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近代革命の社会力学(連載第158回)

2020-10-19 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ三 イラン・ギーラーン革命

(1)概観
 ロシア十月革命の直接的な余波は、カスピ海をはさんで近接するイランにも及んだ。当時のカージャール朝は、立憲革命がイギリスが黙認する帝政ロシア軍の介入により挫折して以来、イギリス・ロシア両大国が勢力を分け合う形で、半植民地状態に置かれていた。
 そうした中で、立憲革命の残党勢力は、北部のカスピ海沿岸ギーラーン地方で独自のパルチザン運動に形を変えて活動していた。ギーラーンは元来、イラン系民族でも独自の言語・文化を持つギーラーン人の居住地域であり、伝統的に自治の気風が強かったところである。
 このパルチザン運動は森林(ジャンギャル)の多い同州の地理にちなみ、「ジャンギャリー(森の住民)運動」と称されていた。その後、ロシア革命により帝政が倒れたことで、ロシアがイランから手を引くと、イギリスの一人勝ちとなり、第一次世界大戦後、1919年8月の条約に基づき、イギリスの保護国化が確定した。
 この動きに対抗する形で、1920年5月、ジャンギャリー運動が、新設の共産党と連合して革命的に蜂起し、同年6月、イギリス軍を駆逐してギーラーンにカージャール朝中央政府から独立した共和国を建てた。
 このギーラーン革命に当たっては、ロシアのボリシェヴィキの軍事的な支援介入があり、成立した共和国は「ペルシャ・ソヴィエト社会主義共和国」を名乗った。共和国の政策の展開もボリシェヴィキの綱領に沿っており、革命ロシアの衛星国に近いものであった。
 そうした点では、ボリシェヴィキによる革命の輸出政策により、中央アジア各地に出現したソヴィエト革命政権と類似したものであったが、それらのほとんどがやがてソ連に吸収されていったのと異なり、ギーラーンのソヴィエト共和国は一年以上持ちこたえ、最終的にソ連への吸収ではなく、革命ロシアに裏切られる形で崩壊した点に違いがある。
 イランの近代革命史の中では、20世紀初頭の立憲革命に続く社会主義革命の段階に位置付けることができるが、「イラン・ソヴィエト」の標榜にもかかわらず、首都テヘランに波及させることができず、地方的な革命に終始したため、全国的な革命に進展することはなかった。
 大国による植民地化の危機の中で発生した点で類似する隣国トルコの共和革命との相違として、民族主義勢力と共産党が連合して革命的に蜂起し、短期間ながら連合政府を形成したことが挙げられる。しかし、支持基盤とイデオロギーに溝のある革命的連合は持続せず、内紛・クーデターが相次いだことも、崩壊を早める要因となった。
 しかし、いったんはギーラーン革命の鎮圧に成功したカージャール朝にとっても崩壊を早める契機となり、1921年のレザー・ハーンによる軍事クーデターを経て、25年にはレザー自らが国王に即位し、パフラヴィ―朝に取って代えられることになった。


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