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近代革命の社会力学(連載第97回)

2020-04-27 | 〆近代革命の社会力学

十四 ポルトガル共和革命:1910年10月革命

(3)10月5日革命への展開
 若いマヌエル2世国王の下、1909年にはポルトガルの内政は不安定を極め、急進的共和主義者は革命に動き出そうとしていた。特に、海軍に浸透した共和派は最も革命に積極的であった。しかし、王党派政府軍の警戒態勢も強く、革命の導火線はなかなかつかめなかった。
 そうした中、1910年、ブラジル大統領エルメス・ダ・フォンセカが国賓として訪問したことが一つの転機となる。フォンセカはブラガンサ朝親戚国ブラジルにおける共和革命の立役者で初代大統領となったデオドロ・ダ・ファンセカ元帥の甥に当たる人物である。
 ポルトガルの旧植民地ながら共和革命先発国となったブラジルの大統領の来訪は共和主義者を鼓舞し、10月1日に共和主義者による大規模なデモ行動を呼び起こした。これに加えて、重要な共和派理論指導者で医師でもあったミゲル・ボンバルダが10月3日に自身の患者に殺害されるというアクシデントが起きたことで、革命派の決起が促され、同日、海軍及び陸軍内の革命派が行動を起こした。
 ここで主導的役割を果たしたのは、アントニオ・マシャド・サントス少尉をリーダーとする海軍革命派であった。もっとも、決起の時点で政府軍7000人に対し、革命軍は海軍主体で2000人ほどと数的には劣勢であったが、政府軍側はおおむね士気が低く、小規模な戦闘は行われたものの、政府軍部隊の中には革命派に共鳴するものもあり、政府軍は精神的に劣勢であった。
 そうした中、事態を掌握できないマヌエル2世はリスボンを脱出して、西海岸の都市マフラへ避難した。国王が首都を捨て、さらに英領ジブラルタルへ亡命したことで、革命はほぼ帰趨を決し、10月5日、王政廃止と共和国の樹立が宣言された。蜂起からわずか二日の出来事であった。革命はほぼ軍部隊の同士討ち戦闘に収斂されたため、無血とはいかなかったが、公式には死者50人余りと記録されている。
 このように、ポルトガル共和革命において軍青年将校の役割が大きかった点では、軍長老のフォンセカが軍部をまとめてクーデターの形で決起したブラジルよりも、トルコにおける青年トルコ革命に近かったと言えるが、ポルトガルでは共和党の知識人政治家が背後にあり、革命成就後は彼らが中心となって第一共和政を運営していくことになる。


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