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近代革命の社会力学(連載第373回)

2022-01-31 | 〆近代革命の社会力学

五十四 ハイチ民衆革命

(3)民衆蜂起と外圧
 デュヴァリエ世襲体制下での民衆の抗議行動は1970年代末から始まるが、本格的に隆起したのは1980年代に入って、デュヴァリエ世襲体制の弱体化が進行する中でのことである。最初の明確な始期は、1984年5月、北部の都市ゴナイーブでの抗議行動である。
 ゴナイーブはハイチ史においては象徴的な場所であって、1804年には、独立革命の功労者で初代の皇帝ともなったジャン‐ジャック・デサリーヌがこの町で独立宣言を発している。言わば、革命発祥の町である。
 この時、デモ隊は運動を「蜂起作戦」と呼び、革命には至らなかったものの、ある程度まで計画的に行動した。これに対し、政権側は武力弾圧を試みるも、抗議行動は他都市に拡大した。この「蜂起作戦」は、これ以後、民衆運動のキーワードとなる。
 抗議行動の全国的な進展を恐れた政権は、二つの対策を講じた。一つは、抗議行動の背景にあった食糧価格の高騰を抑えるため、日常食糧価格の10パーセント削減という価格統制、もう一つは憲法改正である。
 しかし、新憲法では終身大統領の権限をかえって強化する焼け太りを画策し、1985年7月に行われた国民投票では99パーセントの高率で承認されたものの、不正な投票操作の疑念も相まって、抗議活動はかえって激化した。とはいえ、抗議行動の波は首都ポルトープランスにはまだ到達しなかった。
 しかし、国民投票後、85年後半期には、学生も授業ボイコットのストライキで抗議に加わり、抗議行動の全国的な拡大が見られた。これに対し、政権は学校や放送局の閉鎖で応じたが、11月には治安部隊との衝突で学生が死亡する事件が発生した。
 これは民衆運動のクライマックスとなり、86年1月には野党勢力が全国ゼネストを呼びかけ、カトリック界も政権の非道さを非難する声明を発する中、首都では、独裁の拠点を孤立させるため、デモ隊が首都につながる道路を封鎖する戦略で対抗した。
 その結果、86年1月以降、抗議行動は全国規模化し、各地で暴動の様相を呈した。政権が統制不能に陥る中、ここで最大の援助国アメリカが事態収拾に動く。先代からの強固な反共政策を高く評価していたレーガン政権の援助は国家予算の半分以上にも及んでおり、独裁者と言えどもアメリカの圧力には逆らえない従属状況にあった。
 レーガン政権は先行のニカラグアのように、一族独裁に対する革命が高揚して親ソ連・親キューバの左派政権がハイチにも出現することを恐れ、予防的に政権の立て替えを画策していた。そこで、仲介者を立てて説得したうえ、86年2月7日、アメリカが用意した航空機でデュヴァリエ一家を旧宗主国フランスへ出国させた。事実上の亡命であった。
 これにより、29年に及んだデュヴァリエ父子世襲体制があえなく終焉した。しかし、革命運動は組織化されておらず、野党勢力も30年近い独裁下で逼塞し断片化していたため、革命政権を形成することはできなかった。
 代わりに現れたのは、出国直前にデュヴァリエ自身が立ち上げた国家統治評議会であった。評議会の議長はデュヴァリエ政権下の軍部を掌握していたアンリ・ナンフィ参謀総長であり、メンバーも旧体制派の軍人と文民から成る軍民混合政権であった。
 この人事はおそらく、完全な革命を阻止したいアメリカ政府との事前の打ち合わせによる政権引き継ぎの結果である。こうして、民衆運動はデュヴァリエ体制打倒の目的は果たしたものの、1986年の段階では、民主化革命としては全く不完全なものに終わったのであった。


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