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近代革命の社会力学(連載第405回)

2022-04-01 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(3)バルト三国独立革命

〈3‐3〉三国同時革命への展開
 バルト三国で結成されたペレストロイカ支持の市民組織が独立革命組織へと変貌する契機は、エストニアがもたらした。エストニアでは1988年の時点で民族感情が高揚しており、同年9月には民族音楽をテーマとした大集会が開催され、当時の国民の四分の一近くが参加したとされる。
 これを契機として、エストニアは同年11月に主権回復宣言を発した。ただ、これは象徴的な意味合いしか持たず、未だ独立国としての実態は伴わなかったが、従来タブーであった独立への道に踏み込んだことは大きな転機であり、ラトビアとリトアニアにも刺激を与えた。
 ちなみに、民族音楽、とりわけ従来当局から禁止されていた民謡を歌うことで抵抗の意志を示す方法は、エストニアのみならず、ラトビアやリトアニアでも盛んに行われ、三国独立革命を特徴づけたため、後年「歌う革命」とも称されるようになった。
 1989年に入ると、中・東欧社会主義圏で連続革命が始動する中、バルト三国もこれに刺激を受けつつ、三国が直接に連携するようになった。その頂点は、同年8月23日、バルト三国のソ連併合アが密約された独ソ不可侵条約50周年記念の日に、エストニア首都タリンからラトビア首都リガを経由して、リトアニア首都ビリュニスまでの600キロを人間が手でつなぐ「人間の鎖」というユニークな抗議行動である。
 この「バルトの道」とも称された抗議行動は、翌年に向け、三国が連携してソ連邦からの独立を目指す大きなステップとなった。この過程で先行したのは、リトアニアである。リトアニアは地方的支配政党であったリトアニア共産党がソ連共産党傘下から分離し「独立」するという過程を経て、1990年2月に最高会議選挙が実施され、独立派のサユディスが圧勝した。
 この結果に基づき、同年3月に、リトアニアはソ連邦からの独立を宣言した。これはバルト三国のみならず、ソ連邦全体でも初となる構成共和国の独立宣言であり、ソ連邦解体革命はここに始まると言ってもよい。すぐにラトビアが続き、90年3月の最高会議選挙で独立派が勝利、5月には独立宣言を行った。
 一方、エストニアはいささか異なる道を進んだ。その相違は、エストニア人民戦線が完全独立を将来目標とし、ソ連体制の国家連合化を構想していた一方、急進派は最高会議のようなソヴィエト制度に代えて独自のエストニア会議の設置を求め、対立が起きていたことによる。
 その結果、エストニア会議と最高会議が並立することとなったが、最終的には90年3月の選挙を経た最高会議が主導権を取り、完全独立ではなく、現状をソ連の不法占領下から独立までの過渡期と規定しつつ、ソ連邦との交渉を通じた独立を目指す方針を明らかにした。

〈3‐4〉連邦の反革命介入とその挫折
 独立へ向けた最終段階ではリトアニア・ラトビアとエストニアでその針路が異なり、三国の足並みは揃わないこととなったが、三国の総人口たかだか800万人弱のバルト三国の革命がソ連邦解体の初動となったことに変わりない。
 こうして自ら打ち出したペレストロイカによって促進されたバルト三国の独立動向に対し、ゴルバチョフ政権は否定的であり、独立を阻止するべく、硬軟両様の動きを示した。
 軟派措置としては、1990年4月に連邦離脱手続法を制定し、連邦からの構成共和国の離脱に際して厳格な住民投票を義務付けることで、事実上離脱を妨げるという術策であった。
 これには穏健なエストニアを含むバルト三国が一斉に反発、改めて共同歩調を取らせる逆効果となり、三国首相がバルト共同市場の創設や併合前の1934年バルト三国協商の復活で合意した。同時に、エストニアも独立宣言は保留しつつ、旧国旗の復活や国名変更、さらに脱社会主義の諸法を制定するなど実質上の独立に踏み込んだ。
 こうした動きに対抗して、ゴルバチョフ政権はリトアニアに対する経済封鎖を科するとともに、リトアニアとラトビアの独立を無効と明言して、独立を容赦しない姿勢を鮮明にした。そして、最終的な措置として、1991年1月、三国が打ち出した連邦軍に対する徴兵拒否を名分とする軍事介入を決断する。
 この反革命軍事作戦に基づき、ソ連正規軍部隊とKGB特殊部隊がまずリトアニア首都ヴィリニュスに突入した。この際、ソ連軍が制圧を狙ったテレビ塔を防衛しようとしていた非武装市民13人を射殺する流血事態となった。このような強硬措置はかえってソ連体制の非道性を印象付け、逆効果であった。
 連邦政府は一連の軍事作戦でエストニアとラトビアへの介入も企てていたが、三国独立を支持する急進改革派で、90年6月にソ連邦構成共和国としてのロシア共和国最高会議議長(共和国首長に相当)に選出されていたボリス・エリツィンの介入により両国への軍事行動は中止された。
 こうして、ソ連当局によるバルト三国への反革命軍事介入は失敗に終わったが、この失策はゴルバチョフ政権に高い代償を支払わせるとともに、同じく失敗に終わる同年夏の保守派クーデターの伏線ともなる。


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