ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第192回)

2021-01-20 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(2)ユーゴスラヴィア・レジスタンス革命

〈2‐2〉パルティザンの政治組織化と解放
 ユーゴのパルティザンは小規模なゲリラ組織として出発しながら、たちまちにして大規模な軍事組織に成長したが、その背景には、前回見たような民族主義によらない横断的な組織作りの巧みさとともに、英米、ソ連をはじめとする連合国の幅広い支援も受けられたことがある。
 その点、明確に共産主義を理念としながら、反共の英米の支援まで受けられたのは、反共レジスタンスのチェトニクの立場が動揺的で、枢軸国側に寝返る危険があった反面、パルティザンは一貫しており、短期間で数十万の兵員を擁する士気の高い軍事組織に成長し、戦果を上げていたという既成事実があった。
 実際、結成の翌年には早くも兵員20万人余に達し、戦争末期の45年になると80万を超えるまでに膨張し、海軍や空軍まで備えた統合的な正規軍に近い状態に達していた。
 そのため、ドイツ軍の侵略にさらされていたイギリスやソ連が自国の防衛に忙殺され、軍事的な援護が後手に回っていた中でも、パルティザンはほぼ自力で戦闘を継続することができるだけの能力を保有していた。
 こうした軍事組織としてのパルティザンやその作戦の展開について詳述することは本連載の目的から逸れるので、割愛するが、革命という観点からは、パルティザンのもう一つの特質として、単なるレジスタンスの軍事組織にとどまらず、早い段階から政治的な組織化にも取り組んでいたことが注目される。
 そうしたパルティザンの政治組織として、1942年に、ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)が設立された。これは反ファシズムの政治闘争組織であるとともに、実質上はパルティザン指導者チトーが主宰し、非共産党員も広く結集して開催されたある種の建国準備会議であった。
 そうした広範性を反映して、会議では共産主義の理念が前面に出されず、私有財産の擁護や経済活動の自由など、ブルジョワ的な自由主義が謳われていた。
 このことは、後の共産党主導の新国家樹立から遡って考えれば、非共産党員にも配慮した煙幕とも言える内容であったが、新生ユーゴがソ連型社会主義とは異なる自主管理による「自由な」社会主義体制に進んだことからすると、あながち政治的な偽装とも言い切れない。
 いずれにせよ、AVNOJは一回性のものではなく、まだレジスタンスが継続していた1943年に第二回会合が開催され、そこではAVNOJを暫定的な最高機関とすること、そのうえで、ユーゴスラヴィアを主要な民族別に六つの共和国から成る連邦国家として再建すること、チトーを元帥兼首相とすることなどが決議された。
 さらに、在英のユーゴ王国亡命政府の廃止と、君主制の将来について国民投票で決することも決議され、旧ユーゴ王国との決別が示されたため、君主制の帰趨は国民投票に委ねるとしながらも、この時点で共和革命が成ったとみなすことができる。
 ここでいち早く、戦後の新生ユーゴ連邦の骨格が示され、しかも、チトーが軍及び行政の長に就くことが示されたことからは、チトーとパルティザンが単なるレジスタンスを超えて、明確に革命を志向していたことが見て取れる。
 とはいえ、レジスタンスはまだ完了しておらず、この後、1944年5月にはチトーが在所する司令部をドイツ軍が攻撃し、拘束されかけたところを間一髪でイタリアに脱出するという危険な一幕もあった。
 しかし、44年10月、ソ連軍との共同作戦として展開されたセルビアのベオグラード進撃により同地を解放したのを契機に、最終攻勢に転じ、45年5月、第二次大戦における欧州戦線全体でも最後の戦闘となったスロヴェニアのポリヤナの戦いに勝利して、レジスタンスは完了したのである。


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