ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第274回)

2021-08-03 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(4)南北イエメン革命

〈4‐6〉南イエメン一党支配体制への進展
  南イエメンにおける独立革命/戦争は、宗主国イギリスとの武力紛争であるとともに、それ自体が民族解放戦線(NLF)と南イエメン占領地解放戦線(FLOSY)という競合する二系統の独立運動体同士の内戦をも兼ねていたことを特徴とする。
 その点で、同様の名称を持つアルジェリアの民族解放戦線が統一戦線として高度に組織化されていたのとは大きく異なった。これは、南イエメンの民族解放戦線がマルクス主義者主導で結成されたことでビッグテント型の組織に成長せず、マルクス主義に同調しないグループが別組織を結成したという事情による。
 とはいえ、独立革命はNLFが先行開始し、戦争の期間中も武力闘争の主力として戦闘を展開したことに変わりなく、独立貢献度に関してはNLFが一歩先を行っていたことも否めない。一方、エジプトの支援を受けていたFLOSYは、エジプトが第三次中東戦争に敗北した後は支援を失い、勢力を弱めた。
 NLFは独立戦争終盤で南イエメン連邦軍と連携し、独立宣言前にFLOSYを打ち破ることに成功した。こうして、1967年11月の独立宣言時にはNLFがほぼ唯一の支配勢力となっており、イギリスもNLFに権力を移譲することに合意した。
 そうした経緯から、新たに成立したイエメン人民共和国はNLFによる一党支配体制として始まり、その後の展開は同組織内での権力闘争のプロセスとなる。そのプロセスは、マルクス‐レーニン主義を教義をする一党支配体制の確立の過程でもあった。
 その間、二度の党内クーデターがあり、69年にはNLF内ナセリスト派の初代大統領カフタン・ムハンマド・アル‐シャアビが追放され、代わって権力を掌握しイエメン人民民主共和国への国名変更を主導したマルクス主義派のサリム・ルバイ・アリも78年の党内クーデターで失権・粛清された。
 このクーデターは、マルクス主義穏健派で北イエメンとの統一に前向き、かつ新たな独裁政党の創設に反対していたルバイ・アリが、反対派によって排除されたものであった。
 この政変の後、NLFを母体とする新政党・イエメン社会主義者党(社会党)の一党独裁体制が確立される。この党は共産党こそ名乗らなかったが、ソ連共産党をモデルとした他名称共産党の一種であり、こうしたソ連型一党支配体制としてはアラブ世界で唯一のケースとなった。実際、南イエメンはソ連のアラブ世界における衛星国家となり、首都アデンにはソ連の海軍基地が設置された。
 その他、計画経済や秘密警察網による社会統制など、基本的内政事項もソ連や東ドイツなど同盟国からの技術支援に依存する体制であったが、70年代には生産力の向上を経験し、アラブ世界でも有数の女性の権利の尊重や世俗教育の普及などが達成され、脱イスラ―ム化された世俗国家として発展を遂げるかに見えた。
 しかし、イエメンでは油田が南北イエメンの境界線にまたがる形で潜在しており、南北分裂状態では油田開発が進展せず、経済的な持続成長は見られなかった。
 加えて、社会党内では北イエメンとの統一問題やマルクス‐レーニン主義路線の修正をめぐり推進派と反対派の派閥闘争が根深く、ついに80年半ばには両派間の内戦に発展、ソ連の仲介で鎮圧されたものの、10日余りの戦闘ながら1万人近い犠牲者と多くの難民を出し、体制は大きく損傷された。
 最終的には1990年、安定的な支配体制を築いていた北イエメンのサーレハ政権の主導により、北イエメンに吸収合併される形で南北統一が成り、南イエメン独自の体制は消滅したが、完全な統合は進まず、そのことが民主化革命後、現在進行中の長期内戦の遠因ともなる。


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