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近代革命の社会力学(連載第282回)

2021-08-23 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(4)シリアの1963年3月8日革命
 シリアではエジプトとのアラブ連合共和国が1961年のクーデターによって解消された後、再び政治混乱に陥った。以前から政治化を来していた軍部内でも、中堅・若手の将校らがナセリスト派やバアシスト派など多数の党派に分裂し、権力闘争が激化していた。
 再び単立共和国に戻ったシリアは、戦前からの古い民族主義政党である民族ブロックのナーズィム・アル‐クドゥシーが大統領として率いたが、彼は反エジプト派のヨルダンやサウジアラビアなど保守的な周辺君主制諸国や英米との関係構築に動き、経済的にもアラブ連合時代にエジプト主導で断行された産業国有化を覆すなど、ナセル色を排し、保守回帰的な政策を推進していた。
 そうした中、1962年になると、バアス党内では、前回見たように、軍人党員主導の軍事委員会が再建された党を掌握し、クーデターの手法による革命を真剣に計画し始めていたところ、隣国イラクで1963年2月にバアス党将校主導によるクーデターがいったんは成功したことに触発され、シリアでも同年3月の決起が決定された。
 こうした軍人党員主導での急進的な動きに対して、党創設者のミシェル・アフラクも同意を与えており、計画は着々と進んでいたが、当初3月7日決行とされていたところ、不穏な動きを察知した政府当局が摘発に動いたため、翌日に延期され、8日決起となった。
 クーデターは事前にネットワーク化され、慎重に計画されていたこともあり、一日で成功を収めた。特にアル‐クドゥシー大統領がナセリスト派将校のパージを進めており、ナセリスト派将校の不満が高まっていたことを利用し、ナセリスト派将校を計画に加えたことが成功要因となったと見られる。
 革命後、バアス党員とナセリストを中心とした革命指令国家評議会が設置された。バアス党共同創設者であるサラーフッディーン・アル‐ビータールが首相に任命され、アフラクも評議会に加わったが、軍人党員の主導性は変わらなかった。
 このようにバアシストがナセリストを抱き込む形で形成された便宜的な連立型の最初期革命政権の構造は、間もなく崩れる。
 4月に、ナセリスト主導でイラクも加えたエジプトとの連邦形成の合意が締結されたが、バアス党はこうした連邦構想には反対であり、合意の破棄とナセリストのパージに出た。これに反発するナセリストは7月、クーデターで巻き返しに出たが失敗、鎮圧され、バアス党の支配が確立された。
 こうしてバアス党革命が確定するが、党の構造はなお不安定であった。実際のところ、党は汎アラブ主義の理念を反映し、超域的な民族指導部と各国単位の地域支部の二段構制となっており、民族指導部はアフラクら文民が、シリア地域支部は軍人が優位であった。
 そうした中、1963年10月の党大会ではビータール首相が失墜し辞職、さらに従来は党内異分子であったマルクス主義派が台頭し、ソ連型社会主義路線を支持するなどの路線混乱もあった。この後、民族指導部と地域支部の権力闘争が続き、65年3月の地域支部大会で地域支部の優位が確定し、シリアでは地域支部が党の中核組織となった。
 これに対し、アフラクら文民派も主導権の奪回を試みるが、1966年2月、若手軍人党員らがクーデターで党の実権を掌握、アフラク、アル‐ビータールは海外亡命を余儀なくされた。こうして党共同創設者が二人して追放されて以後、党は完全に軍人に乗っ取られ、シリアのバアス党体制は軍事政権の性格を強めていく。


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