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近代革命の社会力学(連載第357回)

2021-12-31 | 〆近代革命の社会力学

五十一 グレナダ・ニュージュエル革命

(4)アメリカの侵攻と革命の挫折
 革命が挫折するに際しての要因としては、革命政権または革命組織内部での内紛と、外国または外部勢力による反革命武力干渉とがある。グレナダ革命は、内紛が外国の武力干渉を招来するという形で、両法則が因果的に作用するケースとなった。
 これまで見たように、グレナダ人民革命政府はイデオロギーより政策を重視する施政を展開し、成果も上げていたのであるが、革命から数年を経ると、政権内部により教条主義的な一派が台頭してきた。
 それは、バーナード・コード副首相を中心とするグループであった。コードはビショップ首相の長年の盟友であり、NJMでも協働して活動してきた間柄であった。しかし、コードはビショップよりも教条的なマルクス‐レーニン主義者であり、親ソ連派であった。
 コードは、ビショップがソ連との同盟関係強化に踏み込まず、相対的な友好関係にとどめようとする姿勢に不満を強め、1983年10月、行動を起こしてビショップを自宅軟禁下に置き、自ら首相に就任した。この事実上のクーデターには、人民革命政府の正規軍である人民革命軍の司令官ハドソン・オースティンの支持も得ていた。
 ところが、クーデターに対する抗議デモが発生し、デモ隊がビショップを自宅軟禁から救出するという事態となった。その後、ビショップは権力奪回のため、軍司令部へ向かったが、そこでオースティン配下の部隊により拘束、略式処刑された。
 この後、クーデターの実質的な黒幕と見られるオースティンがコード首相を罷免しつつ、自らを議長とする革命軍事評議会を樹立した。元兵士・警官・刑務官のオースティンは革命に際してはNJMの軍事部門を担い、ソ連とも密接につながる親ソ派であったため、このクーデターの背後にはグレナダを英語圏カリブ諸国における衛星国化しようとしていたソ連の支援があったと見られている。
 このような親ソ派の軍事クーデターという新たな局面に対しては、当時ソ連との対決姿勢を強めていたアメリカのレーガン政権が即応的な反応を示した。アメリカはクーデターから12日後の1983年10月25日、約7000人の米軍部隊と東カリブ諸国機構(OECS)の有志国部隊をもって奇襲的に侵攻した。
 迎え撃つのはわずか1500人ほどのグレナダ軍と武装キューバ人のみであったが、グレナダ側はソ連をはじめとする東側陣営からの多国籍軍事顧問団に支えられていたことに加え、米軍の指揮系統の混乱もあり、数日間の戦闘で米軍側死者19人を出したものの、最終的には全土を制圧、革命軍事評議会は瓦解した。
 この後、コードやビショップらクーデター首謀者は拘束・訴追され、死刑判決を受けた(後に終身刑に減刑)。こうして、ニュージュエル革命は完全に挫折、アメリカとOECS合同でのカリブ平和軍の監視下での暫定移行政権を経た1984年12月の総選挙で旧野党のグレナダ国民党が勝利し、正常化が成った。
 グレナダ革命は政策的に相当の成功を見せながら挫折したという点では惜しまれた革命であり、2009年になって、首都の玄関口となる国際空港が、クーデターで処刑されたビショップ元首相を記銘してモーリス・ビショップ国際空港(旧称ポイント・サリナス国際空港)に改名されている。


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