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近代革命の社会力学(連載第217回)

2021-04-02 | 〆近代革命の社会力学

三十一 インドネシア独立革命

(3)独立宣言から独立戦争へ
 日本軍政下のインドネシアで独立への流れが明確に生じたのは、大戦も末期の1944年9月、当時の小磯國昭首相によるインドネシア独立容認声明(小磯声明)が直接の契機であった。当時の日本はサイパン陥落で敗色が強まり、実質的な戦争指導内閣であった東条内閣が総辞職した直後であった。
 こうした中で、日本としてはインドネシアの良好な対日感情を保持し、反乱を防止しつつ、近い将来の撤退も視野に入れて、独立を公式に容認する方向に動いたものと見られる。ただし、それは日本支配層の総意ではなく、独立を時期尚早と見る向きもあったことは否定できない。
 ともあれ、小磯声明はスカルノら民族独立派にとっては決定的なゴーサインとなり、これを受けて、1945年には独立準備調査会が設立され、建国に向けて憲法草案などが討議された。続いて、スカルノを委員長とする事実上の自治機構である独立準備委員会(以下、準備委員会)が立ち上げられた。
 しかし、ここで日本の無条件降伏という事態の急転があり、準備委員会は後ろ盾の日本を失うこととなった。そこで、準備委員会は日本の無条件降伏直後の45年8月17日、一方的な独立宣言に踏み切る。奇しくも、ベトナムでホー・チ・ミンらの独立同盟会によるハノイ蜂起が開始された同日であった。
 この独立宣言自体は日本敗戦後の権力の空白を利用して行われたもので、インドネシア共和国樹立を宣するある種の無血革命であったが、スカルノらは日本軍に代わって進駐してきたイギリスやオランダとの武力衝突を予期して、10月には旧郷土防衛義勇軍を主な母体として、事実上の国軍となる人民防衛軍を結成した。
 しかし、自前の武器をほとんど持たなかったため、ジャワ島スマランで、まだ残留している日本軍に必要な武器の引き渡しを要求したのに対し、日本軍側がこれを拒否したことで武力衝突に発展し、インドネシア側に2000人ほどの死者を出した。このスマラン事件は、インドネシア独立過程でほぼ唯一発生した日本との交戦事案であった。
 オランダは当初、新生インドネシア共和国(以下、共和国)を連邦に編入する形で取り込み支配圏を維持することを企図し、1946年には一度は協定が締結されるも、批准前にオランダ自身がこれを破り、軍事行動を開始したことで、全面的な戦争に発展した。
 当然ながら、人民防衛軍を継承し、いまだ民兵組織の域を出ない新生インドネシア軍とオランダ軍とでは物量的に格差があり、共和国は都市を放棄し、農村部に拠点を置くゲリラ戦で対抗するほかなかった。ここでも、ベトナムと同様、独立宣言後にレジスタンスが開始されるという経緯を辿っている。
 このインドネシア独立戦争は、1947年8月の国際連合安全保障理事会決議に基づく停戦協定(ランヴィル協定)までの第一期と、停戦が破られた後、オランダ軍の新たな大攻勢が開始された1948年12月からの第二期に分けられる。この第二期では、共和国の臨時首都ジョグジャカルタが陥落、スカルノ大統領ら共和国首脳の大半が拘束され、共和国は崩壊したかに思われた。
 ところが、ここで国際社会の力学が共和国有利に働き、1949年12月には国連安保理が共和国首脳の釈放を要求する決議を採択、さらにはアメリカが戦後復興中でもあったオランダへの経済援助停止を通告し、圧力をかけたことで、局面は大きく転換する。
 同時並行で続いていたベトナムの独立戦争である第一次インドシナ戦争に先んじて戦争終結の機運が生じたのは、インドネシアでは共産党が主導しておらず、スカルノら非共産系の民族主義派が主導していたことが米英主導の国際社会で好感されたためもあったであろう。
 こうして外圧に屈したオランダはついにインドネシア奪回を断念し、スカルノらを釈放、1949年8月から11月までハーグにて円卓会議を開催し、最終的にインドネシアの独立を容認することで合意に達した。その結果、同年12月、改めてインドネシア共和国が正式に発足することとなった。


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