ザ・コミュニスト

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戦後ファシズム史(連載最終回)

2016-08-17 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

4‐5:アメリカン・ファシズム??
 本連載の最後は、アメリカン・ファシズムの可能性という意外すぎるテーマで締められる。従来、アメリカは個人主義と自由主義の国とされ、全体主義の極点とも言えるファシズムとは世界で最も相容れないとするのが通念であった。
 実際、アメリカにも従来、歴史的な人種差別を軸とした白人優越主義団体やナチスに共鳴するネオ・ナチ集団などは存在してきたが、これらが政党化されるようなことはなく、伝統的な共和/民主二大政党政の枠組みに大きな変化は見られない。
 ただ、21世紀に入って二大政党政内部で、元来右派を形成してきた共和党に変化の兆しが見えている。その岐路となったのは、アメリカ史上初めて本土中枢が攻撃された2001年の9・11事件である。
 この衝撃的事件の後、当時の共和党ジョージ・ブッシュ大統領は議会と協働してテロ対策に関する連邦法執行機関の権限を大幅に拡大する大規模な法律(テロリズムの阻止と回避のために必要とされる適切な手段を提供することによりアメリカを統合し強化するための法律)を策定した。
 この長大なタイトルを持つ法律は、通称「愛国者法」とも称されるように、9.11事件で喚起された愛国感情に依拠して、秘密裏の情報監視・取得や移民・外国人に対する監視と収容・送還を容易にする憲法上際どい法律であり、実質上は合衆国憲法の部分的停止法と言ってもよい内容を持つ秘密警察法規であった。
 そうした危険性から、当該法律をナチスが独裁制を固める土台とした「国民と国家を保護するための大統領令」になぞらえる向きさえあった。政令と法律の相違を無視したこの比喩はいささか大袈裟であったが、ブッシュ政権はこの法律とともに、これまたアメリカ史上初となる国内治安管理専門の官庁として国土保安省を設置して、治安管理政権としての性格を明確にした。
 これだけでブッシュ政権をファシズムと結びつけることはできないが、とはいえ、これほど管理主義的な政策を実行した米政権は過去になく、アメリカ史上異例の政権だったと言える。しかし、続く民主党バラク・オバマ大統領は2011年、実際上の観点から愛国者法の重要条項を4年間延長する法律の制定を主導しつつ、その期限切れを迎えた15年、通称米国自由法(正式名称は長大なため省略)の制定を主導し、愛国者法に大幅な修正を加え、人権上の配慮を行なった。
 愛国者法自体はオバマ政権下でも廃止されていないとはいえ、大きな修正が加わったのは、アメリカにおける伝統的な「自由主義」の牽制力が働いたためとも言えるが、これに対する反動として出現したのが、「不動産王」ドナルド・トランプが巻き起こす「トランプ現象」であった。
 現時点で共和党大統領選候補者に決定しているトランプは、テロ対策のための強硬な移民排斥を軸とする煽動的な主張で支持を集め、共和党の大統領候補者指名選挙を勝ち抜き、指名を獲得した。トランプは二大政党政の片割れである共和党から立候補しているものの、実質的には伝統的な共和党指導層の外部にある無党派的な立場であり、エリート支配に対する民衆―とりわけ白人労働者階層―の反感を巧みに刺激する形で、大統領候補者にのし上がったと言える。
 トランプはしばしば人種差別的な言動で波紋を呼んできたが、身内にユダヤ教徒がいることからも、反ユダヤ主義は封印しており、大衆の不安が強いテロや麻薬犯罪と結びつけた反イスラーム主義・反ヒスパニック主義を前面に押し出している。彼の反移民・米国第一主義の政策綱領は文字どおりに実現されれば、欧州における反移民国粋ファシズムの流れと呼応したものとなることは確実であり、「トランプ政権」の成立は欧州にも多大の影響を及ぼすだろう。
 実際のところ、「トランプ政権」の小さな予行演習とも取れる「政権」がすでにアリゾナ州に現れている。09年に州知事に就任した共和党ジャン・ブリュワー知事(女性)の下、不法移民の疑いがある者を官憲が職務質問、拘束することができることを軸とした全米でも最も厳格な移民法を成立させたのだ。
 この州法は12年に合衆国最高裁で違憲と判断され、15年にはブリュワー知事も任期切れをもって退任したが、当然にもブリュワーはトランプの移民政策を高く評価し、トランプ支持を表明している。
 アメリカン・ファシズムとも言うべき「トランプ政権」が現実のものとなるかどうか、現実のものとなったとして、その政策綱領を修正なしに実行できるかどうかは、アメリカにおける「自由主義」の牽制力がどこまで働くかにかかっているだろう。(連載終了)

※以下のリンクから、別ブログに再掲された本連載全記事を個別リンクで一覧できる目次をご案内しています。

http://blog.livedoor.jp/kobasym/archives/1018037.html

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戦後ファシズム史(連載第53回)

2016-08-16 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

4‐4:日本の新国粋主義
 戦前における軍部主導の擬似ファシズムが、敗戦を経て、―連合国の占領という「横槍」の結果ではあるが―民主的に再編され、漠然と「戦後民主主義」と称される体制が定着してきた戦後日本でも、21世紀に入って「ファッショ化要警戒現象」と思しき現象が観察される。
 といっても、日本では現時点で外見上明白な変化が見て取れるわけではない。戦後日本の体制は、戦前非合法化されていた共産党も含めた多党制の下、保守系包括政党の性格を持つ自由民主党が不定期の解散総選挙を繰り返しながらほぼ一貫して政権を維持する一党優位構造であり、1990年代以降、二度の比較的短い政権交代を経験しても、この構造は変わっていない。
 しかし、イデオロギー的にも温度差のある派閥連合体の性質を持つ自由民主党内で中道保守系派閥が主導していた党内権力構造が変質し、2000年の森喜朗内閣以降、5年にわたった小泉純一郎政権を経て、森が実質上率いていた最右派派閥が主導するようになり、自民党の右傾化反動化傾向が顕著になってきた。
 この傾向は、1997年に設立された各界横断的な尊王国粋団体・日本会議と同時に結成された連携国会議員グループが自民党内に深く浸透し、とりわけ近年の安倍晋三政権では首相をはじめ、多数の閣僚を輩出していることで、ある種の影の権力として党内党の様相を呈するに至っていることともリンクしている。
 こうした自民党の右傾化反動化傾向は、2009年の総選挙で敗れ、自民党が下野中の12年4月に取りまとめた「憲法改正草案」に顕著に現れている。この草案の特徴は、再軍備宣言を基調としつつ、基本的人権に公益・公序の観点から広範な制限を加え、国防の責務や国旗国歌尊重義務に象徴される国民の国家忠誠義務を明記するという国家主義的な色彩の強いものである。
 そのほか、天皇を国家元首として明記し、国防軍の退役軍人も内閣総理大臣及び全ての国務大臣となれる道を開くなど、克服されたはずの軍国主義に回帰するかのような復古色も滲み出る内容となっている。
 このような改憲草案をひっさげつつ、安倍を擁する自民党は12年の総選挙で圧勝し、政権を奪還すると、13年、16年の参議院選挙でも連勝し、衆参両院を制覇するというかつてない支配力を得た。その結果、野党は断片化を来たし、対抗力を喪失しており、巨大与党が議会政治を支配するというシンガポールや近年のロシアなどで見られる議会制ファシズムの形式的な土台はすでに用意されているとも言える。
 10年近い長期化も窺う安倍政権ではメディアに対する与党からの訂正要求や「ネットサポーターズクラブ」なる後援組織を通じたインターネット上での世論介入のような法制化されない非公式的な形態の情報統制策が多用されていることも、「ファッショ化要警戒現象」として注視される。
 他方で、地方基盤政党の形で、地方集権化、競争淘汰主義と教育を中心とした分野での管理統制を追求する日本維新の会(現党名)のような新たな権威主義的右派政党も台頭している。同党は日和見的に離合集散と党名変更を繰り返し、いまだ全国政党にはなり切れていないが、同党が中央でも伸張し、自民党と協力関係、さらには連立政権を形成することになれば、日本政治はファッショ化段階に進む可能性もある。
 ちなみに、移民政策に関して、従来の日本では欧州における反移民諸政党の主張をも上回るほどの移民規制策―事実上の移民否定政策―を敷いてきているが、近年は在日コリアンを中心とした定住移民の排斥を訴える在野運動も隆起している。こうした運動はまだ議会政党の形を取っていないが、隠然と与党周辺にも影響していると見られ、今後の動向が注視される。
 これに対し、従来、一部自民党内にも裾野を持つ形で、右傾化反動化に対するブレーキの働きをしてきた護憲運動は高齢化による退潮も目立ち、往時の勢いを失っている。とはいえ、自民党も現時点では護憲的な傾向の強い中道政党・公明党との連立枠組みを維持しており、連立第二党からのブレーキはある程度働いていると見られる。
 こうして、現時点では日本のファッショ化は要警戒段階にとどまっているとはいえ、新国粋主義とも呼ぶべき潮流の中にあって、「戦後民主主義」は現在、岐路に立たされていることに変わりなく、今後の日本の針路は安易な予断を許さぬものとなるだろう。

※既連載『近未来日本2050年』は、日本のファッショ化が進展するという前提で、2050年の近未来日本における「議会制ファシズム」のありようをフィクショナルに描出する試みである。

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戦後ファシズム史(連載第52回)

2016-08-15 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

4‐3:トルコの宗教反動化
 欧州周辺域で「ファッショ化要警戒現象」が観察されるのは、地政学上欧州の東端とも言えるトルコである。トルコはオスマン帝国1923年のトルコ革命以来、共和体制の下で政教分離を国是として近代化を推進してきた。
 この間のトルコでは革命の中心を担った軍部が政教分離国是の「守護者」として時折クーデターを含む硬軟の政治介入も敢行する政治力を保持しつつ、親軍部系の世俗政党・共和人民党を軸とした議会政治が定着しつつあった。この体制は、近代化という側面ではトルコをイスラーム圏内で最も近代的な国に押し上げる効果を持った一方、民主主義という側面ではトルコを軍部の政治力が留保された半民主主義の段階にとどめる制約を課してきた。
 この構造に最初の転機が訪れたのは1995年の総選挙で、イスラーム保守系の福祉党が第一党に躍進し、翌年、福祉党中心の連立政権が発足した時であった。しかし、これに危機感を抱いた軍部は97年、圧力をかけて福祉党政権を退陣に追い込み、98年には憲法裁判所による違憲・非合法化決定により福祉党は解体された。
 しかし、一度火がついたイスラーム系政党の躍進は止まらず、2002年の総選挙では、福祉党の後継政党で前年にやはり憲法裁判所決定により非合法化されていた美徳党から分かれた公正発展党が圧勝し、政権与党となった。この時から、現在まで四度の選挙をはさんで公正発展党政権が続いており、トルコ現代史は大きく変化している。
 この間、政権を主導しているのは、2003年から14年まで首相を務めた後、大統領に転出したレジェップ・タイイップ・エルドアンである。彼は福祉党→美徳党で活動したベテラン政治家で、イスタンブル市長時代にはイスラーム主義を煽動した罪で投獄、公民権停止処分を受けたこともある人物である。
 そうした政治弾圧の経験からも、エルドアン政権の前半期は軍部及び軍部と連携する司法部の権力をそぐことに置かれていた。この課題は憲法改正を通じて達成されていき、軍部はかつてのように政治介入することができなくなった。
 これは一面で民主化の進展とも受け取れたため、エルドアンへの内外の評価は一時高まったが、11年の総選挙で勝利した後、別の側面が浮き彫りになり始める。権力基盤の強化を背景に、イスラーム保守色を強めるとともに、言論統制や反対派弾圧などの権威主義的な性格が発現し始めたのだ。
 14年に大統領に転出したエルドアンが従来の憲法上おおむね象徴的な元首にとどまってきた大統領の権限を強化し、長期体制化を狙っていることが明らかになると、この問題をめぐる党内対立も表面化する中、16年には大規模なクーデター未遂事件が発生した。
 クーデターは短時日で鎮圧されたが、エルドアン大統領はクーデターの背後に新興宗派的なイスラーム運動を展開して政権と対峙するフェトフッラー・ギュレン師が潜むという構図を作り出し、ギュレン派と目される各界メンバーの大量パージに乗り出しているほか、一度は廃止した死刑の復活も主張している。同時に、反クーデター集会を通じた大衆動員によりエルドアン支持と愛国的な感情を煽る手法で、野党も翼賛的に巻き込む全体主義的な空気を醸成しようとしているため、ファッショ化の現実的な危険が懸念される。
 他方で、エルドアン政権は欧州が受け入れない難民の送還先として欧州における反移民政策の協力者という位置にもあって、欧州の反移民国粋主義の波ともリンクしており、欧州がエルドアン体制の強権化への批判を強める中、今後の地政学的複雑化が注視される。
 いずれにせよ、近代トルコの国是であった政教分離政策は岐路に立っており、従来、民主主義の観点からは後進的な面もあった軍部の政治介入によるコントロールも効かなくなった現在、ファッショ化の危険も孕むトルコの宗教反動化は避けられなくなっている。
 ちなみに、トルコには1969年に結成されたより欧州的なファッショ色の強い世俗政党として民族主義者行動党が存在しているが、同党は近年穏健化し、親イスラームにも傾斜しつつあり、クーデター未遂後の公正発展党体制との関わりが注目される。

[追記]
民族主義行動党は2018年6月の総選挙で公正発展党と政党連合を組み、勝利した。同時に実施された大統領選ではエルドアンが再選し、政権延長に成功した。

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戦後ファシズム史(連載第51回)

2016-08-03 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相 

4‐2:東欧の管理主義政権
 1980年代末から90年代初頭にかけて、社会主義体制が次々と民主革命によって崩壊していった後は、民主化運動勢力が政党化し、政権に就く例も増えた。中でも、一連の東欧革命の先駆けともなったハンガリーである。
 ハンガリーでは民主化運動を担ったのは青年層であり、そうした青年運動をベースに結党されたのが、フィデス‐ハンガリー市民同盟(以下、「フィデス」という)。フィデス(Fidesz)とはハンガリー語で「青年民主同盟」を意味する単語のアクロニムで、まさに党の沿革を示している。
 結党時から、短い中断をはさみほぼ一貫して党を率いるのは、オルバーン・ヴィクトルである。オルバーンは法律家兼社会学者にして英国で政治学も学んだ多様なバックグランドを持つ人物であるが、民主化後、早くから国会議員に転じ、98年の総選挙でフィデスを勝利に導き、首相に就任した時は35歳、当時欧州最年少の首相であった。
 フィデスは当初、旧独裁党が衣替えした社会党に対抗し、自由主義的な党として台頭したが、90年代半ばに右傾化路線に転換、第一次政権期中の2000年には、それまで属していた自由主義インターナショナルを離脱し、欧州議会における保守政党の会派である欧州人民党に所属替えし、保守党としての性格を鮮明にした。
 フィデスが内外で波紋を呼ぶほどに右傾化したのは、02年の下野後、再び政権に就いた2010年以後の第二次政権期である。首相は同じくオルバーンであるが、第二次政権では議会での絶対多数を背景に、宗教保守色濃厚で、市民的権利や憲法裁判所の権限を制約する集権的な憲法改正のほか、メディア統制法の制定などの権威主義傾向が内外の批判を浴びた。
 また折からの難民対策においても、難民の通過点とされることを防止するため、フェンスの設置や強権的な難民収容など、欧州でも最も強硬な対策を打ち出すなど、EUとの軋轢も増してきている。
 こうしたフィデス政権の性格の評価は必ずしも容易でないが、オルバーンは理想の国家として、西欧諸国より、当連載でも管理ファシズムの事例として取り上げたシンガポールやロシア、中国を挙げていることからすると、管理主義を志向していることは明らかであり、長期政権化した場合には管理ファシズムに進展する可能性も否定できない。

 同様の管理主義政権は、ポーランドにも出現している。ポーランドもまた東欧民主革命においては、ハンガリーとともに注目を集めたが、民主化運動の歴史はハンガリーよりも遡る。
 その中心にあった反体制労組「連帯」から派生した新勢力が「法と正義」(PiS:以下、「ピス」と略す)である。民主化プロセスが一段落した2001年、「連帯」の法律家でもあったヤロスワフとレフのカチンスキ双子兄弟によって創設されたピスは、当初から保守的な社会政策・家族政策を柱とする明確な右派政党として発足した。
 旧独裁党が衣替えした民主左翼連合政権が汚職問題で分裂した後、ピスは2005年の総選挙で第一党に躍進し、連立政権を樹立した。同年にレフが大統領に選出され、翌年にはヤロスワフが首相に就き、カチンスキ双子兄弟が政権を完全に制覇する結果となった。
 しかし、この第一次ピス政権は07年の総選挙では敗北、下野した。その後、10年にカチンスキ大統領が飛行機事故により不慮の死を遂げる不運にも見舞われたが、欧州への難民大量流入に直面する中で行なわれた15年の総選挙では難民受け入れ反対を公約して圧勝、再び政権与党となった。
 第二次ピス政権では首相に女性のベアタ・シドゥウォが就いたが、ピスの党首は03年以来レフ・カチンスキであり、シドゥウォ首相は傀儡に近く、実権がレフにあることは明らかである。大統領には総選挙に先立ってピスのアンジェイ・ドゥダが選出されており、再び政権をピスが独占する状態となっている。
 ハンガリーのフィデス政権とは異なり、現時点でピス政権は憲法改正に踏み切っていないが、憲法裁判所人事に介入、判事をピス寄りで固めて違憲訴訟を抑制するなど、権威主義的な政権運営が目立ち、「フィデス化」の懸念が内外で強まっている。フィデスともども、東欧における「ファッショ化要警戒現象」として注視される。

 ちなみに、ハンガリーにはヨッビク-より良いハンガリーのための運動(略称ヨッビク)を称する明白にファシズムの特徴を帯びた議会政党が存在するが、少数野党にとどまっている。同様に、ポーランドには家族同盟を称するファシスト政党が存在し、同党は06年から07年までピスと連立政権を形成したが、07年総選挙で議席を喪失した。

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戦後ファシズム史(連載第50回)

2016-08-02 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

4‐1:オーストリアの戦後ファシズム
 ヒトラーの出身国でもあるオーストリアは、戦前1938年のナチスドイツによる併合により、終戦までナチスドイツの一部であったが、強いられたナチス体制であったため、ドイツ本国に比べ、その戦後処理は曖昧で、戦犯の処罰も一部にとどまっていた。
 そうした中、連合国による占領解除の翌年1956年に結党されたのが、オーストリア自由党(以下、自由党という)である。党名はリベラル風に見えるが、その実態はナチスの後身とも言えるもので、初代党首アントン・ライントハラーは元ナチ党員かつ親衛隊幹部の履歴を持つ人物であった。
 自由党は結党の年の選挙で早くも国会に議席を獲得するが、議席数一桁乃至十程度の少数野党の時代が1980年代まで続く。それでも、この間、保革二大政党政の狭間で70年代と80年代に一度ずつ、左派の社会民主党政権に連立参加したように、80年代までの自由党は穏健化し、あえて左派に接近することで、党勢を維持していた。
 この状況が大きく変わるのは、86年にイェルク・ハイダーが党首に就任してからである。ハイダーは同党では初の戦後生まれの党首だったが、両親が熱烈なナチス支持者という家庭に育ち、自身もしばしばナチ賛美を公然と行い、波紋を呼ぶ人物であった。
 ハイダーの指導下で、自由党は本来のファシズム志向を強めたが、彼のスローガンは「オーストリア第一」の国粋主義であり、そこから反移民政策を党の目玉政策に掲げるようになった。その点で、ハイダー指導下の自由党は欧州の反移民国粋主義の先駆けであった。
 ハイダー自由党は労働者階級にも支持を広げる戦略で急速に躍進し、1999年の総選挙では党史上最高の52議席を獲得、翌年発足した右派国民党政権に連立参加した。これは二党の議席が同数という対等連立であったため、自由党の発言力の増大が見込まれた。
 ハイダー自身は南部のケルンテン州知事の地位にあり、入閣しなかったが、自由党の連立参加に対し、オーストリアのファッショ化を恐れた欧州各国は重大な懸念を示し、欧州連合(EU)加盟14か国がオーストリア制裁に動く事態となった。
 その結果、ハイダーはいったん党首を辞任し、連立政権の主導権も国民党が取ったことで、自由党色は薄められることとなった。続く02年総選挙で自由党は大幅に後退、05年には党内対立からハイダーが離党して新党「未来同盟」を結党し、改めて連立政権に参加した。
 ハイダーは引き続き、州知事の立場で政権外部にあったが、08年の総選挙で未来同盟が躍進した直後、交通事故死した。ハイダーの急死により未来同盟は党勢を失い、13年総選挙で全議席を喪失した。
 一方、分裂後の自由党は歯科技工士出身で、かつてはハイダー側近でもあったハインツ‐クリスティアン・シュトラーヘ党首の安定した指導の下、党勢回復基調にあるが、政権には参加していない。 
 しかし、中東不安定化の影響から、2015年に欧州への大量難民の流入が発生したこともあり、16年の大統領選挙では厳格な移民規制と反EUを掲げる自由党のノルベルト・ホーファー候補が第一回投票で首位に立ったが、過半数に達せず、決選投票では僅差で敗れた。
 この決戦投票は自由党の申し立てを受けた憲法裁判所によって技術的な理由から無効とされたため、改めて再選挙が予定されている。オーストリア大統領は象徴的な存在ではあるが、国家元首であり、自由党がその地位を獲得することの意味は大きく、行方が注視される。

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戦後ファシズム史(連載第49回)

2016-08-01 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

4:ファッショ化要警戒現象
 これまで見てきた現代型ファシズムは、東欧の一部を除けばそのほとんどがアジア、アフリカ地域のものであった。ファシズム発祥地である欧州地域の「本家」ファシズムは第二次世界大戦で米欧自由主義陣営に敗北・滅亡したとされている。たしかに、西欧においては、体制としてのファシズムは現時点で見られない。ただ、21世紀に入って、反移民を掲げる排外主義的な諸政党の動きが活発化している。
 これらの反移民諸政党が特に標的とする移民は、ほとんど専らアフリカ・アジアからのイスラーム教徒移民である。これは冷戦終結後、キリスト教文明圏vsイスラーム文明圏の「文明の衝突」が世界の新たな対立軸となるかに見える情勢下で、テロリズムの脅威とも絡めて、反移民論が世論においても優勢となってきたことに対応している。
 同時に、労働市場で低賃金労働力として活用される移民労働者階級と先住国民労働者階級の競合が激しくなり、職を奪われる危機感から、先住国民労働者階級が伝統的な労働者階級政党より反移民諸政党に誘引されていることも、これら諸政党の「躍進」を支えている。
 現時点では、これら反移民諸政党は大雑把に「極右」と総称されているが、近年は超国家連合としての欧州連合(EU)に反発し、国家主権の回復とEU脱退を呼号する傾向も強めており、国粋主義傾向を帯び始めている。
 こうした反移民国粋諸政党の多くはいまだ野党にとどまっているが、一部は保守系大政党と連立する形で政権参加も果たし、その影響は近年西欧で相次ぐイスラーム国が煽動するテロリズムの脅威に反応する形で、確実に浸透しつつある。
 これに対し、親ソ連圏だった東欧諸国でも、西欧とはやや異なる態様ではあるが、東欧民主革命を主導した諸政党が変節する形で、移民管理や治安強化を旗印とする権威主義的な政党が台頭し、ハンガリーやポーランドでは政権与党に就くまでになっている(後述)。
 こうした反移民国粋諸政党の浸透状況を欧州全体で見渡すと、現時点では地域的な偏差が見られ、基本的にはフランスやオーストリア、ハンガリー、ポーランドといった元来保守的なカトリック系諸国で活発と言える。
 オーストリアでは沿革上も旧ナチス支持者らを中心に1950年代に結党されたオーストリア自由党が2000年から連立政権に参加し、周辺諸国の制裁を招く事態となった(後述)。
 またフランスでは比較的歴史が古い国民戦線の活動が活発化しており、2002年大統領選挙では創設者ジャン‐マリー・ル・ペンが第一回投票で次点につけ、決選投票に進む勢いを見せた。フランスで大規模テロが相次ぐ中、17年予定の大統領選でも現党首で創設者の娘マリーヌ・ル・ペンの立候補が確実視され、その得票率と当選可能性に注目が集まっている。 
 これに対し、プロテスタント系諸国では反移民国粋諸政党の動きは目立たなかったところ、デンマークで国民党が01年から10年にかけて、さらに15年以降、保守政権への閣外協力の形で欧州でも最も厳格な移民規制策の導入に関与している。スウェーデンでも民主党が10年総選挙で初の議席獲得を果たし、14年総選挙では第三党に躍進、またノルウェーでは進歩党が13年以来、連立政権に参加、オランダでは自由党が10年から12年まで連立政権に閣外協力している。
 ドイツでは反ナチス政策もあり、反移民国粋政党は国政進出が困難な状況にあるが、近年、非政党の形態で浸透しているのが「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者」(ペギーダ)を名乗る団体である。同団体は州議会レベルの右派政党に浸透して、影響力を拡大していると見られる。
 これら欧州の反移民国粋諸政党は、現時点では党名やイデオロギーも雑多で、まとまっておらず、東欧の一部を除けば、政権与党にも就いていないが、将来、政権与党化の流れが生じれば、議会制ファシズム型の現代的な管理ファシズムへ進展することも想定され、今後の動向を警戒的に注視する必要がある。
 その意味で、これらの現象はファシズムそのものではなく、「ファッショ化要警戒現象」として把握することが適切かと思われる。類似の「ファッショ化要警戒現象」は、欧州の枠を超え、一種の周辺現象として、トルコ、日本、さらに米国に至る親欧諸国でも観察されるので、これらの事例についても後述する。

[追記1]
2017年フランス大統領選挙で、ル・ペン候補は中道派の若手マクロン候補に次ぐ次点に終わり、決選投票でも大差で敗れ、政権獲得はならなかった。

[追記2]
ドイツでは、2017年総選挙で、上掲ペギータとも結びつきのある反移民政党・ドイツのための選択肢が第三党に躍進した。さらに、2018年スウェーデン総選挙でも上掲民主党が第三党としてさらに議席増を達成した。これらの政党が共通して志向する反移民の実態はほぼイコールイスラーム系移民の排斥を含意する反イスラーム主義である。かつての欧州ファシズムの旗印だった反ユダヤ主義の位置に反イスラーム主義が座ったとも言えるだろう。

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戦後ファシズム史(連載第48回)

2016-07-21 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

3‐2:ターリバーンとイスラーム国
 イランのホメイニ指導体制が漸進的に脱ファッショしていく中、隣国アフガニスタンで、ホメイニ体制とも類似するスンナ派ファッショ体制が成立した。いわゆるターリバーン政権である。
 ターリバーンはアフガニスタン内戦で、社会主義政権が崩壊した後、イスラーム穏健派主体の軍閥連合政権が足並みの乱れから不安定化し、新たな内戦に突入していた94年頃活動を開始したイスラーム急進派グループであった。
 その創始者ムハンマド・オマルはアフガニスタンの多数派民族パシュトゥン人で、パキスタン領内のイスラーム学院で学び、社会主義政権及びその後ろ盾として内戦に介入したソ連と戦った元イスラーム戦士である。*オマルは2013年に病死していたことが公表されている。
 従って、オマルはイランのホメイニ師のような正規のイスラーム聖職者ではないが、この碧眼の元戦士はカリスマ性に富み、創設したターリバーンは急速に支持を広げ、パキスタン諜報機関を後ろ盾とする有力な武装勢力に成長した。そして、96年、首都カーブルに進撃、制圧し、政権を掌握した。
 政権に就いたターリバーンはオマルを元首とする「アフガニスタン・イスラーム首長国」を公称したが、この体制は湾岸首長諸国のような君主制イスラーム国家とは本質的に異なり、最高指導者オマルを絶対化する全体主義的かつ民族主義的なイスラーム体制であり、実態は共和制的である。
 ターリバーン体制は、イスラームの独自解釈に基づき、反西洋近代的な価値観から娯楽の禁止や女性への厳格な統制を含む全体主義的な社会管理を行なったが、そのイデオロギーは単なる「イスラーム原理主義」ならず、パシュトゥン・ワーリーと呼ばれる部族規範を重視するパシュトゥン優越主義であった。
 そのため、その5年間の支配下では、政治的な反対派のみならず、少数民族を対象とした民族浄化に相当する数々の組織的な殺戮も断行されたのである。
 一方、ターリバーンはスーダンを追われたビン・ラーディンを庇護し、アフガニスタンが新たなアル‐カーイダの拠点となったことから、2001年9月の米国同時多発テロ事件に関連し、米国主体の有志連合軍の攻撃を受け、体制そのものも崩壊した。崩壊後のターリバーンはパキスタン領内に拠点を置く武装勢力に戻り、2013年のオマルの死亡後もテロ活動を続け、アフガニスタンの不安定要因となっている。
 一方、米国がアフガニスタン戦争に続いて発動したイラク戦争によって当時のフセイン独裁体制が崩壊してシーア派主体の新政権が成立すると、イラクではスンナ派武装勢力が蜂起し、内戦状態に陥った。
 その混乱の中から現れたのが、イスラーム国を名乗る新たなスンナ派武装勢力である。この勢力はアル‐カーイダが米軍による2011年の最高指導者ビン・ラーディン殺害で弱体化する中、分派的に発生した新勢力とされる。
 その指導者アブー・バクル・アル‐バグダディの詳細な経歴は不明だが、元はアル‐カーイダ要員で、2013年頃分派を独立結成し、早くも14年6月にはイスラーム国家指導者カリフへの就任を宣言するなど、アル‐カーイダを含む従来のイスラーム聖戦勢力とは異なり、明確に国家統治を意識している。*バグダディは2019年、米軍による掃討作戦の渦中、自爆死した。
 実際、イスラーム国はシリア内戦とイラク政権の脆弱さに乗じて、シリア領内のラッカを事実上の首都に、イラク領内にまたがる領域を支配する事実上の統治勢力にまで成長した。しかし国際的な国家承認は受けておらず、その統治形態は現状、軍事的な占領支配に近い。カリフを称するアル‐バグダディにしても、中世以来の伝統的なカリフとは異なり、自称の要素が強い最高指導者であり、統治集団としてのイスラーム国の実態は多分にして共和制的である。
 イスラーム国の統治もターリバーンと類似したイスラームの独自解釈による全体主義的な社会管理であるが、民族主義的な性格の強いターリバーンとは異なり、イスラーム世界の統一という壮大な国際性を持つことが特徴であり、ある種の帝国主義を志向する。
 そのため、戦闘員も欧州を含む全世界から募集された多国籍集団となっており、単なるシンパの個人によるテロを含めた世界各地でのテロ攻撃のスポンサーともなっている。その手段として、インターネットを駆使した独自の宣伝・洗脳工作に長けていることも、単なるイスラーム原理主義とは異なる大きな特徴である。
 支配領域内の統治では、少数宗派の殺戮、性奴隷化や反対者の大量処刑などの強権支配を敷くほか、人身売買を公然と行い、外国人人質殺害などの見せしめも多用するなど、特異的な行動原理を持つ。 
 こうしたイスラーム国は、より穏当な見方によって「イスラーム原理主義」の特異例とみなすこともできるが、必ずしもそれだけでは説明がつかず、イスラームを唯一至上価値とする現代型ファシズムの一形態とみなすべき特徴を備えていると考えるものであるが、この点については仮説の域にある。
 イスラーム国に対しては、目下、米欧の有志国連合やロシアによる攻撃が継続的に加えられており、その支配領域は次第に狭まってきているとされるが、元来、強固な国家体制を築いていないだけにかえって壊滅させることが難しいというジレンマを抱えている。

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戦後ファシズム史(連載第47回)

2016-07-20 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

3‐1:スーダンのスンナ・ファシズム
 イスラーム教スンナ派はシーア派のような最高指導者の概念を持たないため、イラン革命後のホメイニ指導体制のようなファッショ体制は成立しにくいのであるが、ちょうどホメイニが没した1989年、アフリカのスーダンで、スンナ派系のファッショ体制が成立を見た。
 この体制は、同年に起きた軍事クーデターを契機とするもので、クーデターそのものの指導者はオマル・アル‐バシール将軍であったが、理論的・精神的指導者はイスラム主義政治組織の国民イスラーム戦線を率いるハサン・トラービーという二頭体制であった。
 国民イスラーム戦線自体は1960年代に結成されたムスリム同胞団系の学生組織を前身とするが、その性質は大衆組織というより、政府・軍などの国家機構に浸透して上からのイスラーム化を図る秘密結社的なものであった。89年軍事クーデターもそうした浸透戦略の結果である。
 当初は形式上軍事政権であり、先行事例で言えば77年から88年まで続いたパキスタンのジア軍事政権と類似していたが、ジア政権の重点が冷戦期の反共にあり(反共ファシズム)、イスラーム化は社会統制の手段的色彩が強かったのに対し、バシール‐トラービー政権にあっては、全体主義的なイスラーム化が目的的に志向されていた。
 当時、スーダンは北部のアラブ系主体のイスラーム勢力と南部の非イスラーム系諸部族の間で内戦状態にあり、軍事クーデターは南部も包括したイスラーム化の徹底を図る北部内の強硬派が仕掛けたものであった。結果として、内戦は激化し、北部でも世俗主義者らの大量パージが行なわれた。
 この体制は、アル‐カーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンを庇護するなど、90年代半ば頃までは、スンナ派における反米イスラーム主義の拠点とみなされたため、アル‐カーイダの犯行とされる98年のケニア・タンザニアの両アメリカ大使館爆破事件に関連し、米軍による首都ハルツーム空爆を招いた。
 そうした中、アル‐バシールは一つの方策転換を決断する。国民イスラーム戦線を乗っ取る形でこれを政党組織としての国民会議に衣替えし、99年には強権を発動してトラービーを追放したのである。これは欧米との関係改善を狙い、形式上の民政移管を実行する過程での軌道修正であった。
 これによって、アル‐バシール政権は形の上では議会政治の体裁を整えたのであるが、実態としてアル‐バシールの独裁体制に変更はなく、軍政擬似ファシズムを管理ファシズムに移行させたにすぎなかった。
 この修正体制の下で発生した人道危機が、2003年頃からのダルフール紛争である。これは従来の南北間内戦と交錯する形で、西部ダルフール地方のイスラーム教徒諸部族間で発生した民族紛争にアル‐バシール政権が介入して起きた人道危機である。
 政権はアラブ系民兵組織に加担する形で民族浄化を実行し、30万人以上が殺害されたとも言われるが、その全容はなお不明である。この件に関連して、アル‐バシール大統領は2009年、国際刑事裁判所から人道に対する罪等の容疑で逮捕状を発付される事態となったが、現時点でも執行されていない。
 他方、懸案の南北内戦は2005年の内戦終結を経て、2011年には南部が南スーダン共和国として独立する運びとなったが、その後も南北間での国境紛争が断続的に発生するなど不安定である。
 アル‐バシール政権は、現職大統領の国際訴追という異例の事態を経ても、現在に至るまで強力な支配力を保っており、近代スーダン史上最長期政権の記録を更新中である。近年は、中国との結びつきを強め、石油開発で財政経済を支えており、開発ファシズムの色彩も帯びている。

[追記]
アル‐バシール政権に対しては、2018年から大規模な民主化デモが勃発し、これを受けた軍部が2019年4月にクーデター決起し、アル‐バシールを辞職に追い込み、拘束した。最大権力基盤であった軍部に裏切られた形である。結局のところ、アル‐バシールは、30年がかりでも軍部に依存しない本格的なファシズム体制を確立できなかった結果であろう。ちなみに、クーデター後の軍民合同の暫定政権は、2020年2月、アル‐バシールの国際刑事裁判所への身柄引き渡しに同意した。

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戦後ファシズム史(連載第46回)

2016-07-19 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

3:イスラーム・ファシズム
 
イスラームとファシズムは、水と油ほどではないが、直接に結びつくことはないというのがおそらく現在でも通説と考えられる。しかし、現代型ファシズム論においては、必ずしもそうではなく、イスラーム・ファシズムと呼ぶべきいくつかの事例を抽出することができる。
 元来、団体を意味するfascioに由来するファシズムとは国家主義と完全なイコールではなく、全体主義的共同体主義の謂いであるところ、イスラーム主義にあっても、そこでは西欧的な国家よりも、イスラーム信仰で結ばれた共同体=ウンマ(umma)の樹立が志向される。
 ummaとfascioは互換性があり、もしummaの運営を機能的な国家組織を通じて行なうならば、そこにイスラーム・ファシズムの成立する余地があることになる。そうした意味でのイスラーム・ファシズムの先駆的な事例は、1979年のイスラーム革命で誕生したイランの新体制であっただろう。
 イラン革命は、それ以前、イランの西洋近代化を絶対王政的な手法で上から主導してきたパフラヴィー王朝体制を打倒し、イスラーム神政体制を樹立したことで、20世紀後半の世界に衝撃を与えた出来事であった。
 この新体制の指導者アヤトラ・ホメイニは、シーア派(十二イマーム派)の高位聖職者―正確には「法学者」であるが、世俗法学者と区別するため、「聖職者」と表記する―であり、従って、革命体制もシーア派教義に基づいて構築されていったが、彼には現実主義者としての一面があった。そのため、この体制はしばしば「イスラーム復興主義」とも称されながら、単なる宗教反動ではなく、近代国家の現実にも適応しつつ、共和制の下でカリスマ的なイスラーム聖職者を頂点とする全体主義的な国家運営が目指された点で、ファシズムの特徴を備えていた。
 このような体制がイスラーム少数派のシーア派にまず現れたのは、同派では第四代正統カリフであったアリーとその子孫のみが資格を有するとされるウンマの最高指導者イマームという概念を擁するためと考えられる。イマームは現在、「隠れた」状態にあるが、ホメイニの理論によれば、彼自身のような権威ある高位聖職者が終末に再臨するとされるイマームを代行して国家統治に当たるべきものとされる。
 このイスラーム・ファシズム体制は、イラン革命時に結成されたイスラーム共和党(87年に解党)を政党的な基盤とし、同党は革命後の体制防衛装置として設立された革命防衛隊を軍事部門としてホメイニ指導体制を支えたため、これはほぼ真正ファシズムの類型に該当するものだったと言える。
 ホメイニによる指導体制は革命後から同師が死去した89年まで約十年にわたって続いたが、その実態は高度の権威主義的統治であり、この間、宗教的規律に基づく厳格な社会統制と、旧体制要職者や世俗主義者、社会主義者らに対する弾圧・大量処刑が断行された。
 もっとも、イランのイスラーム・ファシズムはホメイニの個人的な権威に支えられている面が強かったことから、彼の没後、後継者となった弟子のハメネイの指導下では、神政体制枠内での漸進的な民主化が進行することによって、徐々に脱ファッショ化されていき、今日のイラン体制は保守派と穏健派、改革派の間で擬似的な政権交代現象も見られる半民主主義と言うべき独自の体制に移行していると評し得る。
 他方、シーア派のような最高指導者概念を持たない多数派スンナ派の側では、イラン革命体制に匹敵するような体制は見られなかったところ、89年軍事クーデター後のスーダンを皮切りに、イスラーム・ファシズムとみなし得る体制がいくつか出現してきているので、次回以降に検討することとする。

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戦後ファシズム史(連載第45回)

2016-07-05 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐8:中国の場合
 中国は、旧ソ連が解体した後もマルクス‐レーニン主義を標榜する共産党支配体制を堅持し、今日まで持続している。そのため、中国を現代型ファシズム体制の一例として挙げるのは、いささか奇妙なことと受け取られるであろう。
 しかし、興味深いことに、共産党中国の建国者毛沢東は、中国において「短くて数年か十数年、長くて数十年で、不可避的に全国的な反革命の復辟があらわれ、マルクス‐レーニン主義の党は修正主義の党に変わり、ファシスト党に変わり、全中国は変色するだろう」と意味深長な予言を残している。
 毛がこう予言したのは、1963年である。当時はいわゆる文化大革命(文革)の前夜であり、毛が文革を発動した背景にも、鄧小平ら「走資派」の台頭による「変色」への危機感があったと考えられる。しかし、文革はファシズム体制下での人道的惨事にも匹敵する大量犠牲を出す中国版大粛清に終わった。
 文革が収束し、毛が没した76年以降、いわゆる「改革開放」の修正主義を経て、80年代には政治的にも若干締め付けが緩和されるリベラルな時代を迎えるが、それは東欧社会主義圏における民主化革命とも呼応する学生らの体制変革要求を招き、89年の天安門事件につながる。
 この民主化運動の武力弾圧を経て再編強化された中国共産党体制は、93年には憲法改正により「社会主義市場経済」を掲げて、市場経済化路線を明確にした。これを画期として、以後の中国では、マルクス‐レーニン主義や最終目標とされてきた共産主義社会の建設は事実上棚上げされ、資本主義的経済開発に重点を置いたある種の開発独裁的な方向に舵を切った。
 この新規路線においては、天安門事件以来の民主化運動抑圧と厳格な言論統制、チベット人など少数民族の分離禁止を通じた全体主義的社会管理が徹底される一方、経済的には社会主義的統制が緩和され、ある種の資本家・富者の存在を容認するという二重的な政策が採用されてきた。
 イデオロギー上はマルクス‐レーニン主義や毛沢東思想の教義さえも棚上げされる反面で、90年代からは愛国主義が強調されるようになり、2000年代に入ると「反日暴動」のような愛国的民衆騒乱も発生するようになった。その延長上で、毛時代及び鄧実権時代の反覇権主義的な外交方針を転換し、対外的な関係でも領域拡大を「核心利益」として追求する覇権主義的な傾向を見せ始め、周辺諸国との摩擦を生じている。
 こうした新規路線下でも、共産党の支配は固守されており、完全にファシスト政党に置き換わったわけではないが、実態として、共産党は毛の予言どおりのファシスト政党化を来たしているのではないかと見ることもできる。
 そのように見た場合、新規路線体制は、ファシズムを綱領に掲げない政党を通じた不真正ファシズムの特殊類型と考えられる。このような転回は、毛の没後に復権し、実権を掌握した鄧小平の指導下、天安門事件をはさんで93年に発足した江沢民政権から生じたと一応想定できる。
 その後、胡錦濤から習近平へと継承されてきたこの体制は、総体として管理ファシズムの亜種であると考えられるが、経済開発に傾斜していることから、開発ファシズムの性格も併せ持っている。ただ、経済開発・成長が一区切りした観のある現行習近平政権下では、全体主義的な社会統制が一段と強められており、管理ファシズムとしての性格がいっそう濃厚に発現してきているとも言える。
 こうして、毛の予言は実際、数十年を経て的中したように見えるが、こうした共産党のファッショ化=「共産党ファシズム論」は一つの仮説であり、中国当局は決して自認しないし、中国に批判的な論者も同意しない可能性があることは付言しておきたい。

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戦後ファシズム史(連載第44回)

2016-07-04 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐7:ロシアの場合
 旧ソ連諸国の中で、独立後、管理ファシズムの方向に流れている諸国として以前挙げたグループの中でロシアを保留にしておいたのは、ロシアの管理ファシズムは、他の諸国のように独立後、ストレートには生じなかったからである。
 ロシアでは1991年のソ連解体後、解体プロセスを主導した当時の「急進改革派」ボリス・エリツィンが旧ソ連を構成したロシア共和国を引き継ぐ形で、新生ロシア連邦の大統領となった。このエリツィン時代のロシアは脱ソ連を図る政治経済的な激動期であり、急激な市場経済化を進めるエリツィンの強引な政治手法は、議会との武力衝突を経て制定された新憲法により大統領権限が強化されたことで、法的にも正当化された。
 ただ、経済の混乱や金融・財政危機に見舞われ、チェチェン独立派との内戦も激化する中、エリツィン大統領は任期途中の99年末に突如辞職し、同年、首相になったばかりのウラジーミル・プーチンを大統領代行に指名した。
 当時まだ40代のプーチンは元共産党員にして、旧ソ連時代には諜報・秘密警察機関KGBのキャリア要員であったが、ソ連解体の前年に退職し、当時「改革派」の拠点でもあったレニングラード(現サンクトペテルブルク)市の幹部職を足場に、短期間でエリツィン政権高官にまでのし上がった人物である。
 こうしてエリツィンから事実上の禅譲を受けたプーチンは、2000年の大統領選挙で当選して以来、エリツィン時代の混乱を収拾し、ロシアを新興大国に押し上げた実績と大衆的な支持を誇り、現在までロシアの最高権力者として君臨し続けている。
 この間、任期4年かつ三選禁止の憲法規定を形式的に満たすため、2008年から12年までは大統領職を腹心のドミトリー・メドヴェージェフに譲りつつ、首相職に回る形で「院政」を敷いた後、再び大統領に復帰した。このようにプーチン支配体制には形式的な中断があるものの、その権威主義的な本質は一貫している。
 政策的には中央集権、経済への国家介入、対外的な覇権追求を基本とし、保安機関を通じた厳格な治安管理や政治的謀略、メディア操作による言論統制など旧ソ連体制との類似性は強いが、共産党とは明確な一線を画する点では、マルクス‐レーニン主義からの変節という現代型管理ファシズムの性質を共有している。
 プーチン体制におけるプーチンのカリスマ性は大きいが、必ずしも他の旧ソ連諸国で見られるような個人崇拝的な独裁体制ではなく、より合理的な権力集中体制である。議会制は否定されないが、大統領与党の「統一ロシア」が常時優位を占め、議会は翼賛化されている。
 与党「統一ロシア」自体はファシスト政党ではなく、イデオロギー色の希薄なナショナリスト政党であるが、翼賛的包括政党としての性格が強く、プーチン体制もファシズムを綱領に掲げない政党を通じた不真正ファシズム体制の一種と言える。
 ただし、プーチンは大統領職復帰前年の2011年、「統一ロシア」とは別途、政治団体「全ロシア人民戦線」を創設している。これまでのところ、この団体は政党化されていないが、「統一ロシア」を含むより広範なプーチン個人の翼賛組織的な色彩が強く、プーチン体制の性格にも変化を及ぼす可能性はある。
 ちなみに、ロシアには90年代から、元ソ連軍将校ウラジーミル・ジリノフスキーが率いるよりファッショ色の強い自由民主党が存在しており、同党は93年の下院選挙では第一党に躍進する勢いを見せたが、その後はジリノフスキー党首の奇矯な言動やエリツィン、プーチン両政権による懐柔策などもあり、小勢力に後退している。
 さて、ロシア大統領の任期は08年の改憲により12年開始の現任期より6年に延長されたが、三選禁止は変わらないため、プーチンは規定上最長でも2024年に退任予定のところ、再改憲による多選解禁を通じて事実上の終身政権となるか、あるいは形式上大統領を退任したうえの「院政」となるのか、現時点で去就は不明である。
 あるいはプーチンが完全に引退した場合、後継指導者の下、管理ファシズムが修正されて継続されるのか、より可能性は低いものの、管理ファシズム体制が廃され、西欧型の議会制国家として再編されるのか、将来の動向が注目される。


[追記]
2020年の憲法改正により、大統領任期は連続か否かを問わず、通算二期までに限定されたが、この制限条項は過去及び現職の大統領には適用されないため、プーチン大統領はさらに二期、最長で2036年まで大統領にとどまることが可能となった。これが実現すれば、ソ連時代の独裁者スターリンを超える長期執政となる。

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戦後ファシズム史(連載第43回)

2016-06-22 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐6:カンボジアの場合
 カンボジアは1953年以来の独立国であるが、その歴史はインドシナ戦争とそれに続く長い内戦を経て大きく二分されている。現カンボジアは内戦終結後の国連暫定統治を経て再編された新生カンボジアである。
 この新体制は形式上立憲君主制であるが、その下でほぼ一貫してフン・セン首相の権威主義的統治が続いている。フン・センの政治的履歴は、それ自体がカンボジア現代史の反映である。
 彼は元来、70年代のカンボジアで大量虐殺を断行したクメール・ルージュ(カンプチア共産党)のゲリラ部隊下士官だったが、同勢力の政権掌握後の大粛清を恐れて脱走し、ベトナムへ亡命、そこで反クメール・ルージュ派のカンプチア救国民族統一戦線に合流する。ここから、フン・センの政治家人生が始まる。
 彼は同戦線で若手幹部としてすぐに頭角を現し、79年、ベトナム軍の侵攻により、同戦線を中核に樹立された新政権・カンプチア人民共和国の外相に抜擢される。さらに85年、フン・センは32歳で当時世界最年少の首相に就任する。 
 この体制の支配政党・人民革命党は当時マルクス‐レーニン主義を標榜し、ベトナムの傀儡政党の性格が強かったが、89年のベトナム軍撤退を経て、カンボジア和平が成立した91年、党はマルクス‐レーニン主義を放棄し、人民党へと改称した。
 人民党のトップは、改称前はヘン・サムリン、改称後は2015年に至るまでチェア・シムという長老政治家が務めていたが、いずれも名目的な立場にとどまり、事実上は内戦中から一貫して首相の座にあるフン・センが指導していた。
 人民党は93年の制憲議会選挙で王党派のフンシンペック党に敗れ、第二党となる。ところが、フン・センは辞職を拒否し、妥協策として第二首相の肩書きで政権内にとどまった。しかし、全権の奪回を狙うフン・センは97年、事実上のクーデターでフンシンペック党を追い落とし、翌年には単独首相に返り咲いて以降、改めて同党との連立政権の形で、実質的な人民党独裁体制を確立した。
 この体制は93年憲法で復活した王制(立憲君主制)の下で形式上多党制形態を採りつつも、内戦中から構築された人民党の支配網とフン・センの権威を利用して全体主義的な社会統制を図る管理ファシズムの性格が濃厚となっている。この点では、新生カンボジアの管理ファシズム体制も、前々回及び前回見た一部の旧ソ連諸国やエリトリアと同様、マルクス主義からの転換という経緯をたどっていると言えるだろう。
 このフン・セン新体制下では長期の内戦からの復興と外資導入による経済開発が推進され、近年は高い経済成長を示しており、開発ファシズムの性格をも帯び始めている。その点、リー・クアン・ユー首相時代のシンガポールと類似した側面も認められる。
 ただし、人民党はメディアや軍を完全に掌握する一方で、議会では圧倒的な議席を独占してこなかったことから、その支配力には一定の制約がある。2013年の総選挙で、野党カンボジア救国党が人民党と拮抗する勢力にまで躍進したことは、その象徴である。
 この人民党の党勢後退は通算で約30年に及ぶフン・セン指導体制の抑圧と腐敗に対する市民の批判を背景としていると見られるが、フン・セン自身は74歳になる2026年までは権力の座にとどまる旨を公言していることから、今後の動向が注視される。

[追記]
救国党は2017年、党首の逮捕に続き、フン・セン政権の最高裁判所から解散命令を受け、解党された。結果、有力野党不在で実施された2018年総選挙では、人民党が全議席の8割近くを得る圧勝となった。これにより今後、議会制ファシズムの性格が強まることが見込まれる。

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戦後ファシズム史(連載第42回)

2016-06-21 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐5:エリトリアの場合
 東アフリカの小国エリトリアは1993年にエチオピアから分離した新興独立国家であるが、この国では30年に及んだ独立戦争で功績のあったイサイアス・アフウェルキ初代大統領による強固な全体主義体制が続いている。
 イサイアスは元来、マルクス主義系のエリトリア独立運動組織・エリトリア解放戦線(ELF)に参加、60年代の中国に留学し、毛沢東思想やゲリラ戦について研修して帰国後は、若くして軍事部門幹部となる。しかし、ELF内部の路線対立が激化する中、70年代にELFから分派したエリトリア人民解放戦線(EPLF)の創設に参加し、87年に同組織トップの書記長に就任した。
 EPLFが創設された時点では、エリトリア民族主義とともにマルクス‐レーニン主義も掲げる左派民族主義的な武装組織であり、独立戦争相手のエチオピアもまたマルクス‐レーニン主義を標榜する軍事独裁政権というマルクス主義標榜勢力同士の戦争であったが、その背後にはエリトリアを支援する中国とエチオピアを支援するソ連の対立があった。
 最終的に、EPLFは91年、エリトリア全域の制圧に成功し、独立を勝ち取った。その後、国連が支援する住民投票を経て、93年、正式に独立国家エリトリアが成立した。その際、EPLFがそのまま支配勢力として政権を樹立し、イサイアスが初代大統領に就任した。
 政権樹立後のEPLFは「民主主義と正義のための人民戦線」に改称したうえ、脱マルクス主義化によりイデオロギー色を薄めた包括的翼賛政党へと変質していき、速やかにイサイアス独裁のマシンとなった。その点で、この体制は一部の旧ソ連諸国とも類似する成立過程をたどった管理ファシズムの一類型と言える。
 エリトリアは発足後間もない98年から、旧所属国エチオピアとの国境紛争に端を発する再戦争を経験し、2000年の停戦後もエチオピアとの緊張関係から、軍事費がGDPの20パーセントを占め、18歳以上の健康的なすべての男女に厳格な兵役を課す国民皆兵体制を維持している。その点では、軍国的な戦前型ファシズムに近い性格をも持っている。
 他方で、兵役と結びついた国家奉仕という名分での強制労働を通じたインフラ整備や鉱山開発などの手法により、豊富な天然資源を基盤とする経済開発にも注力し、高い経済成長を達成するなど、イサイアス体制には開発ファシズムの性格も見て取れる。
 こうした体制は外国メディアの入国を認めない徹底した報道統制と治安機関による監視や超法規的処刑といった人権抑圧によって支えられており、逃亡者への厳罰にもかかわらず、過酷な兵役・労役を忌避して地中海を渡る難民を数十万規模で出すなど、その人権状況は世界的にも最悪部類に属すると評されている。
 にもかかわらず、元来関係の深い中国資本や日本を筆頭とする先進諸国の援助にも支えられ、現時点では独立運動英雄としてのイサイアス大統領のカリスマ的な権力に揺らぎは見られず、その体制は存続していくと見られる。

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戦後ファシズム史(連載第41回)

2016-06-20 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐4:旧ソ連諸国の場合
 1991年のソ連邦解体により、連邦国家ソ連を構成していたロシアを含む15の共和国はすべて独立することとなった。それら15の共和国は、その出発点においては、旧ソ連体制の非民主性を反映して、権威主義的な性格を免れなかった。
 しかし、その後の15共和国の歩みは大きく分かれてきている。一つはいち早く西欧的な議会制を確立したバルト三国(リトアニア・ラトビア・エストニア)、ある程度まで西欧的な議会制へ移行した諸国(モルドバ・アルメニア・グルジア・ウクライナ・キルギス)、逆に権威主義が維持された諸国(トゥルクメニスタン・アゼルバイジャン・ウズベキスタン・カザフスタン・タジキスタン・ベラルーシ・ロシア)である。
 最後のグループ諸国―そのうちロシアについては別途取り上げるため、本稿では除外する―は、程度の差こそあれ、長期執権を握る強力な指導者を擁する管理ファシズムの傾向を持っている。それらの指導者の多くは旧ソ連時代の共産党官僚・エリートとしての出自を有しており、標榜上はマルクス主義からの転向組である。
 政党的な基盤を持たないベラルーシの体制を除けば、いずれにおいても全体主義的な支配政党を基盤に置いた統治が行なわれているが、明白にファシズムを掲げる政党はなく、いずれも不真正ファシズムの体制と見てよい。
 またいずれも旧ソ連時代には開発が遅れた地域を構成していたことから、独立後の各体制は経済開発を政策の軸とする傾向があり、これまでのところ、一定以上の成功を収めているという点では、開発ファシズムの性格を併せ持つとも言える。 
 そうした中でもファシズムの性格が特に濃厚なのは、トゥルクメニスタンとベラルーシである。前者では独立前の1990年から大統領の座にあったサパルムラト・ニヤゾフによる徹底した個人崇拝体制が2006年まで続いた。
 その体制は地方の図書館や病院の廃止、年金廃止などの教育・福祉政策の撤廃・縮小や西洋芸術の禁止、巨大モニュメントの建造などに象徴される奇矯なものとなり、国際的な批判を浴びたが、国内では秘密警察による徹底した監視により統制されていた。
 06年のニヤゾフ急死後は、子飼いの側近だったグルバングル・ベルディムハメドフが後継者となり、ニヤゾフ時代の奇矯な政策を修正しているが、トゥルクメニスタン民主党の実質的な一党支配構造は固守されており、むしろより合理化された管理ファシズムの傾向を強めている。
 一方、地政学上は欧州に属するベラルーシでは、94年の大統領選挙で当選した親ロシア派のアレクサンドル・ルカシェンコが形式的な選挙による多選を重ねる形で、現欧州では唯一とも言える独裁体制を維持している。
 ルカシェンコも元共産党員であるが、大統領としては無所属であり、議会でも無所属系議員が圧倒的多数を占めるが、かれらはすべて大統領支持派であるため、事実上の政権与党集団が存在しているに等しい。
 ルカシェンコ体制は社会主義的な経済政策も含めて、旧ソ連時代の政策の多くを継承している点では、旧ソ連の延長体と言える側面もあるが、ルカシェンコは個人的にヒトラーや反ユダヤ主義への親近感を表明するなど、イデオロギー的には戦前の旧ファシズムに近い性格も帯びている。
 ルカシェンコ体制は近年、国家連合を組むロシアとの関係悪化に伴う経済危機を背景に、西欧への接近やある程度民主化された選挙の実施などの改革傾向を見せているものの、全体主義体制の根幹に変化は見られない。
 以上の二か国に加え、カザフスタンも、個人崇拝型の合理化されたファシズム体制に数えられる。ここでは、ソ連時代末期にソ連共産党の「改革派」幹部として台頭した初代大統領ヌルスルタン・ナザルバエフが独立以来、一貫して大統領職にあり、豊富な天然資源を背景とする高い経済成長を主導している。
 ナザルバエフは当初無所属であったが、1999年に翼賛与党・オタン(06年にヌル・オタン:輝ける祖国)を結党し、複数政党制の外形の下で、事実上の一党支配体制を確立してきた。この体制は、ロシアのプーチンとベラルーシのルカシェンコの両体制を混合したような同型の体制と言える。実際、この三国は親密な関係にあり、2014年には三国を中心とするユーラシア経済連合を結成した。
 アゼルバイジャン、ウズベキスタン、タジキスタンについては詳論する余裕がないが、アゼルバイジャンは、やはり旧ソ連共産党幹部のヘイダル・アリエフとその息子イルハムの二代にわたる世襲の権威主義体制である。独立後イスラーム勢力との内戦を経験したタジキスタンでは、内戦を収拾したエモマリ・ラフモン(元共産党員)の権威主義的な体制が続く。
 ウズベキスタンは表面上多党制の形態を取っているものの、実態は初代大統領として1990年以来、元ソ連共産党幹部イスラム・カリモフによる全体主義的な支配が続いており、これも管理ファシズムの一類型に含め得る。


[追記]
ウズベキスタンのカリモフは2016年に死去、カザフスタンのナザルバエフは2019年に大統領を退任した。いずれも後継者は前任者の側近であり、基本的な体制に変化はないが、指導者のカリスマ性は希薄化するかもしれない。なお、退任後も「国家指導者」名義で実権を保持していたナザルバエフは、2022年1月の反政府抗議デモの事態収拾に乗じた政変で失権したと見られる。

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戦後ファシズム史(連載第40回)

2016-06-07 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐3:ウガンダの場合
 ウガンダでは1970年代、擬似ファシズムの形態ながらアミンの暴虐な独裁体制下で多大の犠牲を出したことは以前に見たが(拙稿参照)、アミンがタンザニアの軍事介入によって打倒された後も、ウガンダでは混乱が続いた。
 一度はアミンによって追放されていたオボテ大統領が復帰するも、アミンさながらの暴虐に走り、81年以降は内戦状態となる中、85年には軍事クーデターで再び政権を追われた。翌年、この混乱を収拾したのは、ヨウェリ・ムセヴェニに率いられた反政府ゲリラ国民抵抗軍であった。
 ムセヴェニは元マルクス主義者にして、第一次オボテ政権時代の情報機関員も務めたが、アミンのクーデター後、タンザニアに逃れ、反アミン闘争に没入した。79年のアミン打倒作戦にも参加したが、第二次オボテ政権とは対決し、反オボテ闘争を開始する。
 86年に武力で全土を制圧した国民抵抗軍(国民抵抗運動)が樹立した体制は革命政権の性格が強く、各地区に設置された抵抗評議会が地方の政治経済を担う機関とされ、政党ベースでの選挙参加を禁ずるある種の草の根民主主義の形が取られていた。
 そうした体制下で、ムセヴェニは世界銀行やIMFの構造調整政策をいち早く取り入れて、長年の独裁と内戦により崩壊状態にあったウガンダ経済の建て直しと経済開発に取り組み、ウガンダを安定化させることに成功した。
 このように、国民抵抗運動体制には政党によらない民主主義の実験とも見える一面があったが、一方で北部を中心になお完全には鎮圧できない反政府勢力への対抗上、体制は次第に統制的な治安管理体制を取るようになっていく。
 その頂点に立つムセヴェニ大統領は革命10周年の96年まで大統領選挙を行なわずに統治した。96年の選挙で圧勝したムセヴェニはその後も5年ごとに多選を重ね、今日に至るまで30年に及ぶ政権を維持している。
 この間、2005年以降ようやく複数政党制が導入されたが、国民抵抗運動は議会において圧倒的な多数を占めており、政権独占状態は不変である。
 ムセヴェニの国民抵抗運動体制は、親米欧かつ新自由主義的な構造調整にも積極的なことから、ムセヴェニはアフリカの新世代指導者として称賛され、国際的な非難を受けることは少ないが、少なくとも初期の草の根民主期を除けば、90年代以降の実態としては、開発ファシズムの傾向も伴った管理ファシズムの性格を強めていると言える。
 また90年代後半以降は対外的な介入戦争にも加わり、とりわけザイールのモブトゥ・ファシスト政権の打倒やその後に発生した第二次コンゴ戦争に関与するなど、侵略主義的な傾向も見せ始めた。
 近年になると、NGOの活動の制約や、公共秩序法による集会の自由の制限、さらにはアフリカでは成功例とされるエイズ対策に仮託した同性愛者厳罰法などの管理主義的な立法が累積されてきている。
 政権の長期化に伴う汚職も深刻化しているが、全体主義的管理体制が独立以来混乱続きのウガンダに相対的な安定をもたらしていることも事実であり、体制が大きく揺らぐ気配は現状では見られない。

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