ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第94回)

2020-04-15 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(4)トルコ立憲革命(青年トルコ人革命)

〈4‐3〉革命の迷走と三頭体制
 30年に及ぶ専制の主人公だったアブデュルハミト2世を廃位して立憲革命をひとまず成功させた「統一と進歩委員会」(以下、委員会と略す)であったが、この革命組織が正式な政党となることはなかった。というのも、組織名が示唆しているように、委員会は帝国の統一を軸とするグループと、進歩を軸とするグループに分裂していたからである。
 統一派は青年将校に多く、その出発点はマケドニア独立運動の鎮圧にあった。かれらは近代的なトルコ民族主義者でもあり、トルコ人を中心とした集権的な帝国の構造を維持する考えであった。進歩派は、より緩やかな分権国家体制を志向し、少数民族自治にも寛容であった。
 当初、委員会内では進歩-分権派が優位にあったが、革命の過程では軍人の貢献が大きく、軍事革命の形を取ったことで、委員会内では統一-集権派が主導することになった。後者は分派して「自由と調和党」を結党するも、議会選挙では大敗し、勢力を失った。
 こうして、委員会指導部は統一派の軍人主導で固まっていくが、政党化されなかったことや、近代的な議院内閣制が未整備で、旧来の政府首班である大宰相の制度も存置されていたことから、委員会が直接に政権を掌握することができず、革命に成功しながら、革命政権を形成できないという膠着状況が続いた。
 この状況は四年にわたって続き、この間に内政面では権力闘争が繰り広げられる一方、帝国領内の支配下民族の独立運動が蠕動し始め、帝国は動揺した。このような状況を打破すべく、1913年、委員会は改めてクーデターにより、直接の政権獲得を目指し、成功させた。
 このクーデターを主導したのはエンヴェル・パシャ、ジェマル・パシャ、タラート・パシャの三人のパシャ(殿)称号を持つ指導者であった。このうち、エンヴェルとジェマルは軍人、タラートは郵便局員出身の文民である。この三人は文民のタラートを含め、いずれも統一派であり、以後は三人に権力を集中させる三頭政治体制が構築された。
 この三頭体制は、集権・トルコ民族主義を旗印とする革命的専制体制と呼ぶべきもので、最初の大仕事は1914年に始まる第一次世界大戦への参戦であった。この過程で発生したアルメニア人独立運動への鎮圧作戦が、大虐殺に発展した。
 この出来事は現在でもトルコ政府が公式には認めていないものであるが、トルコ民族主義で固まった三頭体制が領内の支配下民族の独立に敵対的であったことは間違いなく、この点では、支配下少数民族に対し比較的寛容であったオスマン帝国旧来の政策以上に、強硬かつ反動的であったとも言える。
 三頭体制が存亡をかけた大戦であったが、まだ近代化の途上にあったオスマン軍は列強連合国軍の攻勢に耐えられず、エルサレム、バグダッドなど中東の主要都市を落とされる中、1918年の休戦協定をもって、実質的に敗戦を迎えた。
 タラートは戦時中に大宰相に就任していたが、敗戦直前に辞職し、敗戦後、彼を含む三頭パシャは同盟国であったドイツへ亡命していった。これにより、「統一と進歩委員会」政権も事実上瓦解した。戦後、委員会は解体され、多くのメンバーが軍法会議にかけられ、処罰された。
 ただし立憲革命の成果そのものはまだ有効であり、以後は、ムスタファ・ケマルのような次世代の軍人革命家が台頭し、オスマン帝国そのものを解体する最終的な共和革命を主導していく。
 ちなみに、三頭パシャのうち、タラートとジェマルはいずれもアルメニア人虐殺への報復として、アルメニア人テロリストの手により亡命先で暗殺され、エンヴェルは最後の亡命地中央アジアで、ロシア十月革命後の反革命軍に参加し、革命派赤軍との戦闘で奇襲を受けて戦死するという、それぞれに壮絶な最期を迎えている。


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