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近代革命の社会力学(連載第111回)

2020-06-08 | 〆近代革命の社会力学

十五 メキシコ革命

(5)反革命と再革命
 およそ革命においては、それがひとたび成功した後も、旧勢力による反革命が隆起してくることが多い。メキシコ革命もその例に漏れないが、ここでの反革命の起き方はいささかねじれていた。
 メキシコ革命の第一段階は、前回見たとおり、マデロを中心とするブルジョワ民主化革命であった。ところが、彼が革命プロセスをそれ以上に進めようとしないことに失望した農民運動勢力は、独自に革命の進展を図った。
 そうした第二の革命運動の前衛に立ったのは、農民運動指導者エミリアーノ・サパタである。彼は中規模の農園を所有する混血系メスティーソ中産階級の出自ではあったが、早くから先住民の権利要求運動に関わっていた人物である。
 サパタは「マデロ革命」に際しては、中部の地元モレロス州の革命軍を率いて参加したが、革命成就後には早くもマデロと決裂した。先住民への土地返還を要求するサパタに対し、農園主層の既得権を擁護するマデロはこれを拒否したからである。
 そこで、サパタは白人が先住民から収奪した土地・森林等の財産を先住民の所有とすることを謳った革命的なアヤラ綱領を発し、新たな農民革命運動を開始する。
 他方、保守派は革命を収束できないマデロの政治手腕に不満を抱き、北部や首都メキシコシティで相次いで武装反乱を起こした。こうして、誕生したばかりのマデロ政権は、左右から挟撃される窮地に陥ることとなった。
 これに対し、マデロは軍最高司令官ビクトリアーノ・ウエルタ将軍に鎮圧を命じた。ウエルタはディアス独裁体制の生き残りだったが、体制崩壊後はマデロに忠誠を誓って軍最高司令官に抜擢されていた。
 しかし、本質的に日和見主義のウエルタは会計不祥事で解任されるや、1913年2月、保守派反乱軍と共謀して反革命クーデターを断行し、マデロを拘束、殺害したうえで、自ら大統領の座に納まった。
 こうして成立したウエルタ政権はディアス政権の再現とも言える軍事独裁であり、革命は一気に収束し、革命前の状況に逆行するかに見えた。
 しかし、ウエルタの誤算は、アメリカの承認を得られなかったことである。当時のアメリカ大統領ウィルソンは基本的にマデロのブルジョワ民主化革命を支持しており、ウエルタに公然と辞職を要求してきたのだった。ウエルタ政権を承認したのは、イギリスとドイツだけであった。
 こうした外交的な孤立状況を見て、国内でもマデロを継承するベヌスティアーノ・カランサを中心とする立憲軍が組織され、再革命運動を開始した。立憲軍はカランサを「革命第一統領」に立て、1913年10月、北西部ソノラ州に臨時政府を樹立した。
 立憲軍は師団編成を擁していたが、所詮は寄せ集めのゲリラ勢力に過ぎなかった。しかし、ウエルタは正規軍を掌握しているにもかかわらず、アメリカの武器禁輸・押収措置によって反撃力を削がれており、翌年まで持ちこたえたものの、1914年7月に政権を放棄して、イギリス(後にスペイン)へ亡命していった。
 ここに、反革命を打倒する再革命が成功した。今回の主人公はカランサであったが、彼はマデロのコピーのような人物であり、やはりブルジョワ民主化革命の一線を越えようとはしなかった。
 1914年10月、革命の仕切り直しのためカランサの発案でアグアスカリエンテスにて招集された革命各派の協議会(アグアスカリエンテス会議)は、アメリカ独立革命当時の大陸会議に似た主権会議であったが、各派の考えはまとまらなかった。
 発案者のカランサ自身が欠席し決議を拒否するありさまで、翌月、エウラリオ・グティエレス将軍を20日間限定の暫定大統領に選出するだけで終わった。結果、この会議は新たな内戦の契機となったのである。


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