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近代革命の社会力学(連載第335回)

2021-11-25 | 〆近代革命の社会力学

四十八 バヌアツ独立革命

(3)英語圏勢力による革命
 英語圏島と仏語圏等の対立が新設の植民地議会を空転させる中、1977年3月にロンドンで英仏の共同宗主国とバヌアツ先住民代表との三者協議が行われ、改めて1980年に議会選挙と独立是非を問う住民投票を行うことで合意に達した。
 ただし、ウォルター・リニが従前のニューヘブリディーズ国民党を改名して結成していた英語圏のバヌアアク党(我が土地党:略称VP)は三者協議を時間稼ぎとみなしボイコットし、同年11月に改めて行われた議会選挙もボイコットした。
 そのうえで、VPは同年に決起し、革命的な「人民臨時政府」の樹立を宣言した。これは英仏共同統治政府に並行する対抗権力であったが、英仏当局があえて軍事的な鎮圧行動を控えたため、臨時政府は短期間で仏語圏を除く大半の島で実効支配を確立した。
 臨時政府と仏語圏勢力や英仏当局との小競り合いが続く中、妥協が図られ、改めて挙国一致の自治政府が形成され、新憲法の制定と1980年7月の独立スケジュールが決定された。とはいえ、独立前後にかけて英語圏勢力主導の独立に不服を抱く仏語圏勢力との紛争はなお続いた。
 独立直前の1980年1月には、仏語圏拠点のエスピリトゥサント島が一方的な分離独立宣言を発した。このクーデター的な動きの背後には、南太平洋にタックス・ヘブンの樹立を目論むアメリカの民間財団の資金援助があり、かつ即時独立になお否定的なフランス及びフランス人入植者の支持があった。
 さらに、同年5月には同じく仏語圏のタンナ島でも反乱が発生する中、スケジュールどおり1980年7月30日、ニューヘブリディーズ諸島はバヌアツ共和国として独立を果たし、儀礼的な大統領制の下、実権を持つ初代の首相には、前年度の選挙で勝利していたVPのウォルター・リニが就いた。
 これをもって英仏の軍は撤退していったため、抵抗を続けるエスピリトゥサント島の分離独立勢力を排除するべく、リニ政権は、先行して1975年にオーストラリアから独立を果たしていたパプアニューギニアの軍に介入を要請した。
 この方策は功を奏し、島の住民は進駐してきた同じメラネシア系のパプア軍兵士を歓迎するありさまで、ほとんど近代的な兵器を持たない分離独立勢力は短期間で降伏し、紛争は終結したのである。
 これにより、新生バヌアツはようやく安定に向かうが、その後も、バヌアツでは政党が使用言語別に形成され、長く与党を維持していく英語系のVPに対し、仏語系は中道政党同盟(UPM)を結党して対抗するという関係が続くことになった。


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