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近代革命の社会力学(連載第259回)

2021-07-08 | 〆近代革命の社会力学

三十八 アフリカ諸国革命Ⅰ

(3)ザンジバル革命

〈3‐1〉オマーン系ザンジバルと共和革命
 東アフリカ沿岸のザンジバル諸島は東アフリカに侵出してきたアラビア半島のオマーンによって17世紀末に征服され、19世紀前半にはオマーン自体が遷都してきたが、1856年、君主であるスルターン位の継承争いからザンジバルが分離独立した。
 以後、オマーン首長家(ブーサイード家)の分家が独自のスルターンを世襲したザンジバル首長国では、スルターンをはじめとする政治支配層はオマーン系アラブ人が独占し、奴隷貿易に依存する経済はインド系商人が寡占する一方、スワヒリ語使用の先住黒人層が隷従的な労働に従事する民族別階級社会が形成されていった。
 しかし、国際的な奴隷貿易の廃止が打撃となる中、19世紀末、東アフリカに侵出してきたドイツとイギリスの勢力範囲の分割を約したヘルゴランド‐ザンジバル条約基づき、ザンジバルは1890年以降、イギリスの保護国として事実上イギリスの領域に編入された。
 時代巡り、第二次大戦後、アフリカ諸国の独立運動が活発になる中、ザンジバルも保護国を脱し、1963年に改めて立憲君主国として独立した。独立前夜のザンジバルでも近代的政党の発達が見られたが、民族別階級社会の現状に即して、諸政党も民族の分割線に応じて形成されていた。
 そうした中、独立直前の63年7月の総選挙では、多数派を占める黒人層及びペルシャ出自とも言われる中間層シラジが連合したマルクス‐レーニン主義のアフロ‐シラジ党(ASP)が過半数を獲得した。ところが、アラブ系政党であるザンジバル国民党が連立工作によって多数派政府を形成し、アラブ系は独立後も支配権の維持に成功した。
 この結果に不満を持つASPは、アラブ系の左派政党であるウンマ党と連携したが、ウンマ党は議席を有しておらず、議会工作で政権を掌握する方法は可能性が乏しかった。そうしたところへ、ウガンダ出身の風雲児的革命家が登場する。
 その人物ジョン・オケロの詳細な経歴は不詳ながら、1959年にザンジバル島を構成するペンバ島に現れ、アフロ‐シラジ党に入党、巧みな弁舌でたちまちカリスマ的な党青年組織の指導者となった。彼はまた、故郷のウガンダから傭兵を徴募し、数百人規模の武装集団を組織した。
 この外人革命集団は、1964年1月に武装蜂起した。貧弱な装備にもかかわらず、ザンジバル政府側も強力な軍を保有していなかったため、この無謀とも言える武装蜂起はわずか9時間で成功し、最後のスルターンとなった ジャムシッド・ビン・アブドゥッラーはイギリスへ亡命した。
 このおそらく近代革命史上でも最短と思われる革命の所要時間とともに、ほぼ外人組織によってのみ実行されたことは、ザンジバル共和革命の際立った特殊性となっている。ここには、オケロの革命的才覚とともに、イギリス保護国時代にアラブ系スルターンの権威がすでに失墜し、形骸となっていたことをも示している。
 ザンジバル革命のもう一つの悲しむべき特質として、直後に凄惨な民族虐殺を伴ったことである。オケロの革命集団は旧支配層への報復として、アラブ系とインド系国民の殺戮を行った。犠牲者数はいまだ確定しておらず、数千人から数万人まで推計値はまちまちであるが、殺戮の一部はイタリアの映画監督グァルティエロ・ヤコペッティによって撮影され、ドキュメンタリー映画化された。
 こうした民族的惨事の随伴はオケロの扇動的な性格の反映であるとともに、ザンジバル革命が単なる共和革命を越えて、ルワンダ革命でも見られたような旧来の民族別階級社会の急速な解体を結果する社会革命の性格を伴っていたことを示すものと言える。


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