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近代革命の社会力学(連載第254回)

2021-06-28 | 〆近代革命の社会力学

三十七 韓国民主化革命

(4)第二共和国とその挫折
 4.19革命は自然発生的かつ未組織の民衆政変に端を発するため、革命政権は形成されず、政権崩壊後は李承晩政権当時の許政外相を首班とする暫定移行政権が発足したが、主導権はすでに野党民主党に遷移しており、1960年6月までに憲法改正が行われた。
 新憲法の目玉は、議院内閣制の採用であった。議院内閣制の採否は独立当初から共和政体上の主要な争点であったが、強力な指導者へのニーズから、第一共和国では大統領主導制が採用された。
 しかし、大統領への権力集中は独裁を招いたことから、第二共和国憲法では初めて議院内閣制が採用され、大統領は儀礼的存在となり、国務総理(首相)中心の体制が構築された。
 こうして、革命後最初の国政選挙となった1960年総選挙では、野党民主党が順当に勝利し、民主党政権が発足した。新憲法下で実権を握る国務総理には、李承晩政権末期のねじれ体制の副大統領だった張勉が就いた。
 民主党政権は、外交上は日本との国交正常化交渉を最初の課題とし、対米依存からの脱却を目指したほか、焦点の経済政策では、社会主義政権ではないながらも、国家主導の経済開発計画による経済成長を目指すなど、李承晩時代からの大転換を図った。
 同時に、李承晩体制下では抑圧されていた政治的自由を大幅に認めた結果、学生運動や労働運動も活性化され、革新政党も林立した。
 一方、政権与党の民主党はイデオロギー的に明確な軸を持たない中道リベラル/保守政党であり、党内に派閥争いがあり、儀礼化されたはずの尹潽善[ユン・ボソン]大統領と実権を握る張勉国務総理との間で確執が高まり、政権は不安定化する。
 本質的には保守的な民主党政権はまた、4・19革命の主体となった学生運動とは疎遠な関係にあったところ、学生運動は革命後急進化し、北朝鮮に接近、学生交流を通じた統一運動へと展開する。革新的社会運動も活性化し、デモが頻発する中、自由化を看板とする民主党政権はそうした混迷を統制できなかった。
 他方、政権は李承晩体制の清算として公職者追放措置を実施し、軍内でも下級将校の下克上的な「整軍運動」により、高級将校が糾弾・追放されるような事態が発生、保守派の不安や反発が次第に高まっていった。
 自身が党内抗争から不安定化していた民主党政権は自由化に伴う社会全般の不安定化を制御できず、経済停滞への対処も失敗し、ウォンの暴落を招いた。こうした社会経済的な危機は、学生運動の急進化ともあいまって、北朝鮮を利することが懸念された。
 そうした中、4.19革命時は中立を守った軍部内の野心的な少壮軍人グループが1961年5月、クーデターを敢行する。
 朴正熙少将に率いられたクーデター勢力は軍事革命委員会を名乗り、「反共体制の再整備」を筆頭項目とする「革命公約」を掲げたが、実態は入念に計画された反革命クーデターであり、軍事政権は第二共和国を解体し、再び大統領中心の権威主義体制を復活させた。
 クーデターに際し、アメリカは当初、在韓米軍と駐在公館レベルで鎮圧の仲介に動いたが、これに失敗すると、時のケネディ政権はクーデターをあっさり承認した。その後、1963年の形式的な民政移行後、軍に基盤を置く朴正熙大統領による親米・親日の反共独裁体制が1970年代まで続く。
 こうして、第二共和国は一年余りという短期で挫折したわけだが、南北朝鮮の分断対峙という特殊状況下で軍の政治化が避けられず、北朝鮮の脅威と経済開発に対応するうえで社会にも強力な指導者へのニーズがまだ残っていたことが、第二共和国を短命に終わらせたと言える。それはまた、上部構造由来の革命の脆弱さをも示している。
 とはいえ、第二共和国が先鞭をつけた自由化はその後、1980年代末まで続いた独裁的な軍人政権の期間中、厳しく弾圧されつつも、粘り強い民衆抗議勢力の形成を促し、90年代以降の民主化の下支えとなった限りで、4.19革命の余波は続いたと言える。


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