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近代革命の社会力学(連載追補5)

2022-12-04 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(8)革命の余波
 辛亥革命は中東地域まで含めたアジア全域での史上初となる成功した共和革命であったが、当時すでにその多くが欧米日の植民地支配下に置かれていたアジアでは、東アジアの周辺諸国でも余波と呼ぶべき連続的あるいは波及的な革命は発生することがなかった。
 その点、日本は孫文ら革命派にとっては海外亡命拠点であったにもかかわらず、日本の尊王意識は進歩派の間ですら強固であり、思想的な面で共和革命の影響が及ぶことはなく、日本で天皇制打倒の触発的な共和革命運動が隆起することはなかった。
 一方、朝鮮は、辛亥革命前年に日本への併合により独立を喪失していた。日清戦争後の割譲により日本領土となって久しい台湾では、辛亥革命に触発されたインドネシア生まれの客家の革命家・羅福星が1913年に組織的な抗日蜂起を計画したが、日本当局に露見し、羅を含む同志20人が死刑となった(苗栗事件)。
 こうして、辛亥革命の余波は対外的なものより対内的なものに収斂した。特に清朝時代に藩部としてある種の民族自治が敷かれていた辺境地域の自立化・独立化の動きである。 
 中でも最も敏感な動きを示したのはモンゴルとチベットであり、両地域ではある程度持続する自立的な政権の樹立を見たが、これについては別途派生章を充てることとし、ここではもう一つの藩部である新疆における状況を見るにとどめる。
 新疆はかつての西域に相当する領域で、イスラーム教が優勢な辺境地であったが、乾隆帝による征服以来、清朝の支配領域に編入されていたところ、19世紀のイスラーム勢力の反乱でいったん支配が崩れた後、清朝が奪回、省制の施行に伴い、1884年以降、新疆省が設置され、中央統制が強化されていた。
 そうした中で辛亥革命が勃発すると、新疆でも当初は漢人系の革命家が1911年12月に首府の迪化(現ウルムチ)で革命蜂起したが、これは小規模なものにとどまり、失敗に終わった。しかし、明けて1912年1月に、やはり漢人系の革命集団が伊犁(イリ)にて蜂起し、革命政権の樹立に成功した。
 このイリ革命を指導した馮特民は外部出身の革命派漢人であり、結局のところ、辛亥革命余波としての新疆革命は、在地のムスリムではなく漢人が主体となった点に内在的な限界があった。
 とはいえ、辛亥革命後、清朝残党内には皇帝を辺境地に移して反革命を起動させる計画もあったとされる中、新疆でも呼応革命が勃発したことは、こうした反革命運動の始動を阻止し、清朝護持派に対して最終的な打撃を与えたとも言えるところである。
 しかし、最終的にイリ革命政権は新疆全域を掌握できないまま、12年2月までに清朝科挙官僚出身の漢人・楊増新の軍勢に敗北したので、独立革命に発展することはなかった。
 ただし、楊増新は清末に清朝から派遣された地方行政官出自でありながら、清朝護持派ではなく、イリの革命派を取り込みつつ、辛亥革命後の中華民国政府からも新疆省統治の承認を取りつけ、中華民国体制下の言わば新・新疆省の独裁的統治者にのし上がった。その点、辛亥革命を横領して独裁者となった袁世凱と類似する人物であったと言える。
 楊増新体制は楊が暗殺された1928年まで続くが、その間、中華民国が事実上の内乱状況に陥る中、楊体制は実質的な独立政権の様相を呈し、西アジア地域に触手を伸ばす英国・ロシアとも渡り合いつつ、省内の民族的・宗教的対立を封印して、安定をもたらすことに成功した。


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