ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

マルクス/レーニン小伝(連載第44回)

2012-12-27 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第3章 亡命と運動

(1)党内抗争と理論闘争(続き)

ローザvs.レーニン論争
 意外なところから、レーニンに論争を挑む者が現れた。ドイツ社会民主党左派のローザ・ルクセンブルク(以下、ローザという)であった。ポーランド出身のユダヤ人であった彼女は、後年ドイツ共産党の共同創設者としてドイツ革命の渦中で反革命化した社民党政権が動員した民兵組織の手にかかって虐殺される運命にあった人であるが、彼女が最初に名を上げたのは、第1部でも見たように、エンゲルス没後のドイツ社民党内部に生じたベルンシュタインのいわゆる「修正主義」の思潮に対する批判の急先鋒としてであった。
 レーニンが「修正主義」に反対したのは、ロシアの経済主義にも連なるこれらの思潮は労働者革命の自然発生性を神秘化しているとみなしたからであるが、ローザの場合には全く反対に、労働者大衆の自然発生的な革命運動への絶対的な信頼に基づいて、ベルンシュタインの順応主義的な路線を鋭く批判したのである。
 ローザのこうした自然発生的革命論は論理上、レーニンのエリート主義的な革命前衛理論とも衝突せざるを得ない。実際、彼女が1904年にドイツ社民党理論機関紙『ノイエ・ツァイト』とすでにレーニンの手を離れていた『イスクラ』に同時発表したレーニン批判論文「ロシア社会民主党の組織問題」は、レーニンの「一歩前進、二歩後退」に現れているレーニン的党組織論の「超中央集権的」な性格を批判の中心にすえている。
 ローザの自然発生的革命論によれば、レーニンのような中央集権的党組織によるプロレタリアートの指導はあり得ず、党の指導的役割は最小限度の受動的なものにとどまるのである。
 ローザが労働者の階級意識獲得の手段として、従ってまた革命の契機として期待をかけるのはゼネラル・ストライキ(ゼネスト)であった。ローザが前記論文の結びに置いた「真の革命的な労働運動によって犯される誤謬は、歴史的には最良の中央委員会の無謬性よりも限りなく実り豊かであり、貴重である」という一文は、彼女の党非組織論を雄弁に要約している。
 ローザの所論は一見すると、マルクスの革命後衛理論に近いようにも見えるが、マルクスは第1部でも見たとおり、共産主義者(=革命家)をプロレタリア運動における断固たる推進的部分かつ洞察力を備えた集団と積極的にとらえるのであり、それは決してローザ的党のように大衆の自然発生的ゼネストの後をついていくだけの受動的徒党ではないのである。
 大衆の自発性に対するローザの無条件的信奉は、彼女のもう一つの重要な経済学的持論である資本主義の自動的崩壊論とともに、神秘主義的マルクス主義とでも呼ぶべきマルクス理論からの独異な逸脱を示していた。
 ローザはその後もたびたびレーニンと激しい論戦を交わし、ロシア10月革命とその帰結であるボリシェヴィキ独裁に対する最も手厳しい批判者となった。しかし、レーニンはローザを決してメンシェヴィキの同類とみなして切り捨てることなく、最も手ごわい批判的同志として遇し、彼女がドイツ共産党の共同創設者カール・リープクネヒトとともに虐殺された時、すでに権力の座に就いていた彼は、二人の死を深く悼んだのである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第43回)

2012-12-26 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 ウラジーミル・レーニン

第3章 亡命と運動

レーニンの立場の偉大な歴史的意義、すなわち真に革命的な党の団結を強化し、そのバックボーンに筋金を入れるべく断固としてイデオロギー的境界線を引き、必要とあらば分裂も辞さずという彼のポリシーは、当時私にはまだよくわかっていなかった。
―同志レオン・トロツキー


(1)党内抗争と理論闘争

『イスクラ』脱退へ
 レーニンはロシア社会民主労働者党第二回大会で多数派(ボリシェヴィキ)を形成したが、なお僅差であり、不安定であった。一般にレーニンのボリシェヴィキ党は第二回党大会で事実上成立していたと理解されているが、レーニンはなおマルトフら少数派メンシェヴィキとの融和のため努力を続けていた。しかし、マルトフらは巻き返しのチャンスを狙い、レーニンへの協力を拒んでいた。
 そのチャンスは1903年10月にジュネーブで開かれたロシア革命的社会民主主義在外連盟第二回大会の場でやって来た。この大会は党大会とは別途、外国亡命中のロシア・マルクス主義者を広く結集する大会であったから、メンシェヴィキにとってPRの場としては最適であった。
 実際、この大会はメンシェヴィキによる「ボリシェヴィキ糾弾大会」のような様相を呈した。妻クループスカヤの回想によると、大会前、レーニンはジュネーブの町で考え事をしながら自転車に乗っていて路面電車と衝突し負傷する事故を起こしたという。負傷を押して連盟大会に出席したレーニンは大会でも糾弾され、傷心して退場した。
 レーニンにとって追い打ちとなったのは、党の完全な分裂を恐れたプレハーノフがメンシェヴィキとの和解を言い出したことであった。たまりかねたレーニンはまたもプレハーノフを立てる形をとりつつ、自ら『イスクラ』編集部から身を引く道を選んだのであった。
 レーニンは幸い11月には党中央委員に補充選出されたため、以後は中央委員会を足場として早期に第三回党大会を招集して揺らいだ党内立場の建て直しを図ることを狙った。レーニンの特徴をなす「力への意志」は、まだ国家権力などおよそ視野に入るべくもなかったこの時期、まずは「党内権力」を目指すあくなき行動として発現し始めていた。
 彼は手始めに、04年5月、論文「一歩前進、二歩後退」を発表してメンシェヴィキの主張を徹底批判した。この論文はその2年前の「何をなすべきか」以来、レーニンが掲げてきた革命前衛理論に立脚しつつ、メンシェヴィキのサークル的体質を厳しく批判し、論文の副題でもある「我が党の危機」、すなわち革命的陣営と非革命的な改良主義的陣営とに分裂する危機の責任をもっぱらメンシェヴィキに帰している。そのうえで、彼は革命政党としての団結力を高めるために中央集権的な党の建設を訴えるのである。
 このような論調は当然にもメンシェヴィキを怒らせたのみならず、プレハーノフやその他の中間派のメンバーをも離反させることとなった。その結果、レーニンの党内立場はかえって悪化し、7月には中央委員辞任に追い込まれた。
 しかしレーニンはあきらめず、8月にはスイスでボリシェヴィキ単独の会議を開き、党の革命的団結を固めるための新たな党大会の開催を訴えるアピールを発した。そして年末にはボリシェヴィキ派の新機関紙『フペリョート』を創刊する。ロシア語で「前進」を意味するフペリョートというタイトルには、第二回党大会の後、「一歩前進、二歩後退」を強いられた彼と彼の党派の再びの前進という意味が込められていた。

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マルクス/レーニン小伝(連載第42回)

2012-12-20 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第2章 革命家への道

(4)社会民主労働者党への参加

結党の経緯
 ロシアにおいても本格的なマルクス主義政党を結成する必要性に関しては、1895年のレーニンとプレハーノフらとの最初の面談で意見の一致を見ていたが、実現を見ないうちにレーニンらが逮捕され、流刑に処せられてしまったことで、いよいよもって実現の目途が立たなくなってしまった。
 そうした中、レーニンとは別のグループによって1898年にミンスクで社会民主労働者党第一回党大会が開催された。しかし、この大会にはわずか6組織9代議員しか参加せず、流刑中のレーニンらは当然にも参加することができなかった。しかも、大会は党創立を宣言するだけに終わったうえ、直後に治安当局の摘発を受け、事実上壊滅状態となった。こうしたことから、この大会を正式の創立大会とみなすべきかどうかについては議論がある。
 ちなみに、ミンスク大会の宣言を起草したのはピョートル・ストルーヴェで、彼はまさにレーニンが「何をなすべきか」で批判の俎上に乗せた経済主義の中心人物であった。後にレーニンから変節漢と痛罵された彼は実際、10月革命後の内戦期には反革命の白軍地方政府の外相も務めた。
 そのストルーヴェはレーニンの非妥協的な性格を批判しつつ、彼の立脚点は憎悪にあると指摘した。たしかに、帝政ロシアに敬慕する兄を奪われ、自らも入学したばかりの大学を理不尽な仕方で退学させられ、流刑にも処せられ、その後も長い外国亡命生活を強いられたレーニンが帝政ロシアに対する憎悪をその非妥協的な革命運動のエネルギー源としていたということは、十分考えられることである。

分裂含みの党再建大会
 ロシア社会民主労働者党の実質的な創立大会と位置づけられ得るのは、レーニンらも参加して1903年7月に当初ブリュッセルで開かれた第二回大会であった。この大会には26組織57代議員が参加し、どうにか大会らしき体裁は保っていたが、開催場所はブリュッセルの麦粉倉庫であった。 
 レーニンは大会に先立ち、党の主導権を握ろうとするプレハーノフが起草した綱領案をめぐってプレハーノフと対立していたところであったが、彼はまたもや大先輩プレハーノフを立てて譲歩したため、綱領案はスムーズに採択された。その綱領案の討議中にベルギー警察の手入れが入りかけたためにロンドンに移された舞台では、大きな波乱が待っていた。
 最初の問題は、党員資格について定める党規約第1条案をめぐり、これを広くとって党組織の指導を受けて党に協力していれば党員とみなすとの案を出したマルトフと、狭く限定して党組織に参加しない限り党員と認めないとする案を出したレーニンが対立したことであった。
 ここで、レーニン案が「何をなすべきか」の少数精鋭主義の革命前衛理論を前提としていることは明らかである。彼からすれば、マルトフ案は職業的革命家の組織と労働者大衆組織とを混同するものにほかならなかった。この件に関しては、プレハーノフはレーニン支持に回ったが、結局マルトフ案が採択されることになった。
 早くも表面化してきたレーニンとマルトフの対立は、続いて党中央機関の人事をめぐる討議で頂点に達した。権力闘争では学究肌のマルトフに勝るレーニンは党機関紙となる『イスクラ』の編集部からプレハーノフに服従するアクセリロードとザスーリチの両ベテランを追放することのほか、中央委員会をレーニンに近いメンバーで固めることにも成功したのである。マルトフは激しく反発したが、及ばなかった。
 こうして、実質上の新党の創立を実現した党第二回大会は、ひとまずレーニンが党の多数派(=ボリシェヴィキ)を掌握し、マルトフらの少数派(=メンシェヴィキ)に勝利した形となった。その結果、ロシア社会民主労働者党は実質上のスタート時点から二大派閥に分裂したのだった。この分裂はやがて来たる革命の中で、党内問題を超えた理論上・実践上の対立に発展していくであろう。

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議会制民主主義の死

2012-12-17 | 時評

2012年12月16日は日本の議会制民主主義が死んだ日として記憶されるであろう。なぜなら、野党がこれほど断片化し、超巨大与党が誕生したことは、少なくとも現行憲法で議会制民主主義がまがりなりにも保障されて以降、なかったことだからである。

議会制民主主義は野党による与党の牽制が命であるから、牽制機能を発揮できないほど野党が縮小することは、議会制民主主義の死を意味するのである。

このような結果となった要因としては、まず小選挙区制が持つ「地すべり効果」に加え、惜敗者復活当選を目的とする本末転倒の比例区制度の存在、違憲状態に達している定数不均衡といったことが考えられる。

そうした欠陥選挙制度を基礎に、より根底的には、選挙が政治的な「喝采」と化していることも大きな要因である。過去二回の総選挙でも「圧勝」現象が起きている。その結果、本来理性的な政治行動とされる投票と感情的な喝采の差がほとんどなくなり、まさにカール・シュミット的な意味での独裁も容認するような“民主主義”の形態が発現し始めているのだ。

その原因として、前打ち的な選挙予測や「逆風」を過度に誇張してみせる選挙過程へのメディアの介入操作の影響が大きいと考えられるが、これについてはここで詳論する余裕がない。

それにしても、あまりに極端な勝敗結果となったことには、前政権党である民主党固有の問題も大きい。表面上はいわゆるマニフェスト破りが敗因とされるが、元来「非自民」の一点だけで雑多な分子が寄り集まった統一的理念も綱領もないバブル政党であったことが、「逆風」の中で壊滅的敗北を招いたのだ。

かくして日本の議会制民主主義は死んだのだが、それはクーデターのような非合法手段によるのでなく、合法的選挙によって死んだということ―言わば自殺―が決定的に重要である。このことは、選挙という手段が民主主義を保証するとは言えないことを裏書きしているからだ。

そうした意味では、議会制民主主義の死は、議会制民主主義という制度そのものの是非を根底から冷静に見直す契機でもある。

もっとも、議会制民主主義が蘇生する可能性がないわけではない。一つは参議院による牽制である。ただ、第二院による牽制が行き過ぎれば、いわゆる「ねじれ」による機能不全が生じるし、反対に来年の参院選でも与党圧勝となればいよいよ終わりである。

もう一つの可能性として、第二回安倍政権も結局行き詰まり、次回総選挙では野党が勝利するか、少なくとも牽制機能を発揮できる程度に盛り返すことである。しかし、あまりにも弱体化した民主党の短期での復活可能性は低く、断片化した野党全般の結集可能性も乏しい。

内容的に見れば、維新の会やみんなの党を含めた保守・反動改憲勢力による衆議院の征服という今回の選挙結果は、日本の戦後史が幕間狂言的な3年間の民主党政権期を迂回しつつ、さらに「逆走」を本格化させる段階に入ったことを意味していると評し得るだろう。

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コネティカットの悲劇

2012-12-16 | 時評

14日、小学校で児童20人を含む26人が死亡する銃乱射殺傷事件が発生したコネティカット州は、今年死刑制度を廃止したばかりの、全米で17番目となる死刑廃止州であった。

懸念されるのは、死刑存置派が悲劇を利用して巻き返し、事件の原因を死刑廃止に求める住民世論が高まり、死刑復活への反動が起きる危険だ。ひいては、2000年代に入って生じている米国における州レベルでの死刑廃止の流れに水を差す恐れもある。

しかし、99年のコロンバイン高校事件(コロラド州)や、07年のヴァージニア工科大学事件(ヴァージニア州)のように、学校という本来最も安全であるべき場での過去の重大な銃乱射大量殺傷事件は、死刑存置州で起きている。

上掲の三事件を含め、こうした事件では加害者は犯行直後に自殺することが多いため、刑罰だけでは処理できない。

米国では銃乱射事件が起きるつど銃規制の是非論が繰り返されるが、銃規制だけの問題ではない。銃規制が厳しい日本でも2001年の大阪教育大付属池田小事件のように、学校現場での刃物による大量殺傷事件は発生している。

ドイツ、ノルウェー、フィンランドなど近年欧州諸国でも起きている銃乱射事件も含め、資本主義社会の若年者に普遍的に見られる攻撃的暴発行動の防止のためには行動科学的及び社会科学的な分析を要する。

大量殺傷事件には誰しも強い衝撃と怒りを感じるが、そうしたある意味では健全な感性的反応をどこまで理性的に昇華していくことができるかで、社会の成熟度が試されよう。右傾化を強める自民党の政権復帰で、死刑執行数の激増もあり得る情勢だけに、日本でも他人事ではない問題である。

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マルクス/レーニン小伝(連載第41回)

2012-12-13 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第2章 革命家への道

(3)何をなすべきか(続き)

論文「何をなすべきか」
 『イスクラ』時代のレーニンの代表作は、広範囲な影響を及ぼすことになる「何をなすべきか」であった。1902年に発表され、「我々の運動の焦眉の諸課題」といういささか切迫した副題を持つこの論文は、当時世界最大のマルクス主義政党であったドイツ社会民主党の内部で生じていた改良主義的穏健化とそれに影響されてロシアのマルクス主義の間にも現れたいわゆる経済主義、すなわちマルクス主義者の役割をさしあたりプロレタリアートの経済闘争への参加・支援に限定しようとする立場に断固異議を唱え、マルクス没後およそ20年を経て、マルクス主義革命運動に活を入れ直すことを企図したものであった。
 彼はそのために、革命的活動を職業とする人々、すなわち「職業的革命家」という概念を導入する。そして、この職業的革命家の組織は、できるだけ広範かつ公然と組織されるべき労働者の組織とは異なり、少数精鋭かつ秘密の組織でなければならないと主張した。
 その際、レーニンは労働者と―職業革命家の多くを占める―インテリゲンチャとの形式的対等性を前提とするとはいえ、労働者は自力では組合的意識しか作り出せないため、革命的意識はマルクス、エンゲルス、そしてレーニン自身も含まれるインテリゲンチャによって外部から注入されなければならないとする「外部注入テーゼ」を打ち出したのである。
 このようなレーニンのエリート主義的な革命前衛理論は、むしろナロードニキ系の革命理論に近く、マルクスの革命後衛理論からは離反するものであることは、すでに第1部第5章で示しておいたとおりである。
 もっとも、秘密結社性の強調は、帝政ロシア当局による反体制・革命運動に対する体系的抑圧が敷かれていた当時の状況に照応しているため、1905年の第一次革命で抑圧が若干緩和されてからは、レーニン自身によって修正されていく。しかし、職業的革命家の指導性を高く奉じる彼の理論の全体骨格は以後変わることなく、レーニン的党組織論の土台となった。
 レーニンの考えによれば、経済主義者は労働者大衆の自然発生的な運動を信奉するあまりに、最終的に労働運動をブルジョワジーの思想の支配下に引き渡してしまうことになるのである。
 レーニンは当時早くも生じ始めていたそうした危険―彼の危惧はおよそ100年後の今日、まさにブルジョワ思想に吸収されてしまった労働運動主流の情況を見ると、的中している部分も認められるが―に抗して、まず自らを率先して職業的革命家として提示してみせたのである。その意味で「何をなすべきか」は、レーニン自身の『共産党宣言』ならぬ『革命家宣言』であったとみなすことができるであろう。

貧農への呼びかけ
 論文「何をなすべきか」の発表に続く1903年春、レーニンはかねてより取り組んでいた農民問題に中間総括を与えるパンフレット「地方貧民へ」を公刊した。
 レーニンは早くから農民問題に注目しており、現存する最初の著作も農民生活に関する論文であったほどで、1894年に書いた最初の本格的な政治論文「人民の友とは何か」の中でも、ロシアにおけるプロレタリアートの勝利のためには、農村プロレタリアートの支持が不可欠であることを指摘していた。そして最初の大著『ロシアにおける資本主義の発達』でロシア農村における農民の二極分解の実態を分析し、貧農の増大という現象に留目したのである。
 そうした分析を踏まえたうえで、1903年のパンフレットでは、「地主に対してのみならず、富農に対しても同じように闘うための、貧農全体と都市労働者の同盟」というテーゼと明確に打ち出すのである。これこそ、レーニン独自の労農革命論の土台を成すテーゼである。
 ちなみに、マルクスも特にフランスにおける農村プロレタリアートの存在に着目してはいたが、元来土地所有権の獲得(=農地解放)を宿願とするゆえにブルジョワ思想に傾斜しがちな農民と都市労働者の同盟という視座はマルクスに存在しなかった。これに対して、レーニンは農業国ロシアの実情を踏まえ、あえて労農同盟というテーゼを提起するのである。
 この点で、彼は革命前衛理論と並ぶマルクス理論からのもう一つの重要な離反を試みたのである。そして、ここでもレーニンはその経済理論に反対したナロードニキに一歩にじり寄ったとも言える。
 しかし、本来は土地の国有化を目指すはずのプロレタリア革命を農業革命と接合することには理論上の無理があり、レーニンの労農同盟論は依然としてロシア社会の中で中心的な位置を占めるに至っていなかった労働者が勢力を拡大するために農民を味方につけるという革命戦略的な意味合いが強いものと考えられる。
 そうした意味で、「地方貧民へ」は前年の「何をなすべきか」とセットで、レーニン革命戦略論の一部を成すものと読み取ることも許されるであろう。

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マルクス/レーニン小伝(連載第40回)

2012-12-12 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第2章 革命家への道

(3)何をなすべきか

新聞『イスクラ』創刊
 レーニンの流刑は1900年1月に満了した。彼はあと一年流刑期間が残されていた妻クループスカヤといったん別居して、ペテルブルク近郊のプスコフという町に落ち着くことになった。
 レーニンの流刑体験はドストエフスキーの場合のように思想的転向の契機とならなかったどころか、かえって彼の念頭には新しい世紀における革命運動の方法についてのアイデアが浮かんできていた。帝政ロシアの側から見れば、レーニンに対するかれらの処分は手ぬるすぎたということになろう。
 しかし、レーニンたちの運動は当時、当局にとっては必ずしも重大視するまでもないマイナーなものに映っていたこともたしかであった。当時なおロシアのマルクス主義運動はナロードニキの影に隠れていたからである。
 レーニンは同時に流刑が満了したマルトフらと再び落ち合い、まずは彼らの主張の宣伝を担うマルクス主義の全国新聞を創刊するプランを話し合うため、プレハーノフらの滞在するスイスへ再び旅立った。
 彼らはジュネーブでプレハーノフにパーヴェル・アクセリロード、ヴェラ・ザスーリチを加えたロシアの言わば革命三長老と面談したが、ここでの問題はプレハーノフの大御所然とした権威主義的態度にあった。彼は新しい新聞の編集で主導権を握ろうとしていたのだ。それを察知し、憤慨したレーニンは帰国も考えたが、結局プレハーノフを立て、彼が6名の編集部員の中で特別に一人二票の編集権を保有するという不公平な取り決めに同意した。
 こうして、レーニンにとって甚だ不本意な変則的方針を採用しながらも、ロシア語で火花を意味する『イスクラ』と名づけられた新しい新聞は1900年12月、ドイツで創刊の運びとなった。翌年6月には流刑が満了したクループスカヤも合流して、通信員を引き受けるようになった。
 こうして誕生した『イスクラ』は、世紀の変わり目前後のロシアにおける新旧の主要なマルクス主義者たちを結集しつつ、ロシアの新しい革命運動の小さな炎となったのである。

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「国防軍」か、自衛隊か

2012-12-08 | 時評

今般の選挙で最重要の争点は何かと問われれば、「国防軍」創設の是非であると答えたい。これは「脱原発」と並んで、日本国民の生命身体財産に直接関わる重大問題である。おそらく、この問題が正面から争点となるのは、現行憲法下の選挙では初と言ってよいだろう。

それにしても、「国防軍」を提案している政党は、つい数年前には「自衛軍」の創設をうたっていたはずである。いったいぜんたい「自衛軍」と「国防軍」はどう違うのか。「国防軍」は自衛を超えた侵略的攻撃も辞さないという含みがあるのか。

さらに、「国防軍」と「国軍」とはどう違うのか。仮に「国防軍」を創設した場合、現行の陸海空三自衛隊の名称はどう変わるのか。もし陸海空軍となるなら、それはズバリ「国軍」そのものではあるまいか。

「国防軍」に対して、こういった質問の矢を放つ人がほとんど存在しないのは不可解である。とはいえ、言葉遊びでないならば、新語の創案者はその意味を問われなくとも明確にする責任があるはずである。

こういう国語の問題を提起したうえで、「国防軍」提案への対抗軸は何かを考えるに、それは「自衛隊=憲法9条違反論」ではもはやない。そうではなくて、「憲法9条を改正するにしても、自衛隊を自衛隊として憲法に書き込む方法があるではないか」が対抗軸となる。あえて単純化すれば、「「国防軍」か、自衛隊か」である。

実際のところ、自衛隊は賛否を超えて現実の国家武力として定着していることは疑いなく、当面の国際情勢に照らして、相当期間それを保持していかなくてはならないことも否定の余地はない。

にもかかわらず、現状、憲法に自衛隊のジの字も書き込まれていないことが大問題である。これは国家権力を憲法に基づいて組織し、かつ規律するという立憲政治の枠を逸脱していることを意味するからだ。

逆説的にも、自衛隊に憲法違反の余地が残されていることが、かえって自衛隊が超憲法的に活動できる可能性を高めてしまっているのだ。実際、過去20年にわたり、自衛隊法という憲法の下位法を通じて自衛隊の任務がなし崩しに拡大され、実際、準軍隊的なレベルにまで立ち至っているのは、現行憲法に自衛隊に関する基本条項が何も存在しないためである。

こうして国家武力が完全に憲法の外部に置かれている非立憲的な危険状況を改め、自衛隊を憲法的に統制するためには、自衛隊の組織編制や任務、指揮権の所在等の基本原則を憲法9条そのものに書き込むことである。

その際、「自衛軍」と言おうが、「国防軍」と言おうが、自衛隊を「軍」にすり替える必要はない。日本の自衛隊は、憲法と国際政治の妥協の結果生まれた苦肉の産物ではあるが、今となっては、「軍を保有しないが、非武装でもない」という国防における「第三の道」として十分機能してきている。

そうした自衛隊のポジティブな側面を無視し、自衛隊が憲法の枠外でなし崩しに準軍隊化してきた現実を逆手にとって正式に軍隊化しようというのは便乗的再軍備にほかならず、周辺諸国を刺激し、かえって国防上不穏な情勢を作り出すであろう。

自衛隊は準軍隊化してきたとはいえ、海外での武力行使にはなお慎重であり、また軍の最大特質である軍法と軍法会議という軍事司法の制度を持たない点でなお真の「軍隊」ではないし、自衛官も一般市民法が適用される点で「軍人」ではないのである。こうした自衛隊と軍隊の重要な相違点を無視した「自衛隊=事実上の軍隊論」は大衆を惑わすデマゴギーである。

残念ながら、こうした主張を「国防軍」提案への対抗軸として明確に打ち出す政党・候補者は、筆者の知る限り皆無である。これでは結局、自衛隊違憲論や単純な9条護持論を唱える小政党に乗れない多数派有権者は適切な選択肢を与えられないまま、「国防軍」を受け入れざるを得なくなりかねない。

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マルクス/レーニン小伝(連載第39回)

2012-12-07 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第2章 革命家への道

(2)最初の政治活動

労働者階級解放闘争同盟
 レーニンが初めて本格的な政治活動と呼び得るものを開始したのは、後にレーニンのボリシェヴィキ派と対立するメンシェヴィキ派の指導者となるユーリー・マルトフ(本名ツェデルバウム)の率いるグループと合体して1895年に結成した労働者階級解放闘争同盟(以下、「闘争同盟」と略す)の活動であった。
 その発端となったのは、同年初め、ペテルブルクのほか四都市のマルクス主義者の代表が集まりマルクス主義運動団体の統一について協議したことであった。その際、ロシア・マルクス主義第一世代の大御所プレハーノフが結成した労働解放団のメンバーに意見を求めるため、メンバーが亡命中のスイスに赴くことになった。労働解放団とは、プレハーノフがマルクスの没年1883年にいち早く結成したロシアにおけるマルクス主義団体の先駆けであった。
 レーニンは95年5月、ペテルブルクの組織代表としてスイスにプレハーノフらを訪問した。外国留学を熱望していた彼にとっては、これが念願の初の外国旅行となった。
 プレハーノフらとの面談では、ロシアにもマルクス主義政党を設立する必要性があるという総論では意見が一致したものの、当時いくつもの小グループに分かれていたロシア国内のマルクス主義運動はまとまりが悪く、帰国後にレーニンらが結成した闘争同盟も政党というには程遠いものであった。
 旧ソ連の公式伝記によると、この団体はレーニンが結成したマルクス主義革命政党の前身とされている。後のボリシェヴィキとメンシェヴキの両指導者がそろい踏みしたからそう言うのであろうが、闘争同盟の実態は政党というよりも労働運動の支援団体に近いものであった。実際、この団体はある労働争議を支援して勝利を収めさせている。

逮捕と流刑・結婚
 闘争同盟はしかし、長続きしなかった。1895年12月、レーニンを含むメンバーの大半が帝政ロシア当局に一斉検挙されたのだ。帝政ロシアの政治反動は、前年即位したばかりの新帝ニコライ2世―23年後、レーニン政権によって銃殺され、最後の皇帝となる運命にあった―の下でも不変であった。
 レーニンは1年以上も未決勾留された末、97年1月、3年の流刑判決を受けてシベリア送りとなった。レーニンに続いて逮捕されていた恋人クループスカヤも翌年、同じく3年の流刑判決を受けたが、レーニンとの結婚を条件に流刑地の変更を許可され、レーニンのもとへ合流、98年7月に二人は結婚した。流刑地での新婚生活であった。
 しかし、二人には政治犯としての名誉ある処遇が与えられ、国から支給される生活費で十分充足した生活を送ることができ、レーニンはここで初の大著『ロシアにおける資本主義の発達』を書き上げたほどであった。
 この点、いわゆる空想的社会主義の思想を奉じるグループで活動して死刑判決を受けた後、恩赦減刑されて1850年代のシベリアで4年間の流刑生活を送った文豪ドストエフスキーの悲惨な流刑監獄体験とは大きな違いがあった。
 後にこの時の体験に基づいて代表作『死の家の記録』を書いたドストエフスキーは、監獄でロシア民衆の強靭な土俗性に触れたことで、ロシア文化の基層的な土壌を重視する保守思想へ転回を遂げ、かえって西欧的な進歩思想・革命思想とは対決するようになったのだった。レーニンの流刑は監獄でなく一般住宅への賄い付き入居という厚遇であったから、ドストエフスキーのような体験はあり得なかった。
 こうした恵まれたシベリア流刑中にレーニンが書き上げた前記著作はナロードニキ理論に反対し、ロシアにおける資本主義の発達可能性を論証する集大成の意味を持つものであったが、注目されるのは、その中でロシアの農村問題を改めて詳しく取り上げ、当時のロシア農民層が少数の農村ブルジョワジー(富農)と多数の農村プロレタリアート(貧農)とに階級分裂しつつあることを示したことである。これは、後に彼が貧農との同盟を強調するうえでの伏線となるであろう。

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マルクス/レーニン小伝(連載第38回)

2012-12-06 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 ウラジーミル・レーニン

第2章 革命家への道

言っておかねばならないが、彼が1894年頃の労働者、それも未熟練労働者に、まだ十分に成長してもいない労働者に、こんな学問的な厚い書物をいきなり持ち込んで科学的な大著の説明をしようというのだから、可笑しく思われるかもしれない。
―妻ナジェージダ・クループスカヤ


(1)ペテルブルクへ

サマラの倦怠
 弁護士となったレーニンは1892年、サマラ市内で弁護士活動を開始した。とはいえ、地主稼業と同様、金を稼ぐことには熱意と才覚が乏しかったようで、新人弁護士レーニンのもとに客は集まらなかった。
 しかし、彼はあまり気にするふうでもなく、むしろ閑を利用してマルクス主義研究会を組織し、マルクス理論の研究を本格的に始めたのだった。おそらく彼がマルクス主義者としての自己認識を持ったのは、この時期であろう。
 一方で、彼は前に述べた短期の農場経営以来関心を深めていたロシア農村に関する実証的な研究にも着手し、ナロードニキ系運動とコンタクトを取ることもした。
 このようにサマラ時代は革命家レーニンにとって、パン種の発酵期のような時期であったと言える。ただ、当時のサマラはヴォルガ河流域の産業都市として発展しつつあったとはいえ、やはり地方都市であり、司法試験受験時に初めて帝都ペテルブルクを体験していた彼にはいささか退屈なのであった。
 こうした点で、レーニンは「民衆の中へ」を合言葉に農村に住み込んで活動したかつてのナロードニキ系運動家たちとは性格を異にし、やはり都市労働者の団結に重点を置くマルクス主義系の運動家であった。彼は93年8月にはサマラを去り、ペテルブルクへ移っていった。レーニン23歳の時である。

マルクス主義研究会での活動
 ペテルブルクへ出たレーニンは、もはや弁護士活動はそっちのけで、首都のマルクス主義研究グループとコンタクトを取り、さっそく活動を始めた。地方から突然現れたこの青年法律家はすでにマルクス理論を我が物としており、首都のマルクス主義者たちからもたちまち一目置かれる存在となった。
 一方で、彼は労働者サークルにも出かけて『資本論』の講読会を開くかたわら、労働者の労働条件や生活意識などを聞き取り調査する実証的な研究も始めた。彼が後に「労働者は自力では組合的意識しか作り上げることができない」と定言的に断言するに至ったのは、この時の体験によるものではないかとも思われる。
 この時期のレーニンに関して重要なのは、デビュー作とも言える論文「市場問題について」を執筆したことである。これはペテルブルクへ出た直後の93年秋にマルクス主義研究会で行った発表のベースになったもので、その趣旨はナロードニキ経済理論との対決にあった。
 ナロードニキは資本主義を飛び越える独自の農民社会主義論を主唱するに当たって、従来「ロシアにおける資本主義は農民大衆を没落させ、国内市場が縮小する一方で、ロシアのような後発国が海外市場に割り込むことは不可能であるから、ロシアにおいて資本主義が高度に発達する余地はない」という理由づけを与えていたからである。
 これに対して、レーニンは、マルクスの『資本論』第2巻第3編「社会的総資本の再生産と流通」で展開された再生産表式論に依拠しながらナロードニキ理論に反証を加え、独立生産者の没落と賃金労働者への転化はかえって国内市場を整備・拡大するものであることを論証した。
 この論文を通じて、レーニンはナロードニキと対置させる形で、マルクス主義者としての自己を鮮明に打ち出したものと言える。この路線は6年後に完成する大著『ロシアにおける資本主義の発達』に結実する。

将来の妻クループスカヤ
 レーニンは1894年、ペテルブルクの労働者サークルで、やがて妻となる女性ナジェージダ・コンスタンティノヴナ・クループスカヤと知り合い、交際を始めた。
 彼女は貴族出身のロシア陸軍軍人の父と下級貴族出身の母との間にロシア帝国領ポーランドで生まれた。父はポーランド勤務中、反露活動に関与した疑いをかけられ軍を追われ、一時は工場労働者となった。母は高い女子教育を受けた教養人で、クループスカヤ自身も女子教育を受けて教員となり、レーニンと知り合った当時は、夜間学校の教師をしながらマルクス主義研究会に参加するなど、マルクス主義者としての道を歩む青年女子の一人であった。
 4年ほどの交際の後、共にシベリア流刑中、レーニンと結婚したクループスカヤは夫より1歳年長であった。そして良き伴侶同志として夫と苦難を共にし合った点では、マルクスの妻イェニーと通ずるところがある。
 ただ、レーニンとクループスカヤの間にはマルクスとイェニーの間に見られたような古典的ロマンスの関係はもはや見られなかった。二人の関係は驚くほど今日的な交際関係と、その結果としてのパートナーシップ的な夫婦関係の性格を持っていた。二人は子どもを持たないDINKSの走りでもあった。そうした点では、マルクス夫妻よりも、事実婚の関係を保ち、子どもも持たなかったエンゲルス夫妻のほうに近かったと言えるかもしれない。
 クループスカヤは夫と死別した後、史料的価値の高い回想録を公刊している。

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