ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第166回)

2020-11-09 | 〆近代革命の社会力学

二十二 タイ立憲革命

(4)打ち続く権力闘争
 立憲革命後最初の政府となったプラヤー・マノーパコーンニティターダー首相の政権では、革命の実働集団であった人民団と首相の対立が表面化していた。その対立は、マノーパコーン首相が人民団の理論指導者プリーディー・パノムヨンを追放したことで頂点に達した。
 この頃、人民団のメンバーの中では、軍人のプラヤー・パホンポンパユハセーナーが武官派の代表格として台頭していた。彼は首相によるプリーディ―の追放に不満を持っており、他の陸軍主要メンバーとともにいったん辞表を提出したが、その直後、電撃的にクーデターを起こし、マノーパコーン内閣を倒し、自らを首班とする新内閣を成立させた。
 この1933年6月クーデターの際、パホンは「革命」を標榜したが、この政変は革命というよりも、人民団に敵対的なマノーパコーンを追い落とすためのまさしくクーデターにほかならなかった。そのため、首相に就いたパホンは早速にプリーディ―を呼び戻し、入閣させたのであった。
 この政変を機に、1938年にパホン首相が辞任するまでは、パホン首相が連続的に五次にわたる内閣を組織した「パホン時代」と言える時期を迎える。パホン首相が一貫して政権を維持した点では革命後の収束・安定期とも言えたのであるが、それは表面上のことで、この間、打ち続く権力闘争に揺れ続ける。
 まずクーデターで排除されたマノーパコーン派が王族を立てて巻き返し、反乱を起こすが、これは直ちに鎮圧され、マノーパコーン派は一掃された。これを受けて総選挙が行われ、年末には改めて第二次パホン内閣が成立した。
 とはいえ、社会主義に傾斜したプリーディーとパホンの間には理念的な溝があったが、パホン首相はこれをプリ―ディーが少なくとも共産主義者ではないことを証明する調査委員会を設置するというソフトな手段で解消する巧妙な策を見せた。
 これにより、プリーディ―に代表される文官派を取り込むことに成功したのであるが、今度は国王ラーマ7世との軋轢が生じる。革命後、立憲君主として実権を喪失したことが不満な7世は、病気治療を理由にイギリスへ出国し、国王不在状態を作り出すことで政府に圧力をかけようとしていたが、結局は退位に追い込まれ、甥のラーマ8世に交代させられたのであった。
 1935年のこの国王交代劇をもって、立憲革命がようやく完成したとも言える。即位時、ラーマ8世はわずか9歳の少年王であったから、当然にも政治に関与はできず、まさに立憲君主制が高度に機能する条件が整ったと言える。
 こうして王室も抑えたパホン政権であったが、続いて議会の民選議員との間で主導権争いが生じてきた。民選議員は政権による王室領地の不正売却疑惑や軍国化する日本と結ぶ政権の外交政策などを幅広く批判の対象とし、倒閣運動を展開していた。
 これに対し、パホン首相側も防戦し、第四次改造内閣及び総選挙を経た第五次内閣と政権を延命させたが、民選議員の攻勢はやまず、ついにパホン内閣は1938年12月、ギブアップする形で総辞職し、「パホン時代」は終幕した。
 この時期を特徴づけた多彩な権力闘争は、誕生したばかりの立憲君主制の不慣れな試運転でもあった。この先、民選議員が力をつけて議院内閣制による西欧流の政党政治が形成されるかどうかの分かれ道にもさしかかっていたが、歴史の進路はそうならなかった。


コメント    この記事についてブログを書く
« 比較:影の警察国家(連載第... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿