ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第420回)

2022-05-02 | 〆近代革命の社会力学

五十九 ネパール民主化革命

(3)革命運動の始動と展開

〈3‐1〉政党決起の初動的失敗
 長く低調だったネパールの専制君主制に対する民主化運動に転機が訪れたのは、1990年(以下、断りない限り日付は1990年度)のことであった。その決定的な動因を特定することは難しいが、この時期、中・東欧での連続革命が進行中であったことが外部要因として刺激となったことは確かである。
 最初に行動を起こしたのは、1951年立憲革命でも主導的役割を果たしたネパール会議派(以下、会議派)であった。ベテラン指導者ガネーシュ・マン・シンハに率いられた会議派は分裂状態の共産党に連携を呼びかけ、これに応じた共産党各派が統一左翼戦線を結成した。
 こうした非共産主義政党と共産党の共闘関係も稀有であるが、統一左翼戦線議長に女性のサハナ・プラダンが就いた点でも、稀有な運動となった。この民主化運動連合が、1951年立憲革命でラナ家独裁が終焉した記念日である2月18日を革命始動日として、運動を開始した。
 とはいえ、政党活動は全面禁止され、監視下にあったため、国王政府当局の動きも素早く、焦点の2月18日を前に、プラダンやシンハら政党指導者を一斉に拘束したうえ、革命運動の潜勢力となる学生の大量検挙も断行した。
 これに対して、警察との流血衝突を伴う学生や一部市民の抗議デモや専門職業人のストライキ、文学者の抗議活動なども起きたが散発的であり、当局による迅速な大量予防拘束の効果は大きく、3月にかけて民主化運動はいったん沈静化に向かった。

〈3‐2〉民衆蜂起への急転
 収束しかけた運動が再燃するのは、3月27日に東部の都市で反体制派学生が体制支持派学生に刺殺されるという小さな事件が契機であった。これは個人間のトラブルに近い事案でありながら、学生の間で新たな抗議活動の動因となり、全国規模での学生蜂起につながった。
 これを契機に政党連合が再び動き出し、夜間一斉消灯というユニークな抗議行動を開始した。この誰でも簡単に実行できる抗議行動は、一般市民にも浸透した。一方、一部地方都市では街頭デモも隆起し、バリケードで封鎖した解放区が設定されるなど、にわかに革命的進展が見られた。
 こうした民衆蜂起は公務員にも波及し、4月に入ると、通常は禁断である公務員のゼネストという稀有の事態に発展し、政府機能が麻痺し始めた。ここに至り、ようやくビレンドラ国王も重い腰を上げ、民主化に関する諮問を行う。
 その結果、内閣総辞職と憲法改正を軸とする国王声明が発せられ、新たな暫定内閣と政党の間での憲法改正に向けた協議が開始された。とはいえ、国王政府側は複数政党制の復活に同意しつつも、パンチャーヤト制の廃止は拒否していた。
 このような守旧的な政府に対し、パンチャーヤト制の廃止を求める1万人規模の抗議デモが首都カトマンズで発生すると、暫定内閣は総辞職し、国王もついにパンチャーヤト制の廃止に同意した。これが4月16日のことであるから、革命始動日の2月18日から起算すれば、この間、2か月余りでの急転であった。
 この後、会議派を軸に、事実上の共産党である統一左翼戦線やその他の民主化運動指導者も参加した挙国一致内閣のもと、11月に立憲君主制を基調とする新憲法が制定され、これに基づく翌1991年5月の総選挙では会議派が過半数を占め、正式に同党主導の新政権が発足した。


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