ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第385回)

2022-02-24 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(4)東ドイツ解体革命

〈4‐3〉抗議行動の拡大と党内政変
 東ドイツにおける平和集会に始まる反体制運動が革命的なうねりを得る契機は、国内以上に国外からもたらされた。以前にも見たように、党内政変によって成立したハンガリーの改革派政権がオーストリア国境の開放に踏み切ったことである。
 これによって、警備隊による銃撃の危険がなお存在する「ベルリンの壁」を越えずにオーストリア経由で西ドイツへ亡命する道が開かれ、多くの東ドイツ市民が脱出を果たした。その際、ハンガリーの民主団体による支援があったことも大きかった。
 ハンガリーの民主団体はオーストリアの旧ハプスブルク皇家当主で汎ヨーロッパ主義者のオットー・フォン・ハプスブルクと協力して、東ドイツ市民の亡命を支援するばかりでなく、ハンガリーのオーストリア国境地帯の町ショプロンで「汎ヨーロッパ・ピクニック」と銘打つ政治集会を開催した。
 これは冷戦終結後を見据えて新たな統合されたヨーロッパの将来を考えるという趣旨の政治集会であったが、改革派政権とはいえ、依然として一党支配が続いていたハンガリー当局に妨害されることを警戒して、祝祭的な性格の集会とした。このような手法は、遠く19世紀の1848年フランス二月革命に際して革命派が当局の弾圧を回避するために主宰した「改革宴会」に通ずるものがある。
 1989年8月19日に開催された「ピクニック」の効果は大きく、ハンガリー政権に翌月のオーストリア国境の通行自由化を決断させるとともに、東ドイツ市民の亡命をいっそう促進し、同盟国のチェコスロヴァキア経由での亡命ルートも形成された。
 また、同年9月10日には、東ドイツ国内で反体制知識人30人が民主団体「出発89―新フォーラム」を結成した。これは従来抑圧されていた公然たる事実上の野党組織の旗揚げであったが、教条主義で固まった当局からは反国家団体とみなされて結社登録を拒否されたため、ポーランドやハンガリーのような支配政党との協議(円卓会議)を通じた平和的な体制移行という力学は作動しなかった。
 一方、東ドイツからの亡命者は9月末までに数万人規模に達していた。すると、それまで事態を静観していた東ドイツ当局はまだ改革が及んでいなかったチェコスロヴァキアとの国境の封鎖により亡命を阻止する策に出た。
 これにより一時的に亡命にブレーキはかけられたものの、かえって内圧を強める逆効果となり、国内での反体制抗議活動が拡大した。これに対し、社会主義統一党(SED)のホーネッカー指導部は武力鎮圧の方針であったが、89年10月に東ドイツを訪問したソ連のゴルバチョフ共産党書記長がホーネッカーに暗に退陣を促したことで、党指導部内に反ホーネッカーの動きが生じた。
 その中心に立ったのは、政権ナンバー2で治安担当のエゴン・クレンツ党政治局員であった。クレンツは他の政治局員をまとめつつ、ソ連とも連絡して、ホーネッカー追い落とし計画を進め、89年10月17日の党政治局会議の席上、ホーネッカー解任動議の議決に成功した。
 この電撃解任により、1971年以来、18年に及んだホーネッカー指導部は終焉し、後任書記長にはクレンツ自身が選出され、新たな指導部を形成することとなった。とはいえ、これもソ連の意向を忖度しての動きであり、とどのつまり、東ドイツはどこまでもソ連の衛星国なのであった。
 そのうえ、元来ホーネッカー側近としてホーネッカーの引きで若くして昇進を重ねてきたクレンツはあくまでもSED支配体制下での限定改革しか構想しておらず、抗議デモの拡大を収束させる力量は持ち合わせていないことがすぐに露呈されることになる。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿