ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代科学の政治経済史(連載第31回)

2022-12-08 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学(続き)

交通機械工学と軍事技術の刷新①
 19世紀に機械的な交通手段の発明が相次ぎ、交通機械工学が発達すると、その成果はすぐに軍事技術の刷新に反映された。その端緒は、海軍の分野における戦艦の登場であった。戦艦は艦砲と装甲を備えた軍艦であり、それは弾道学や鉄鋼技術の粋を集めた軍事的結実であった。
 その嚆矢を成すのは、フランス海軍が1858年に起工した装甲艦グロワールであった。これはまだ帆船ではあったが、頑丈な装甲防御が施され、戦列艦より小柄ながら、炸裂砲やライフル砲を備え、木造艦を圧倒する力があった。
 この新型装甲艦の情報はすぐにライバルのイギリスにもたらされ、イギリス海軍も対抗的に装甲艦ウォリアーを建造した。これはグロワールよりも大型かつ高速、重武装で、当時としては最新型装甲艦であった。
 こうして、装甲艦の発明は近代的な軍拡競争の嚆矢をも成したが、初期装甲艦はまだ本格的な戦艦の域に達しておらず、言わば戦艦の卵であった。最初の戦艦とされるのは、ウォリアー以降、軍艦開発で世界をリードするようになったイギリスが1892年に竣工したマジェスティック級戦艦である。
 これが近代戦艦のオリジナル・モデルとなったが、鋼鉄艦による最初の本格的な海戦は日露戦争であった。同戦争では日露両国ともに戦艦を投入したが、日本がイギリスに発注したマジェスティック級戦艦の改良型である敷島型戦艦がロシア海軍に打撃を与えるうえで威力を発揮した。
 日露戦争は戦艦の有効性を大国に認識させ、以後、20世紀初頭にかけて、新興の科学技術大国ドイツも加わり、大国間での建艦競争が激しく展開され、日進月歩での戦艦の技術革新が急速に進んでいく。

 興味深いことに、近代陸戦に登場する新戦力である戦車も戦艦の開発に由来しており、その派生的発明であった。これもまたイギリスが発祥地であるが、戦車開発は当初「陸上軍艦」というアイデアのもと、海軍の技術者が主導して行われた。
 「陸上軍艦」はまさに軍艦を陸で走行させるというイメージであったから、軍艦のアナロジーで装甲車として設計された。ただ、陸走させるためには軍艦そのものでは当然に不可能であるから、当時アメリカの民間企業(キャタピラー社の前身)が開発した無限軌道技術(いわゆるキャタピラー)が応用された。
 こうして完成したのが史上初の戦車リトル・ウィリーであるが、これはまだ試作車であり、本格的に実戦投入された最初の戦車はマークI戦車である。同製品は第一次世界大戦で実用化され、従来の塹壕戦と機関銃合戦という陸戦のあり方を変革する契機となった。

交通機械工学と軍事技術の刷新②
 交通機械工学の発達という点では、飛行機の発明に伴う戦闘機の開発は戦艦や戦車の開発以上に革命的でさえあった。それまで戦場と言えば陸か海であったところ、長く夢想家の空想に過ぎなかった空が戦場となる時代を拓いたからである。
 広い意味での航空機の軍事利用は18世紀フランスの発明家モンゴルフィエ兄弟による熱気球による史上初の有人飛行を契機にフランス軍が気球の軍事利用を試みたのが嚆矢であったが、この試みは成功しなかった。
 その後、19世紀前半の航空学の祖イギリスのジョージ・ケイリーによる航空研究、それを継承した同世紀後半のドイツのオットー・リリエンタールの飛行実験を経て、1903年にアメリカのライト兄弟が初めて動力飛行可能ないわゆる飛行機を発明したことで、航空学は新たな時代を迎えた。
 これらは民間主導の科学技術研究成果であったが、民間の営業飛行の確立にはほど遠く、むしろ飛行機の軍事利用価値に着目した軍による航空戦力の開発が航空工学のさらなる発達を促進した。
 もっとも、当初は上空からの偵察目的に供する偵察機が限度であったが、間もなく空中で戦闘を行う戦闘機が開発される。そのアイデア自体はフランスで発祥したが、本格的な専用戦闘機はドイツが第一次世界大戦に投入したフォッカー・アインデッカーであった。
 こうした戦闘に特化した戦闘機の誕生は空中戦という新しい戦術を戦争に加えることになり、交通機械工学の一部門である航空工学も、民間航空が発達するまでは、戦闘機をはじめとする軍用機の開発・改良という軍事目的に奉仕する軍用学術となる。

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続・持続可能的計画経済論(連載第41回)

2022-12-06 | 〆続・持続可能的計画経済論

第3部 持続可能的計画経済への移行過程

第7章 経済移行計画Ⅰ:経過期間

(8)製薬事業機構等の設立準備
 薬剤は最広義の意味における食品に分類できるが、一般の食品とは目的・性質が大きく異なるため、通常の消費財に係る消費計画とも、また基幹的な産業分野の生産計画Aや農林水産分野の生産計画Bとも区別された製薬固有の生産計画Cに基づいて生産される(拙稿)。
 その点、薬剤は原則として世界のすべての個人の生命・健康を保持するべく普遍的に供給されるべき性質を持つことから、基軸的な薬剤については世界共通計画のもとに製造・供給されることが本則である(拙稿)。
 そのうえで、各領域圏ごとの生産計画は、製薬企業体を統合した製薬事業機構が自主的に立案し、施行することになる。経過期間においては、製薬事業機構の設立準備として、個別の製薬企業の統合化が目指される。
 とはいえ、既存の製薬企業すべてを統合化する必要はなく、医師の処方箋医薬品となる代表的な疾患の治療薬やワクチンなどの基本薬剤及び少数の難病治療薬としての特殊薬剤の製造を担う企業の統合をもって足りる。
 しかも、既存企業の全社的な統合である必要もなく、一部部署を分社化したうえでの統合であっても差し支えない。統合されない残部署、処方箋医薬品の製造に関わらない製薬企業はそのまま自由生産企業として存続する。
 ちなみに、製薬事業は薬剤の有効性及び安全性の事前・事後の審査を行う独立かつ中立の薬剤規制監督制度の存在と不可分であるから、製薬事業機構とは完全に別立てとなる規制監督機関の設立準備も並行して実施される。
 この機関は企業体ではなく、基本的に行政機関の性格を持つが、事前的な有効性・安全性審査機関と事後的な安全性審査機関とを分立するべきである。
 そのうち、後者の事後的な安全性審査機関は患者からの具体的な薬害の訴えを審理し、被害者の救済や関係者の処分も行う護民司法的な機能を備えた機関とするため、医学者・薬学者のみならず、薬事法に精通した法曹も参与する機関となる。

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続・持続可能的計画経済論(連載第40回)

2022-12-05 | 〆続・持続可能的計画経済論

第3部 持続可能的計画経済への移行過程

第7章 経済移行計画Ⅰ:経過期間

(7)農林水産業の統合準備
 持続可能的計画経済にあっては、食糧生産に関わる農林水産業は基幹産業分野の生産計画Aとは区別された生産計画Bとして別立てとなるが(拙稿)、計画の立案と実施は農林畜産事業機構または水産事業機構といった統合企業体自身によって行われる。
 経過期間においては、そうした生産計画Bの計画主体となる統合企業体の設立に向けた準備過程が遂行される。中でも、農林畜産分野は土地制度とも密接な関連を有するので、前回見た土地所有権制度の廃止過程とも重なる。
 すなわち、農林畜産業の生産要素となる農地や林野、牧草地もすべて所有権観念から解放され、無主物として公的な管理下に置かれることが前提である。その点でも、しばしば社会主義的な「農地改革」政策として実行される農地の接収と分配とは全く異なるプロセスとなることに留意される必要がある。
 そのうえで、経過期間開始時に農林畜産業がいかなる経営形態を採っているかにより、準備過程の様相も異なる。自営的家族経営形態が主流を占めている場合は、統合企業体の設立はゼロからのスタートとなるため、各経営家族への告知と試行を通じた慎重な過程となる。
 自営的家族経営形態を前提としながら、協同組合組織が定着している場合は、それらの協同組合組織を合同して統合企業体を結成することは比較的容易である。その場合、協同組合の中央組織が核となる。
 いずれも場合も、旧来の農林畜産業者は将来の農林畜産事業機構の現地管理者または農林畜産労働者に対する業務指導員として包摂されることになるため、そうした地位の変更に伴う研修も必要となる。
 一方、経過期間開始時に未だ半封建的な大土地所有制が存残している場合、土地所有権を喪失した旧地主のうち、不在寄生地主ではなく、自ら現地で農林畜産経営に従事していた者は、農林畜産事業機構の現地管理者として再雇用される余地がある。
 以上の基本的なプロセスは水産分野にもほぼ妥当するが、水産分野で土地に相当する水域は元来、個人的所有権の対象ではないため、農林畜産分野のような所有権廃止と関連した準備は要しない。
 ただし、経過期間開始時に漁船所有者による網元制度のような半封建的な漁業経営形態が依然として残存している場合は、そうした旧制の解体プロセスが先行し、然る後に統合企業体の設立過程に入ることになろう。

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近代革命の社会力学(連載追補5)

2022-12-04 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(8)革命の余波
 辛亥革命は中東地域まで含めたアジア全域での史上初となる成功した共和革命であったが、当時すでにその多くが欧米日の植民地支配下に置かれていたアジアでは、東アジアの周辺諸国でも余波と呼ぶべき連続的あるいは波及的な革命は発生することがなかった。
 その点、日本は孫文ら革命派にとっては海外亡命拠点であったにもかかわらず、日本の尊王意識は進歩派の間ですら強固であり、思想的な面で共和革命の影響が及ぶことはなく、日本で天皇制打倒の触発的な共和革命運動が隆起することはなかった。
 一方、朝鮮は、辛亥革命前年に日本への併合により独立を喪失していた。日清戦争後の割譲により日本領土となって久しい台湾では、辛亥革命に触発されたインドネシア生まれの客家の革命家・羅福星が1913年に組織的な抗日蜂起を計画したが、日本当局に露見し、羅を含む同志20人が死刑となった(苗栗事件)。
 こうして、辛亥革命の余波は対外的なものより対内的なものに収斂した。特に清朝時代に藩部としてある種の民族自治が敷かれていた辺境地域の自立化・独立化の動きである。 
 中でも最も敏感な動きを示したのはモンゴルとチベットであり、両地域ではある程度持続する自立的な政権の樹立を見たが、これについては別途派生章を充てることとし、ここではもう一つの藩部である新疆における状況を見るにとどめる。
 新疆はかつての西域に相当する領域で、イスラーム教が優勢な辺境地であったが、乾隆帝による征服以来、清朝の支配領域に編入されていたところ、19世紀のイスラーム勢力の反乱でいったん支配が崩れた後、清朝が奪回、省制の施行に伴い、1884年以降、新疆省が設置され、中央統制が強化されていた。
 そうした中で辛亥革命が勃発すると、新疆でも当初は漢人系の革命家が1911年12月に首府の迪化(現ウルムチ)で革命蜂起したが、これは小規模なものにとどまり、失敗に終わった。しかし、明けて1912年1月に、やはり漢人系の革命集団が伊犁(イリ)にて蜂起し、革命政権の樹立に成功した。
 このイリ革命を指導した馮特民は外部出身の革命派漢人であり、結局のところ、辛亥革命余波としての新疆革命は、在地のムスリムではなく漢人が主体となった点に内在的な限界があった。
 とはいえ、辛亥革命後、清朝残党内には皇帝を辺境地に移して反革命を起動させる計画もあったとされる中、新疆でも呼応革命が勃発したことは、こうした反革命運動の始動を阻止し、清朝護持派に対して最終的な打撃を与えたとも言えるところである。
 しかし、最終的にイリ革命政権は新疆全域を掌握できないまま、12年2月までに清朝科挙官僚出身の漢人・楊増新の軍勢に敗北したので、独立革命に発展することはなかった。
 ただし、楊増新は清末に清朝から派遣された地方行政官出自でありながら、清朝護持派ではなく、イリの革命派を取り込みつつ、辛亥革命後の中華民国政府からも新疆省統治の承認を取りつけ、中華民国体制下の言わば新・新疆省の独裁的統治者にのし上がった。その点、辛亥革命を横領して独裁者となった袁世凱と類似する人物であったと言える。
 楊増新体制は楊が暗殺された1928年まで続くが、その間、中華民国が事実上の内乱状況に陥る中、楊体制は実質的な独立政権の様相を呈し、西アジア地域に触手を伸ばす英国・ロシアとも渡り合いつつ、省内の民族的・宗教的対立を封印して、安定をもたらすことに成功した。

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