることすらあった。

都市=文明の成立
 都市の成立は文明の成立をも促した。最初期の文明は都市の集合体としての文明圏によって担われた。このことは最も早くに文明が拓かれたメソポタミア文明圏のシュメール人諸都市が最も典型的に示している。
 そのメソポタミア文明圏とディルムン(今日のバーレーンを中心とした地域)やマガン(今日のオマーンを中心とした地域)といった都市を中継地として―それらの都市も小規模の文明圏を形成していた―貿易関係を持っていたことが知られるインダス文明圏も同じである。
 インダス文明圏で注目されるのは、他の文明圏のように王権の存在を示す明確な証拠が見当たらないことである。このことから直ちに同文明圏の諸都市では共和政が行われていたと即断することはできないとしても、インダス文明圏には超越的な権力は成立していなかったと推測できる。
 その場合考えられるのは、古代都市の常として神官の権威が高かったであろうことは想像に難くないとして、インダス諸都市の政治経済上の実権は商業を掌握する商人貴族層の手中にあったのではなかろうかということである。そうだとすれば、インダス文明圏は商業=文明の典型例ということになるが、同文明圏については不明な点がなお多い。
 いずれにせよ、都市を中心とした文明圏や文明圏に準じた高度文化を擁する準文明圏は、時期の遅速はあれ―アンデス地域のように紀元後に花開いた例もある―、世界各地に順次形成されていく。
 ところで、文明の成立要件の一つである文字の発明にも商業が深く関わっている。世界最古の文字とされるシュメールの楔形文字は、主に取引関係を記録する手段として発達したと考えられている。また時代下って、最古級のアルファベットとして普及したフェニキア文字やアラム文字を発明したフェニキア人やアラム人も商業民族として成功した集団であった。

商業民族の覇権
 このように、都市の建設者として覇権を握った民族は、その先駆者たるシュメール人をはじめ、ほぼ例外なく商業民族であった。
 シュメール人が新たに台頭したセム語系諸民族に同化吸収されて消滅した後、メソポタミア周辺で勢力を広げるのは、セム語系のアムル人、次いで同系のアラム人であったが、アラム人はラクダ隊商貿易の先駆者として、内陸貿易で大成功を収めた。
 そして、先に述べたように、かれらの言語であるアラム語はその文字とともに国際商業語となり、オリエント全体のリンガ・フランカとして、アラム人勢力が衰亡した後まで長く使用され続け、今日のアラビア文字、ヘブライ文字、モンゴル文字など東方系文字の祖となった。
 さらに時代下ると、今度はレバント地方を拠点としたカナン人から分岐したと見られるフェニキア人が台頭してくる。かれらはアラム人とは異なり、海上貿易の担い手たる海商民族として立ち現れ、長く地中海貿易を独占し、軍事的にも地中海方面の覇者となった。有名な北アフリカの植民都市カルタゴは、その拠点であった。
 アラム文字もフェニキア人が発明したフェニキア文字も表音文字、特に子音しか表さない子音文字(アブジャド)であったが、フェニキア文字はとりわけ純粋な子音文字であって、フェニキア人がこのように徹底して簡素化された文字体系を発明したのは、かれらがいっそう明確に文字を商業の手段として純化しようとしたためと考えられ、文字と商業の結びつきがより明瞭となっている。
 フェニキア文字はフェニキア人と取引関係を持つようになったギリシャ人の手でさらに改良されてギリシャ文字となり、今日の西洋系アルファベットの基礎を成した。
 商業を征する者は世界を征する━。この法則は以後一貫して妥当しており、中世におけるモンゴル人、さらに近現代におけるイギリス人、アメリカ人のように「世界帝国」の担い手となった民族・国民も、決まって商業の成功者たちなのである。
 かくして、商業は人類前半史を貫く太い縦糸である。ここには、その黎明期から強欲さを特徴とした現生人類の性格がよく現れていると言えよう。

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人類史概略(連載第8回)

2013-09-17 | 〆人類史之概略

第4章 商業革命と都市の成立

金属器の発明
 農耕よりも古い歴史を持つ交易は、当初は限られた地域間で限られた品目について行われていたが、次第にネットワーク化され、多品目について行われるようになったと考えられる。
 それを促した最初の契機が何であったかを確定するのは困難であるが、希少鉱物の取引ではなかったかと思われる。当初は黒曜石や琥珀のような石系の希少物から始まって、銅器や青銅器のような金属器の発明・普及に伴い、交易活動はいよいよ活発になったと考えられる。その意味で、金属器の発明は、かの用具革命の歴史に新たなページを切り拓いたと言えるのである。
 自然金・銅などを利用した最古の金属器はすでに新石器時代に現れているが、銅と錫の合金であるより強度に優れた青銅が知られるようになるのは前3千年紀と見られ、それは本格的な金属器時代の始まりを画するものであった。
 農耕が普及して生産余力がある程度生じると、分業制も始まり、金属加工のような複雑な技術を要する仕事は専業に近い職人によって担われるようになっただろう。そうした原始手工業者の生産する製品はまだ商品と言えるものではなかったにせよ、精巧に作られた製品はすでに日常的な交換取引に供するにふさわしい価値を備えていたはずである。

貨幣価値の発案
 金属器の発明という物質的な要因だけが商業の成立を促したわけではない。交換取引の大量反復化のためには、むしろ貨幣価値の発案という観念的な要因の関与が決定打となる。
 ここで言う貨幣価値とは広い意味であって、貨幣という物品の介在を前提としない。その意味で、これは交換価値と言い換えてもよい。
 商取引のプロトタイプである物々交換において、ある物品Aを取得するためには物品Bが3個必要というような取引慣行が成立すると、そこにおける物品Aと物品Bは互いに貨幣と同じ役割を果たしていることになる。別の言い方をすれば、物品Aは物品B3個分の交換価値を持ち、逆に物品B3個は物品A1個分の交換価値を持つ。
 この場合、AとBの物品としての使用価値は全く考慮されないわけではなく、およそ使用に耐えないような物品は交換に供することができないが、定型化された取引関係において、物品の使用価値いかんはひとまず括弧でくくられるのである。
 そうなると、物々交換は煩雑なものとなり―特に手元に物品が存在しない場合―、交換価値だけを表象するような特別の形式的な物品の需要が生まれる。こうして貨幣という物品が誕生したであろう。
 貨幣自体も一つの物品ではあるが、それは石とか貝殻のような自然物であってもよく、それ自体は実質的な使用価値を持たない形式的な取引媒介物にすぎないが、そうした媒介物を介することで交換取引はいっそう敏速・大量化していくのであり、ここに単なる交易が商業へと発展する契機が生じるのである。
 このような貨幣価値の観念がいつどこでどのようにして発祥したのかは、目に見えない観念の性質上確定し難いが、原初貨幣としての貝殻は西アジアや中国でも発見されている。
 こうした原初貨幣には呪術的な意味合いもあったと見られるが、元来使用価値を離れた抽象的な交換価値にはある種の物神性が込められており、貨幣価値が呪術と結びついていたことは現代の拝金主義にもつながっているだろう。
 より即物的な鋳造貨幣の出現となるといっそう遅く、今日知られる限り、アナトリアのヒッタイト帝国滅亡後の後継小国家群の中から台頭したリュディア王国が前6世紀頃先鞭を着けたと考えられている。
 鋳造貨幣は国家が貨幣価値の定立を独占する通貨高権の誕生を画するものであるが、広い意味での貨幣価値の成立は先史時代のことであり、これによって人類を特徴づける商業活動が確立されていくのである。

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人類史概略(連載第7回)

2013-09-04 | 〆人類史之概略

第3章 農耕革命と共同社会(続き)

共同社会の成立
 現生人類は長き狩猟採集生活の中で、家族を核とした原初的な社会を形成するようになっていたとはいえ、それはいまだ流動性の高い群集団にすぎず、共同社会と呼び得るような段階には達していなかった。より固定的で持続的な共同社会が形成されるようになるのは、やはり農耕の開始以後のことであった。
 原始農耕は雨水を利用して作物を自然の成長に任せる乾地粗放農法であったから、初期農耕民は定住民というより耕作地を転々とする流民のようなものであったと考えられるが、農耕技術が進歩し始めると、定住集落も生まれるようになった。
 そうした初期集落の代表例として、シリア地方のテル·アブ·フレイラ遺跡(現在はダム湖に水没)がよく知られている。この遺跡は農耕開始以前の狩猟採集生活から中断をはさんで農耕生活へ移行する過程をフォローできる点でも、基準的な遺跡として重要である。
 その発掘結果によると、この遺跡の元住民はせいぜい200人程度と小規模で、集約的な大規模集落が形成される以前の初期共同社会のありようを示している。
 こうした初期農村の形成も西アジアが先駆的であったのは、この地域では粘土を利用した日干しレンガ造りの家屋の建設が容易であったことに加え、一度放棄された集落の上に丘状に新たな集落を形成するテルという形で集落のリユースもしやすいことがあっただろう。

原始共産制仮説
 こうした初期農村共同体の社会編制がいわゆる原始共産主義と呼ばれるものに照応していたかどうかについて、考古学的証拠は明確に語らない。従ってそれは仮説にとどまるが、初期農村遺跡にはさほど顕著な階級差が認められず、比較的平等な社会編制を持っていたと推定することは不合理でない。
 原始農村共同体は自給自足がぎりぎり成り立つ状態で、余剰生産力は望めなかったから、分業も未発達で、階級差を生じる要素は乏しかったと見られる。先のテル・アブ・フレイラ遺跡でも住民の遺骨に粉引きの重労働の痕跡が残されていたことは、平等な労働習慣の存在を示唆する。
 交易は農耕に先行して始まっていたとはいえ、貨幣の発明前は大量反復的な交易すなわち商業活動も開始されておらず、階級差の要因となる富の蓄積もまだ考えられなかった。
 一方、初期農村共同体が母権制社会であったかどうかについても、考古学的証拠は語ることができない。しかし、農耕では女性の役割が大きく、豊饒のイメージもまとう女性が神格化されていたことは、各地の地母神信仰に看て取ることができる。
 家父長制ならぬ家母長制が基本であったかどうかは別としても、先史農村共同体における女性は現代資本主義社会における女性よりも高い地位を保持していたとみなす余地は十分にあるだろう。

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人類史概略(連載第6回)

2013-09-03 | 〆人類史之概略

第3章 農耕革命と共同社会

農耕の始まり
 農耕(及びそれと密接に関わる牧畜)の始まりはおよそ1万年前とされる。それは現生人類史20万年の中では、比較的「近年」のことにすぎない。それほど長きにわたって、現生人類は狩猟採集生活を続けていたわけだが、ここには現生人類の意外に保守的な生活様式の一端が窺える。
 最初に農耕が始まったのは西アジアと見られている(稲作に関しては、中国の長江流域が西アジアと同程度もしくはそれ以上に古いとする説もある)。
 西アジアは「出アフリカ」した人類がいち早く定住したアフリカ外の代表的な地域であったし、ここには栽培に適した食用植物や家畜化しやすいヤギやヒツジのような中型動物が豊富に存在したことも幸いし、その地で人類は初めて栽培と飼育という習慣を身につけたのだろう。
 このことの意義は画期的であった。まず用具生産という点から見ても、農具という新しいジャンルの用具を発明するきっかけを成した。また従来生産行為と言えば用具の生産に限られていたのが、新たに食料の生産という重要な生産行為が加わったのである。
 このことは、人類が自然の食物連鎖サイクルの中に組み込まれていた状態を脱し、自然に働きかけ、自然に手を加えることで自らの生活を維持・発展させる可能性を確保し得たことを意味している。人類はこの時から、単なる自然の一部ではなくなり、自然からはみ出し始めたのだとも言える。
 こうした最初の生産経済革命とも呼ばれる農耕は、西アジアを出発点に周辺に伝播するだけでなく、順次連続的にアフリカ、南アジア、中国、中南米などでも開始されていった。
 この事実をいわゆる単一起源説、多源説のいずれで説明するかという枝葉の論議はさておき、おおむね前10000年から前5000年頃にかけて、各地に拡散・定着した人類は農耕を開始することが可能な段階に達し、地球の気候条件もそれを許したのである。
 同時に、農耕という画期的な生活様式の開始は、従来の狩猟採集という伝統的な生活様式が気候条件にも規定されつつ、おそらくは人口増と乱獲によって限界に達し始めていたことをも示唆する。
 ここで用具生産に関して特筆すべきは、農耕の開始にほぼ前後して新たに土器が発明され、普及したことである。土器は石器や骨角器に比べより高度な加工技術を要する用具であって、土器の発明は人類がより複雑な用具生産の道へ進んだことを意味している。
 土器は食物の調理や貯蔵にも適しているから、土器の発明は農耕の開始にとってはタイムリーであって、それは新時代の到来にふさわしい用具革命の新たな段階であったと言える。

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