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近代革命の社会力学(連載第46回)

2019-12-02 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(1)概観
 
欧州では、ナポレオン帝政の崩壊後、ウィーン会議で旧絶対王政の復活が国際的に保証され、18世紀フランス革命以前の世界へ引き戻そうとする反革命反動の潮流が定着、欧州主要国で続々と絶対王政が復権していた。これに反抗する第一次欧州連続革命は、ポルトガル革命とフランス七月革命を除けば、いずれも短命で挫折したことは六でも見たところである。
 この間、欧州の革命勢力は抑圧され、冬の時代にあったが、完全に絶滅したわけではなかった。特に、いまだ統一国家が形成されていなかったイタリアでは、マグマのように革命の機運が高まっていた。それが1848年、まずは復古主義の象徴でもあったボルボーネ(ブルボン)朝支配下のシチリアにおける革命として爆発し、次いでオーストリア支配下にあった北イタリア各地にも連鎖していった。
 この動きはフランスにも同時的に波及し、同じ年のうちに二月革命を誘発した。フランスでは、七月革命以来、よりリベラルなオルレアン朝の立憲君主制が機能していたが、制限選挙により参政権を否定されていた労働者層の不満が鬱積していたのであった。革命により、国王ルイ・フィリップは退位・亡命し、18世紀フランス革命以来の共和制が復活した。
 端緒となったイタリアの諸革命は順次鎮圧され挫折するが、フランス二月革命の成功は、連続革命に勢いを与えた。それは、ウィーン会議体制のまさに聖地とも言える反革命の牙城オーストリアにまで波及した。ここでは、三月革命により、ウィーン体制の守護神的存在であったオーストリア宰相メッテルニヒが辞職・亡命に追い込まれた。
 さらにこの動きはオーストリア同様に保守的なプロイセンにも拡大し、ベルリンでも三月革命を誘発し、民主的な統一ドイツの創設を目指すフランクフルト国民議会の招集にもこぎつけた。プロイセンの革命は当時まだ多数の領邦に分裂していたドイツ全土に広がり、諸邦で革命的蜂起があった。
 第二次欧州連続革命の波は、第一次革命では影響が限られていた中東欧にも広く拡散し、ハンガリー三月革命のほか、ボヘミア、ポーランド、ルーマニアなど、大国の支配下にあった地域でも革命ないしは革命的蜂起を誘発した。また北欧でも、デンマーク三月革命を誘発した。
 こうした一連の連続革命は、そのほとんどが1848年の一年間に集中しているため、これを「同時革命」と呼んでもさしつかえないかもしれない。連鎖範囲の点でも「諸国民の春」と通称されるほどに広範な革命の連鎖現象は世界歴史上も初のことであり、19世紀前半における新聞・出版メディアの発達というマス・コミュニケーションの変革も情報拡散手段として後押ししたと考えられる。
 もっとも、同時革命といっても、諸革命の担い手勢力は、各国の地政学状況や政治情勢、社会経済的発展段階により、ブルジョワ革命の性質を有するものから、プロレタリア革命、社会主義革命の性質を一部有するもの、民族的独立に重点のあるものまで、多様であり、全体を一つにまとめられる革命事象とは言えない。
 その点、カルボナリ(シャルボンヌリー)党が一定の革命的核心となった第一次連続革命と比べても各国革命勢力間の連携には欠けており、第二次連続革命も多くの場合、絶対主義体制側の武力により押し返され、そのほとんどが挫折に終わった。
 ひとまず成功したと言えるのはフランス二月革命であったが、ここでも当初共和制下の大統領に就任したナポレオンの甥ルイ‐ナポレオン・ボナパルトが自己クーデターによって共和制を廃し、叔父に倣った第二帝政を樹立したため、18世紀フランス革命の反復のような事態に向かってしまうのであった。


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