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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代科学の政治経済史(連載第32回)

2022-12-09 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学(続き)

第一次世界大戦:軍事技術の見本市
 19世紀末の近代的科学技術の発達を背景とした軍事技術の刷新は20世紀に引き継がれ、同世紀最初の世界戦争となる第一次世界大戦として発現される。この大戦は、科学技術史の視点から見れば、参戦各国が自国のテクノロジーを披露し合う見本市のような様相を呈した。
 第一次大戦における軍事技術の革新を記述すれば、それだけで数冊分の書籍となるほどの内容があるが、ここでは、大戦の惨禍を特に倍加させた化学的な“成果”を選択略記する。
 とりわけ非人道的な兵器として登場したのが、有毒な化学物質を使用する化学兵器である。化学兵器は大戦前の1907年ハーグ陸戦法規でも実質的に禁止されていたが、塹壕戦の膠着を打開する手段として有効だったため、第一次大戦で本格的に使用された。
 実用的な化学兵器の開発では、化学兵器の父の異名を持つドイツのフリッツ・ハーバーやハーバーに先行するヴァルター・エルンストらの寄与が大きく、結果としてドイツが化学兵器の先進国となる。
 ハーバーはカール・ボッシュとともに窒素化合物の基本的生成法(ハーバー‐ボッシュ法)を確立して名を残した科学者であり、エルンストも熱力学第三法則の発見者として名を残しているが、第一次大戦に際しては、塩素を中心とした毒ガス兵器の開発に協力した。
 当時のドイツは化学工業が発展期にあり、化学兵器は戦時下で軍需資本に転化する化学工業資本により量産されたため、塩素・ホスゲン・マスタードなどを使用した主要な化学兵器の大半を調達できたのであった。
 ちなみに、皮膚をただれされる効果を持つマスタードガスは、ガスマスクの普及によって塩素ガスのような吸引性の化学兵器の効果が減殺されることに対抗し、防護困難なびらん性の化学兵器として開発されたもので、これまた19世紀末にドイツの化学者ヴィクトル・マイヤーが生成法を確立した。
 このように化学兵器開発で先行するドイツへの対抗上、対戦国である英米仏も化学兵器の開発・使用に走ったため、元来不充分なハーグ陸戦法規の禁止条項は有名無実となり、大戦を通じた化学兵器による死傷者は約130万人に上ったとされる。
 一方、無煙のコルダイト火薬を大量生産するうえでは、原料となるアセトンをデンプンか合成する技術を当時イギリスに居住していたユダヤ人化学者ハイム・ヴァイツマン(後に初代イスラエル大統領)が確立したことが寄与しているが、先のハーバー‐ボッシュ法による窒素固定技術も火薬の常時補給を円滑にした。
 このように、ドイツは化学兵器で優位にあったにもかかわらず、旧式の戦闘法である塹壕戦の膠着状況を完全に打開できるほどの効果を発揮せず、最終的には敗戦した。戦後の1925年にはジュネーブ議定書で化学兵器の使用(保有は可)が明確に禁止されたことにより、化学兵器への関心は後退していく。
 しかし、第一次大戦で先駆的に登場した戦車や戦闘機などの新たな移動機械兵器は戦後も引き続き開発・改良が進展し、また第一次大戦では想定されなかった放射性物質を利用した核兵器の理論構想など、戦後の軍用学術の中心は化学分野から物理・工学分野へと遷移していく。

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近代科学の政治経済史(連載第31回)

2022-12-08 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学(続き)

交通機械工学と軍事技術の刷新①
 19世紀に機械的な交通手段の発明が相次ぎ、交通機械工学が発達すると、その成果はすぐに軍事技術の刷新に反映された。その端緒は、海軍の分野における戦艦の登場であった。戦艦は艦砲と装甲を備えた軍艦であり、それは弾道学や鉄鋼技術の粋を集めた軍事的結実であった。
 その嚆矢を成すのは、フランス海軍が1858年に起工した装甲艦グロワールであった。これはまだ帆船ではあったが、頑丈な装甲防御が施され、戦列艦より小柄ながら、炸裂砲やライフル砲を備え、木造艦を圧倒する力があった。
 この新型装甲艦の情報はすぐにライバルのイギリスにもたらされ、イギリス海軍も対抗的に装甲艦ウォリアーを建造した。これはグロワールよりも大型かつ高速、重武装で、当時としては最新型装甲艦であった。
 こうして、装甲艦の発明は近代的な軍拡競争の嚆矢をも成したが、初期装甲艦はまだ本格的な戦艦の域に達しておらず、言わば戦艦の卵であった。最初の戦艦とされるのは、ウォリアー以降、軍艦開発で世界をリードするようになったイギリスが1892年に竣工したマジェスティック級戦艦である。
 これが近代戦艦のオリジナル・モデルとなったが、鋼鉄艦による最初の本格的な海戦は日露戦争であった。同戦争では日露両国ともに戦艦を投入したが、日本がイギリスに発注したマジェスティック級戦艦の改良型である敷島型戦艦がロシア海軍に打撃を与えるうえで威力を発揮した。
 日露戦争は戦艦の有効性を大国に認識させ、以後、20世紀初頭にかけて、新興の科学技術大国ドイツも加わり、大国間での建艦競争が激しく展開され、日進月歩での戦艦の技術革新が急速に進んでいく。

 興味深いことに、近代陸戦に登場する新戦力である戦車も戦艦の開発に由来しており、その派生的発明であった。これもまたイギリスが発祥地であるが、戦車開発は当初「陸上軍艦」というアイデアのもと、海軍の技術者が主導して行われた。
 「陸上軍艦」はまさに軍艦を陸で走行させるというイメージであったから、軍艦のアナロジーで装甲車として設計された。ただ、陸走させるためには軍艦そのものでは当然に不可能であるから、当時アメリカの民間企業(キャタピラー社の前身)が開発した無限軌道技術(いわゆるキャタピラー)が応用された。
 こうして完成したのが史上初の戦車リトル・ウィリーであるが、これはまだ試作車であり、本格的に実戦投入された最初の戦車はマークI戦車である。同製品は第一次世界大戦で実用化され、従来の塹壕戦と機関銃合戦という陸戦のあり方を変革する契機となった。

交通機械工学と軍事技術の刷新②
 交通機械工学の発達という点では、飛行機の発明に伴う戦闘機の開発は戦艦や戦車の開発以上に革命的でさえあった。それまで戦場と言えば陸か海であったところ、長く夢想家の空想に過ぎなかった空が戦場となる時代を拓いたからである。
 広い意味での航空機の軍事利用は18世紀フランスの発明家モンゴルフィエ兄弟による熱気球による史上初の有人飛行を契機にフランス軍が気球の軍事利用を試みたのが嚆矢であったが、この試みは成功しなかった。
 その後、19世紀前半の航空学の祖イギリスのジョージ・ケイリーによる航空研究、それを継承した同世紀後半のドイツのオットー・リリエンタールの飛行実験を経て、1903年にアメリカのライト兄弟が初めて動力飛行可能ないわゆる飛行機を発明したことで、航空学は新たな時代を迎えた。
 これらは民間主導の科学技術研究成果であったが、民間の営業飛行の確立にはほど遠く、むしろ飛行機の軍事利用価値に着目した軍による航空戦力の開発が航空工学のさらなる発達を促進した。
 もっとも、当初は上空からの偵察目的に供する偵察機が限度であったが、間もなく空中で戦闘を行う戦闘機が開発される。そのアイデア自体はフランスで発祥したが、本格的な専用戦闘機はドイツが第一次世界大戦に投入したフォッカー・アインデッカーであった。
 こうした戦闘に特化した戦闘機の誕生は空中戦という新しい戦術を戦争に加えることになり、交通機械工学の一部門である航空工学も、民間航空が発達するまでは、戦闘機をはじめとする軍用機の開発・改良という軍事目的に奉仕する軍用学術となる。

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近代革命の社会力学(連載追補5)

2022-12-04 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(8)革命の余波
 辛亥革命は中東地域まで含めたアジア全域での史上初となる成功した共和革命であったが、当時すでにその多くが欧米日の植民地支配下に置かれていたアジアでは、東アジアの周辺諸国でも余波と呼ぶべき連続的あるいは波及的な革命は発生することがなかった。
 その点、日本は孫文ら革命派にとっては海外亡命拠点であったにもかかわらず、日本の尊王意識は進歩派の間ですら強固であり、思想的な面で共和革命の影響が及ぶことはなく、日本で天皇制打倒の触発的な共和革命運動が隆起することはなかった。
 一方、朝鮮は、辛亥革命前年に日本への併合により独立を喪失していた。日清戦争後の割譲により日本領土となって久しい台湾では、辛亥革命に触発されたインドネシア生まれの客家の革命家・羅福星が1913年に組織的な抗日蜂起を計画したが、日本当局に露見し、羅を含む同志20人が死刑となった(苗栗事件)。
 こうして、辛亥革命の余波は対外的なものより対内的なものに収斂した。特に清朝時代に藩部としてある種の民族自治が敷かれていた辺境地域の自立化・独立化の動きである。 
 中でも最も敏感な動きを示したのはモンゴルとチベットであり、両地域ではある程度持続する自立的な政権の樹立を見たが、これについては別途派生章を充てることとし、ここではもう一つの藩部である新疆における状況を見るにとどめる。
 新疆はかつての西域に相当する領域で、イスラーム教が優勢な辺境地であったが、乾隆帝による征服以来、清朝の支配領域に編入されていたところ、19世紀のイスラーム勢力の反乱でいったん支配が崩れた後、清朝が奪回、省制の施行に伴い、1884年以降、新疆省が設置され、中央統制が強化されていた。
 そうした中で辛亥革命が勃発すると、新疆でも当初は漢人系の革命家が1911年12月に首府の迪化(現ウルムチ)で革命蜂起したが、これは小規模なものにとどまり、失敗に終わった。しかし、明けて1912年1月に、やはり漢人系の革命集団が伊犁(イリ)にて蜂起し、革命政権の樹立に成功した。
 このイリ革命を指導した馮特民は外部出身の革命派漢人であり、結局のところ、辛亥革命余波としての新疆革命は、在地のムスリムではなく漢人が主体となった点に内在的な限界があった。
 とはいえ、辛亥革命後、清朝残党内には皇帝を辺境地に移して反革命を起動させる計画もあったとされる中、新疆でも呼応革命が勃発したことは、こうした反革命運動の始動を阻止し、清朝護持派に対して最終的な打撃を与えたとも言えるところである。
 しかし、最終的にイリ革命政権は新疆全域を掌握できないまま、12年2月までに清朝科挙官僚出身の漢人・楊増新の軍勢に敗北したので、独立革命に発展することはなかった。
 ただし、楊増新は清末に清朝から派遣された地方行政官出自でありながら、清朝護持派ではなく、イリの革命派を取り込みつつ、辛亥革命後の中華民国政府からも新疆省統治の承認を取りつけ、中華民国体制下の言わば新・新疆省の独裁的統治者にのし上がった。その点、辛亥革命を横領して独裁者となった袁世凱と類似する人物であったと言える。
 楊増新体制は楊が暗殺された1928年まで続くが、その間、中華民国が事実上の内乱状況に陥る中、楊体制は実質的な独立政権の様相を呈し、西アジア地域に触手を伸ばす英国・ロシアとも渡り合いつつ、省内の民族的・宗教的対立を封印して、安定をもたらすことに成功した。

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