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近代革命の社会力学(連載第340回)

2021-12-03 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(4)1973年共和革命
 1963年に首相を退陣に追い込まれたダーウードは王族の政治活動を禁ずる憲法の下で閉塞状態にあったが、その間、停滞するアフガニスタンの近代化を前進させるには、何らかの革命的な政変が必要と考え、機を窺っていた。
 しかし、そうした一個人の意志のみによって革命を起こせるわけではない。その点、1973年の共和革命が成るに当たって、直接的な動因となる出来事は特定できないが、1970年代初頭に広範囲を襲った飢餓に対する政府の無策が国民の怒りを買い、首都でも学生らの抗議活動が盛んになったことは一つの予兆であった。
 ダーウードは、そうした情勢を見極め、相当綿密に計画を立てて、軍部内の支持者と人民民主党旗派の双方と接触していたと見られる。特に軍部に関しては、ダーウード自身、かつて王族将校として部隊を指揮した経験もあったため、内部に少なからぬ支持者を擁していた。
 他方、マルクス‐レーニン主義の人民民主党とは本来、疎遠な関係であったが、同党の事実上の分党はダーウードにとっては追い風であり、都市部エリートに支持者を多く抱える穏健な旗派とは協力関係を築くことができた。
 こうして支持基盤を固めたダーウードは、ザーヒル・シャー国王が海外に滞在していたタイミングを狙い、1973年7月17日に軍部を動かして決起し、政権を掌握した。
 このように、事前の綿密な計画に基づく決起は、それだけに終始すれば単なるクーデターであるが、ダーウードは政権掌握後、君主制を廃して、自らを国家元首とする共和制を樹立したため、この政変は共和革命に進展した。
 ただし、正式に大統領共和制に移行したのは、1977年に至って制定された新憲法下においてであり、それまでの移行期は、王族でもあったダーウードによる君主制的な要素を残した暫定共和制とみなすこともできる。
 ダーウード自身の総括によれば、1973年の革命は「国民的・進歩的革命」と曖昧に規定されていた。「純然たる民主主義」も公約されていたが、これは美辞にとどまり、77年憲法で確立された新体制は強大な権力を持つ大統領を中心に、アフガニスタン国民革命党を翼賛政党とする一党支配型の共和制であった。
 最初期の政権には、革命に協力した旗派が参加し、閣僚の約半数を旗派出身者が占めたため、旗派政権の様相を呈したが、これは多分にして論功行賞人事であり、共産主義者の影響力の拡大を望まないダーウードは次第に旗派を排除していった。
 外交上も、首相時代に軍事面で援助を受けたソ連とは距離を置き、非同盟主義に立ち、当時非同盟運動の旗手だったインドや、隣国パフラヴィー朝イランやナセル没後、親米に舵を切っていたエジプトを含む西アジア・中東の親米イスラーム諸国との関係を深めていった。
 経済的には、全銀行の国有化や経済七か年計画など、社会主義的計画経済の要素を取り込んだ政策によってアフガニスタンの近代的な産業基盤の構築を模索したが、農地改革には手を着けず、封建的な社会構造の解体には及ばなかった。
 全体として、イデオロギー的な軸が曖昧で中途半端なダーウード体制は、皮肉にも新憲法制定後、個人独裁の度を増し、宗教保守派から共産主義者まであらゆる反対分子の抑圧に赴くことになり、体制への反発が高まっていく。


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