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近代革命の社会力学(連載補遺29)

2022-10-10 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(3)辛亥革命と「五族共和」理念
 モンゴル/チベット独立革命の言わば震源を成す辛亥革命は古代以来頻回の王朝交代を経験しながらも連綿と続いてきた中国の伝統的な君主制を終焉させる共和革命であったが、民族関係の観点から見れば、多民族の同君連合的な組成を持った清朝を打倒する民族革命でもあった。
 実際、辛亥革命の理念的指導者であった孫文が提唱した著名な三民主義の筆頭を成すのは「民族独立」であったし、三民主義に加えて、清朝支配層であった満州人の追放を含意する「駆除韃虜」や「恢復中華」といった直截な民族主義的スローガンも掲げられていたのであった。
 一方、モンゴル・チベットにとっても、辛亥革命で清朝が打倒されたことは、かの「文殊皇帝観」に基づく清朝支配体制からの離脱を意味していた。従来、同君連合の君主として奉じてきた清朝皇帝が存在しなくなったからには、独立の地位を回復できるはずだというのであった。
 ここまでは、共に満州人に支配されてきた各民族の分離独立という理念を共有しているように見えるが、辛亥革命の主体勢力であった孫文ら革命派漢人の民族観念はアンビバレントなものであった。
 「民族独立」といっても、漢民族を含めた各民族がそれぞれ分離独立することを意味していたわけではなく、当初は、むしろ清朝を構成した五大民族、すなわち漢満蒙回蔵(漢人・満州人・モンゴル人・ウイグル人・チベット人)の共存を目指す「五族共和」が標榜されていた。これは言わば、多民族共和国の構想であった。
 もっとも「五族共和」理念自体は元来、革命派と対立した立憲王党派が清朝の体制内改革の理念として提唱していたものであり、言わば借りものであった。革命派の本旨は、むしろ「恢復中華」にあったと言える。
 このようにスローガン化された「中華」は、単に漢民族の独立回復のみを意味せず、むしろ旧来の中華主義、すなわち漢民族中心主義を含意し、他民族に対しては同化主義を志向することになる。その限りでは、革命的というより、明朝以前の歴代中華王朝理念への後退を示してもいた。
 実際、中華民国が成立すると、五族共和論は事実上撤回され、同化主義の方向性が基調となるのであった。この方向性が、モンゴル・チベットの独立革命に対しては反革命力動として働くことは明らかであった。
 その点、辛亥革命の数年後、欧州の代表的な多民族同君連合の大国であったオーストリア‐ハンガリー帝国を崩壊させたオーストリア革命では、支配下各民族が続々と分離独立していく帝国解体革命の方向を取ったこととは対照的な力動を示したのが辛亥革命であったと言える。


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