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近代革命の社会力学(連載第27回)

2019-10-09 | 〆近代革命の社会力学

四 18世紀フランス革命

(8)革命における宗教力学
 18世紀以前の革命では、宗教というファクターが何らかの形で革命のプロセスにおける重要な因子を成しているが、その点はフランスというカトリックの中心地で発生した18世紀フランス革命でも例外ではあり得なかった。ただ、ここではカトリック対反カトリックというような単純な図式では割り切れない複雑な展開が見られる。
 キリスト教内部の反カトリック急先鋒となり得るプロテスタント(ユグノー)は、16世紀のユグノー戦争と17世紀末から18世紀初頭にかけてのルイ14世時代の宗教的非寛容政策の時代を通じて、その多くがドイツなどに亡命・移住していたため、フランス革命の時代に革命プロセスで重要な役割を果たすことはなかった。 
 興味深いことに、フランス革命のプロセスでは、カトリック聖職者が重要な宣伝者の役割を果たしている。そもそも革命勃発につながる第三身分の決起を促したのは、司祭のシエイエスであった。基本的に穏健派だった彼は、革命の進展に伴いいったん逼塞したが、代わって、登場した急進派アランジェの指導者ジャック・ルーもまた司祭である。  
 このような「革命派司祭」は、いずれも聖職者としての職階上は下位にあり、カトリック信仰は維持しながらも、第一・第二身分のカトリック保守主義からは離れ、第三身分・民衆の一員として、進歩的な価値観をもって革命プロセスに参画した者たちであった。  
 一方、ヴァンデ戦争の中では、カトリック保守主義をベースとする王党派・王政復古派が農民一揆と結ぶ形で反革命戦争に打って出ており、反革命軍は「カトリック王党軍」を称し、カトリックを旗印とした。王党軍指導者のジャック・カトリノーは行商人上がりで、聖職者ではなかったが、敬虔なカトリック教徒であった。
 これに対し、革命指導者の宗教観はほぼ反カトリックの世俗主義であり、革命の初期段階でカトリックを国家管理下に置く聖職者民事基本法を成立させているが、全員が無神論で一致していたわけではない。実際、フランス革命の恐怖政治期には、二つの奇妙な擬似宗教的祭典が挙行されている。  
 一つは、1793年11月以降、ほぼ一年間にわたってフランス各地で開催された「理性の祭典」である。これはエベール派主導で開催されたもので、名称どおり「理性」を崇拝する祭典であった。このような理性崇拝は、フランス啓蒙思想の合理主義の産物でもあった。  
 祭典ではカトリック教会を「理性の教会」に衣替えしたうえ、パリのノートルダム大聖堂にヴォルテール、ルソー、モンテスキューら啓蒙思想家たちの胸像を配したギリシャ風神殿を設置し、「自由と理性の女神」を主役とする劇を演じるといった趣向が採られた。  
 基本的には無神論を流布するための国家的行事であったが、そのために宗教的な趣向を用いた点で、無神論自体を宗教化したような擬似宗教的色彩を帯びたイデオロギー宣伝の場となり、「理性教」の創唱とも言えた。  
 しかし、「理性の祭典」はエベール派弾圧後、ロベスピエール派の独裁期には否定された。代わって、ロベスピエール派は「最高存在の祭典」を挙行した。ロベスピエールの考えによれば、カトリック信仰も理性崇拝もともに誤りであり、それらに代わる新たな道徳の根拠となるような新宗教が必要なのであった。  
 「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」というロベスピエールの箴言どおり、彼は新たな神を作り出すつもりでいたのだった。それが「最高存在」だというわけだが、いかにも漠然としており、祭典でも「最高存在」の像なる抽象芸術的な彫刻が持ち出されるばかりで、祭典は正体不明の擬似宗教的な儀式にとどまっていた。
 ルソーに傾倒していたロベスピエールは民衆の精神統一のため、伝統的なカトリック信仰と無神論的な理性崇拝の矛盾対立を止揚するべく、ルソーが提唱していた「市民宗教」の構想に沿って、新たな信仰体系を作ろうとしていたのだとも言える。  
 同時に、「祭典」はロベスピエール派の下で進行中の凄惨な恐怖政治を道徳の名において正当化し、恐怖のイメージを緩和しようとする政治的な意図もあったのであろうが、エベール派の華美なカーニバル的祭典に比べ、いかにも説教じみたロベスピエール派の祭典はかえって自身をも滅ぼす革命的エネルギーの低下を促進したようである。


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