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近代革命の社会力学(連載第376回)

2022-02-04 | 〆近代革命の社会力学

五十五 フィリピン民衆革命

(2)寡頭民主制から開発独裁制へ
 1946年にアメリカから独立した後のフィリピンでは、アメリカにならった大統領共和制が定着し、おおむね保守系の国民党とリベラル中道系の自由党の二大政党政の枠組みで政権交代を繰り返すことにより、東南アジアでは際立って安定した民主政治が遂行されていた。
 とはいえ、その実態はスペイン統治時代以来のスペイン系財閥や華僑系財閥による大土地所有制を土台とし、大多数の国民は貧農層という不平等な社会構造の上にに築かれた典型的なブルジョワ寡頭民主制にほかならなかった。そのため、農村部を拠点とした農民の武装抵抗運動組織が独立直後から活発に活動した。
 一方、独立フィリピンは対外的には引き続き旧宗主国アメリカに従属し、冷戦時代には東南アジアにおける反共の砦として米軍基地が半恒久的に置かれるなど、ラテンアメリカの状況に等しい対米従属構造の下に置かれていた。
 その点、農村に浸透しつつあったフィリピン共産党は米軍の支援を受けた1950年代の掃討作戦によっていったん壊滅したが、農村を拠点とする革命運動が隆起することを防ぐためにも、歴代政権のいくつかは大土地所有制にメスを入れる農地改革を試みた。しかし、どの政権も無視できない地方政治を掌握する財閥地主層の抵抗は強く、本質的な農地改革は不可能であった。
 そうした中、1965年の大統領選挙で、少壮政治家のフェルディナンド・マルコスが当選を果たした。弁護士出身のマルコスは当初自由党に所属し、上下両院議員を経験し、若くして上院議長にもなったが、65年大統領選挙に際して党からの指名を受けられなかったことで一転、対抗政党の国民党に鞍替え出馬し、勝利を収めた。
 こうして第10代大統領に就任したマルコスの施政方針は、地方での公共事業の増発と農業革新を通じた農業生産力の増強というものであった。つまりは農地改革を迂回した地方開発ということであり、そのために日本からの援助や投資も大いに活用した。
 このような資本主義的な開発優先政策は当初成功を収め、マルコスは1969年の大統領選挙で独立後初となる再選を果たした。しかし、その陰では、農村における階層分化と都市部への農民の流入によるスラム化などの新たな社会問題が発生していた。
 農村では毛沢東主義者が改めて共産党を再結成し、武装ゲリラ活動を開始する一方、都市では学生運動が隆起し、1970年代に入ると、治安の急速な悪化が見られた。これに対処するためとして、マルコスは1972年9月、戒厳令を布告し、以後81年の解除まで政権に居座り、野党を抑圧しつつ、軍事的な戒厳統治を継続した。
 これにより、フィリピンは従前の寡頭民主制から開発独裁制へと大きく転換することになる。この新体制下、マルコスはある意味で既存の地主階級の特権にメスを入れたが、それは特権構造そのものの変革ではなく、既得権益を自身の一族及び側近集団に付け替えただけのことであったため、急速に一族支配制へと変質していった。
 ただし、戒厳体制はあくまでも暫定措置にすぎないため、すでに戒厳令を機に国民党を離党していたマルコスは、独裁が固まった1978年にファシズムの性格の強い翼賛政党として「民族主義者・自由主義者その他連合新社会運動」を結成し、戒厳体制終了後の政権継続にも備えていた。


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