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近代革命の社会力学(連載第197回)

2021-02-03 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(3)アルバニア・レジスタンス革命

〈3‐3〉社会主義体制の樹立と鎖国化
 前回見たように、アルバニアにおける二大レジスタンス組織のうち、民族戦線はナチスドイツとの協力組織と化して脱落、他に有力な受け皿となる勢力もなく、必然的にLANÇと事実上一体的だった共産党が政権を掌握することとなった。
 これも前回見たとおり、共産党はレジスタンスの組織化を通じて同時的に党の組織化を進めており、全土解放前の1944年5月には、来る政権樹立を見越して、すでに支配権を確立していた南部の町ペルメットに反ファシスト民族解放評議会を招集し、政権樹立の準備会合を開催していた。
 全土解放後の44年11月、エンヴェル・ホジャを首班とする臨時政府が樹立されると、戦後の46年にはすでに実体を失っていたゾグー朝君主制が正式に廃止され、社会主義体制としてのアルバニア人民共和国が建国された。
 こうしたレジスタンス革命の流れはレジスタンスにおいて援護・共闘関係にあったユーゴとも重なるが、その後の歩みは大きく異なるものとなった。名実ともに最高指導者となったホジャは、ユーゴの最高指導者チトーとはイデオロギー的な面で齟齬があったからである。
 すなわち、チトーが自主独立を重視し、間もなくソ連と決別して独自の自主管理社会主義へ赴いたのに対し、ホジャは教条的なスターリン主義者であり、親ソ路線を貫いた。そのため、1948年にはユーゴと断交、国内の親ユーゴ派を粛清した。
 ホジャのスターリンへの忠誠ぶりは、スターリンの指示により、共産党の党名を労働党に変更したことにも表れている。ただし、これは形式的な党名変更にすぎず、実態はいわゆるマルクス‐レーニン主義を教義とする他名称共産党にほかならなかった。
 こうして、一定の自由が保障されたユーゴとは対照的に、ホジャのアルバニアはまさにスターリン時代のソ連のコピーのような有様となり、鉄の規律に基づき、粛清と弾圧が常態化したホジャの独裁・恐怖政治体制として固まる。
 その後、1985年に死去するまで、チトーよりも長い40年以上に及んだホジャの独裁時代について詳論することは本連載の主旨を外れるが、ホジャの教条的スターリン主義は、冷戦時代、同じ社会主義陣営内部でも摩擦を引き起こした。
 すなわち、スターリン没後にスターリン批判を打ち出したソ連との関係途絶、その後、毛沢東時代の中国に接近し、大陸中国を台湾に代えて国際連合中国代表とする決議に尽力しながら、晩年の毛沢東や毛没後の中国にも批判的となり、中国との決別にもつながった。その結果、アルバニアを閉塞と貧困にあえぐ鎖国状態に陥れた。
 そうした危機的状況を危惧したレジスタンス時代からの盟友にして長年のナンバー2だったメフメット・シェフーはホジャと対立、1981年に謎の自殺を遂げた後に、親ユーゴ派のレッテルを張られて死後糾弾されるなど、教条主義は80年代に至っても不変であった。
 ユーゴではチトーの死から社会主義体制の崩壊までに12年ほどタイムラグがあったが、アルバニア社会主義体制はホジャの死から6年ほどで民衆革命によって崩壊したのは、体制がホジャ個人と一体であったことを示唆している。


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