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近代革命の社会力学(連載第345回)

2021-12-13 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(1)概観
 アフガニスタン社会主義革命の翌年、1979年に発生したのが、隣国イランにおけるイスラーム共和革命(以下、イラン革命)である。これは時期にのみ注目すれば、連続革命のように見えるが、革命の実質は正反対と言えるものであり、隣国同士の両革命にイデオロギー的な連続性は認められない。
 すなわち、イランにおける革命は保守的なイスラーム主義のイデオロギーに基づき、当時の君主制を打倒し、イスラーム法に基づく共和体制の樹立を目指した革命であり、宗教者が中心的な役割を果たした点においても、それまでの世界歴史上見られなかった新しいタイプの革命であった。
 近代におけるイスラーム主義に基づく革命的な事象としては、イラン革命に先立つこと約100年前のスーダンにおけるマフディ―革命がある(詳しくは、拙稿参照)。
 これは当時、イギリスの間接支配下にあったエジプトの支配を受けていたスーダンで発生したある種の独立革命であったが、このマフディ体制(スンナ派)は、中国における太平天国の乱にも似て、前近代的な価値観に基づく宗教運動の帰結であったため、時代的には「近代」であったが、イラン革命の先駆けとは言い難い。
 その点、イラン革命は、近代主義と鋭く矛盾するイスラームの復興という保守的な側面とともに、専制的な君主制から共和制への移行という革新的な側面とが複合された「革命」であった。そのため、その発生力学や革命後の展開にも、複雑な変遷がある。
 そうした詳細は後に見るとして、ひとまず歴史的に概観すれば、イランは、20世紀に入って、いずれもロシア革命に触発された立憲革命社会主義革命を経験したが、社会主義革命は北部のギーラーン地方のみの地方的な革命に終始していたことは以前に見た。
 社会主義運動自体は、その後も1920年創立のイラン共産党によって継承され、第二次大戦下の1941年には共産党を核とするより包括的な左派政党として、イラン人民党(トゥーデ党)が結党された。この党は戦中戦後にかけて党勢を拡大したが、49年の皇帝暗殺未遂事件を口実に非合法化された。
 その後、トゥーデ党は50年代に短期間合法化されるが、またすぐに非合法化されて、地下と海外での活動に追い込まれた。こうした経緯から、イランでは、アフガニスタンにおけるように社会主義勢力が大きく台頭する余地はなかった。
 他方、1950年代には、ある程度の民主化改革によって非共産系の民族主義的な左派政党連合・民族戦線が政権勢力として台頭し、石油産業国有化を軸とする社会主義に傾斜した施策を進めるが、イランの石油利権の死守を図る米欧の警戒を招き、アメリカが背後で糸を引くクーデターにより、民族戦線政府は打倒された。
 こうした状況下で、1925年の樹立以来、二代にわたって存続していたパフラヴィ―朝は、久方ぶりに登場したイラン系民族の王朝として、民族主義と近代主義を組み合わせた反共・親西側政策を追求し、特に1963年以降は、皇帝の絶対的な権力を背景に、物心両面での脱イスラーム・近代化政策を推進していった。
 そのような専制君主制と結びついた急進的な近代的社会経済開発路線―ある種の比喩として「白色革命」とも称された―に対する反作用として、イラン伝統のシーア派(十二イマーム派)教義に基づくイスラーム主義が台頭し、70年代後半には革命運動に発展していくことになる。


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