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近代革命の社会力学(連載第322回)

2021-11-02 | 〆近代革命の社会力学

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(6)革命の中和化から収束へ
 1975年11月、軍内急進派によるクーデターを鎮圧するに際して指揮を執ったのはアントニオ・エアネシュ中佐であった。エアネシュは心理戦の専門家として、アジア、アフリカの各植民地に配属され、アフリカでの植民地戦争にも従事したが、やがて植民地政策に批判的となり、国軍運動に参加した。
 そうした点では、エアネシュも革命派の中堅将校の一人であったが、当初は地味な存在で、ゴンサルベシュ首相らが推進していた社会主義政策の中では、旧体制下のプロパガンダ機関と化していたポルトガル公共放送の理事会長職を短期間務めた程度である。
 その後も特に目立った活動はなかったが、軍内では中道派に属していたと見られ、前出のクーデターに際しては鎮圧の指揮を執り、これに成功したことで、一躍重要人物として注目されるようになる。
 このクーデター鎮圧とその結果としての急進派の排除は革命の急進化を歯止め、中和化する大きな転換点となった。すでに制憲議会では社会党が第一党として新憲法の制定作業をリードしており、その結果、革命二周年となる1976年4月25日に施行された新憲法は、全体として社会主義的な要素とフランスに類似した大統領共和制/議院内閣制を組み合わせた妥協の産物となった。
 多くの論争を呼んだ新憲法の社会主義的な要素としては、共和国の目標を「社会主義への移行の保証」としたうえ、国営企業では労働者委員会が役員会に代表者を送ることで経営を監督できる制度が創設されたほか、民間投資や企業活動を制約する条項も含まれていた。
 一方で、改めて公式の軍内組織として国軍運動が指導する革命評議会が大統領諮問機関として憲法上明記され、議会が制定した法に対する一種の審査権を持つ高等機関として機能することで、軍が引き続き大きな影響力を発揮できるなど、民主主義を制約する要素も残された。
 ともあれ、憲法施行と同日に実施された総選挙ではソアレシュの率いる社会党が引き続き第一党となるも、過半数は制せず、比較第一党として少数内閣を構成した。一方、同年6月の大統領選挙では、統合参謀総長に昇格していたエアネシュが社会党から共産党まで主要政党の総支持を得て当選した。
 こうして、「リスボンの春」は革命の中和化に尽力したエアネシュと穏健左派のソアレシュ首相のコンビによって、収束過程が進められることになった。特に軍出身のエアネシュは1986年まで2期10年を全うし、その間、1982年には革命評議会を廃止して軍の影響力を排除する改革を行った。
 他方、76年憲法の特色であった社会主義的条項はその多くが実際には適用されないまま、1980年代半ば以降に政権政党として台頭したリベラル保守政党・社会民主党の主導で行われた1989年の憲法改正によりほぼ廃止され、資本主義市場経済への適応化が進められた。
 このように、1974年ポルトガル革命は、中和化から10年以上の歳月をかけて漸進的に脱社会主義・ブルジョワ民主主義の方向へと舵が切られ、その線で安定的に収束したと言える。
 反面、排除された急進派は80年代に過激化し、4月25日人民軍のような武装組織を結成、元急進派指導者で軍に復帰していたカルヴァ―リョもこれに関与したとして再び投獄された。しかし、こうした急進派残党は革命収束過程のポルトガル社会において、もはや影響力を持ち得なかった。


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