ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第267回)

2021-07-23 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(3)イラク革命

〈3‐2〉共和革命と最初期革命政権
 親英君主制のイラク‐ヨルダンと汎アラブ主義のエジプト‐シリアというアラブ世界内部での対峙状況が生まれる中、1958年7月、イラクは共和派による革命の危険が高まっていたヨルダンを支援するため、軍の派遣を決めたところ、このヨルダン派遣軍の一部が反旗を翻し、バクダードにて決起し、首都を制圧、王政廃止と共和制移行を宣言した。
 この外国派兵の機会を利用した電光石火の革命を起こしたのは、ヨルダン派遣軍にも参加していた自由将校団であった。クーデター手法による革命の形態としてはまさに範を取った52年エジプト革命と同様であったが、無血に終わったエジプトとは異なり、イラクでは国王ファイサル2世はじめとする王族に加え、政界実力者ヌーリー・アッ‐サイードもクーデター軍により殺害されるという凄惨な流血革命となった。
 このような対照的な結果は、19世紀から続き、エジプト近代化にも寄与したムハンマド・アリー朝と異なり、イギリスによって立てられた傀儡に近いイラクのハーシム朝はナショナリストの憎悪の対象であり、根絶が狙われたという両王朝の相違によるものだろう。実際、イラクのハーシム王家は革命時の一族殺害により断絶している。
 こうしてイラクは劇的な流血革命により共和制へ移行したが、革命最初期には統一的な大統領が置かれず、イラク社会の三大構成要素であるシーア派・スンナ派の二大宗派に少数民族クルド人を加えた三派代表から成る主権評議会が最高機関とされた。ただ、実際にはアブドルカリーム・カーシム准将(少将に昇格)を首班とする閣僚評議会が全権を持つ移行期集中制であった。
 その点、革命政権は革命に先立つ56年に結成されていたイラク共産党、バアス党を含む革新系政党連合・国民連合戦線によって支えられており、これら諸政党による多党連立政権という不安定なものであった。しかも、カーシム首相にはナーセルのようなカリスマ性が欠けており、政権の行方は不透明であった。
 とはいえ、当初の革命政権はまず外交安保面で、中東条約機構からの脱退とソ連への接近という転換を断行した。しかし、エジプト‐シリアのアラブ連合共和国への統合問題では、統合に消極的なカーシムとこれに積極的な政権ナンバー2のアブドッサラーム・アーリフ大佐との間で確執を生じ、いったんはアーリフが失権することになった。
 一方、ソ連への接近により連立政権内で共産党の力が増し、党員ではないながらもカーシム首相は共産党の力に依存するようになった。このような革命政権の準共産党政権化は連立内のバアス党やナセリスト派との軋轢を生むことになる。
 とはいえ、さしあたり共産党を軸とする政権枠組みの下で、封建的な土地制度にメスを入れ土地の再配分を実行した農地改革や外資に支配された石油産業への介入などの経済改革が推進されたほか、教育制度の拡充、女性の権利の向上、特に一夫多妻習慣の禁止や平等な相続権など多方面にわたる社会改革も推進され、この時期はイラク史上で最も革新的であった。


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