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近代革命の社会力学(連載補遺17)

2022-09-20 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二ノ二 テキサス独立革命

(4)テキサス共和国の成立からアメリカ編入まで
 1835年3月の独立宣言、同年5月のベラスコ条約をもってテキサス共和国(以下、単に共和国)の独立が実現したが、この独立革命の過程で急速に台頭してきた新たな指導者が、テキサス軍最高司令官を務めたサミュエル・ヒューストンである。
 彼はオースティンと同様にバージニア州出身ながら、最初に移住したテネシー州で知事を務めた後にテキサスへ移住してきた新参者であったが、テキサス軍最高司令官として独立戦争を戦った功績やテネシー州知事としての政治経験が買われ、共和国初代大統領に選出されたのであった。
 一方、オースティンは1836年9月の大統領選挙に立候補したものの、三位に終わり、ヒューストンの圧勝であった。その後、オースティンはヒューストン政権の州務長官に任命されたが、2か月で急死した。
 こうして新指導者の下でスタートした共和国であるが、有力者の間では、独立を維持するか、アメリカへの編入を求めるかで対立があり、ヒューストン政権はアメリカへの編入を決定したのに対し、1838年に第2代大統領となった編入反対派のミラボー・ラマーは編入決定を撤回した。
 アメリカ政府は当時、領土拡張政策の一環としてテキサス編入に前向きであったが、編入に反対するメキシコとの戦争や南部奴隷制の拡大を懸念して躊躇していたこと、アメリカの領土拡大を警戒する欧州列強もテキサスの編入を牽制するため、続々と共和国の国際承認に動いたことから、共和国は1845年まで10年近く存続することとなった。
 共和国は人口7万人ほどの小国ながら、アメリカ合衆国の相似形的な構制を持っていたが、奴隷制と人種隔離に関しては南北戦争前のアメリカよりも過酷で、議会が奴隷貿易を制限する法律を制定したり、奴隷解放を宣言したりすることを禁ずるほか、黒人奴隷の解放は所有者ですら議会の同意なくしては許さず、アフリカ系自由人は議会の同意なくして永住することも許さないという強度の白人優越主義国家であった。
 また、少数派のメキシコ系住民も革命に際しては兵士として少なからず寄与しながら、共和国の白人優越主義の気風の中、元革命軍将校で共和国議員も務めたフアン・セギンのような例外を除けば、差別に直面することとなった。かれらは土地を奪われ、多くはメキシコに移住を余儀なくされた。
 そうした中、テキサス独立問題はアメリカと欧州列強、新興国メキシコの国際的パワーゲームの中に投げ込まれるが、1845年、時のジョン・タイラー米大統領の決断、併合に強硬に反対していたサンタ・アナ墨大統領の政変による失権という情勢変化の中、編入条約の締結と共和国議会の決議により、アメリカ編入が実現した。
 こうして、共和国は1846年2月をもって消滅、以後はアメリカ合衆国テキサス州として再編されるが、これに反対するメキシコは併合すれば戦争という従前からの警告どおり、アメリカに宣戦布告し、1848年まで米墨戦争となる(結果は敗戦)。
 その結果、戦勝したアメリカがメキシコの領有権主張を放棄させる形でテキサス編入が正式に承認されたが、アメリカにとっては南部の奴隷制存置州の拡大という問題を抱え込むことになり、ひいては1860年代の南北戦争の遠因ともなる。


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