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近代革命の社会力学(連載第123回)

2020-07-06 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(10)内戦・干渉戦の力学
 1917年革命は、最終的にボリシェヴィキ党のクーデターによる政権樹立という結果に進展したため、反ボリシェヴィキ勢力からの強い反作用を惹起し、大規模な内戦を引き起こした。内戦期間はおよそ3年であったが、その間、ロシア本土からシベリアに至る広大な領域で、複数の勢力が交錯する戦国時代的な乱戦となった。
 内戦の交戦勢力は反ボリシェヴィキ派の白軍とボリシェヴィキ側の赤軍が軸となったが、白軍は反ボリシェヴィキの一点で一致があるのみで、その内実は帝政復古派から穏健な共和主義者、リベラルな自由主義者まで諸派の雑居状態であり、統一が取れず、半独立の軍閥が配下の軍を率いる構造であった。
 従って、本来「白軍」として包括すること自体、精確とは言い難い。このような諸派雑居状態の弱点は兵員動員力をも制約し、敗戦の直接的な要因となったであろう。
 ただ、白軍の強みは、背後で反革命列強諸国が支援していたことである。この列強はおおむね第一次世界大戦でドイツと戦った連合国陣営からロシアを除いた諸国であり、これら干渉国は内戦初動で蜂起したチェコ軍団の救援を名目にシベリアへ出兵していた。その結果、内戦は干渉戦の性格を併せ持つこととなった。
 他方、ボリシェヴィキ側の赤軍は、十月革命当時の実力部隊となった赤衛軍をモデルに、より正規軍に近い形で組織化された軍隊であり、後のソ連軍の前身となる。赤軍はボリシェヴィキ実効支配下の地域から広く徴兵された兵士で構成され、ボリシェヴィキ党の指導を浸透させるべく、党員政治将校を配したある種の文民統制が貫徹された新しいタイプの軍事組織であった。
 ところで、社会革命党はチェコ軍団と結び、軍団が占領したサマーラを拠点に対抗政府・憲法制定議会議員委員会を立ち上げたことは前回見たが、強力な軍事組織を欠いたため、赤軍によって追い込まれ、短命に終わった。
 その後、1918年10月、二月革命当時の旧臨時政府の後継機構として、改めて南中部オムスクに臨時全ロシア政府が樹立された。しかし、この対抗政府は発足間もなく、クーデターで全権を掌握した陸海軍大臣アレクサンドル・コルチャーク提督により、軍事独裁制に転換された。それでも、この「政府」は第一次大戦のパリ講和会議でロシアの正統政府としての地位を獲得することに成功した。
 これを契機に、1919年は内戦中のクライマックスとなった。この年、白軍は緩やかながらもある程度のまとまりを見せ、コルチャークを最高司令官に、アントン・デニーキンやニコライ・ユデーニチなどの諸将に率いられて大規模な攻勢をかけた。しかし、数と統制力で勝る赤軍の反撃によって、1919年末までに白軍は各個撃破され、追い込まれていった。
 オムスクも陥落し、コルチャークは捕らえられ、銃殺された。その後、ピョートル・ヴラーンゲリ将軍がクリミア半島に立てこもって、白軍最後の頑強な抵抗を見せるが、これも1920年11月には敗北した。こうして、内戦は全体で最大推計1200万ともされる死傷者を出しつつ、ボリシェヴィキ・赤軍勝利に終わった。
 主に地主貴族層出自の軍閥に率いられた白軍は、当時のロシアで最大の兵士給源となる農民の支持がなく、最後まで充分な兵力を投入できなかった。また第一次大戦の戦後処理を急ぐ干渉諸国も、最後まで駐留を続けた日本を除き、撤兵し、継続的に白軍を支援しようとしなかったことも、白軍の敗北を運命づけた。
 反面、ボリシェヴィキ・赤軍にとっては、干渉諸国軍と本格的に交戦する労を省き、内戦対処に注力することができたことになる。その点、18世紀フランス革命当時の革命政権が、革命潰しのため、英国やオーストリアなどの反革命列強が数次にわたって組織した対仏大同盟軍と対峙しなければならなかったのとは対照的であった。


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