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近代革命の社会力学(連載補遺34)

2022-10-18 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ四 モンゴル再独立‐社会主義革命

(3)人民党の結成から再独立革命へ
 モンゴルにおける1911年の独立革命と1921年の再独立革命は、いずれも独立革命でありながら、その担い手を大きく異にしていることが注目される。すなわち、最初の独立革命は主として伝統的な外モンゴル貴族層が担ったの対して、二度目の独立革命では社会主義革命家が担い手として登場してきた。
 このように、せいぜい10年という時間差で、これほど担い手を大きく替えた革命が継起することは稀である。このような変化が生じたのは、二つの革命を隔てる10年間にモンゴル社会が大きく変貌したことを示している。
 外モンゴルでは長く封建的な遊牧貴族社会が続き、清末の内モンゴルでの強制的近代化政策の影響も限られていたが、1911年の外モンゴル独立革命後は、後ろ盾のロシアを介して近代的な思想や運動の急速な流入が起きた。
 中でも、ロシア革命を担ったボリシェヴィキの影響は明瞭であった。そうした中、1919年から20年にかけて、領事の丘と東フレーという二つの革命的秘密結社が結成された。いずれも結集したのは公務員や兵士、教師など様々な近代職を経験した平民出身の青年たちであった。
 二つのグループのうち、領事の丘グループの方が急進的でボリシェヴィキに近く、東フレーグループは民族主義に傾斜しているという差異があり、当初両者には接点がなかったが、両者をつないだのはソ連であった。
 折しも当時、日本のシベリア出兵に対抗するべくソ連が極東に立てた緩衝国家・極東共和国がモンゴルの革命グループをまとめる仲介役を果たすことになった。その結果、1921年3月、上掲の両グループがキャフタにて合同し、モンゴル人民党が結党された。
 このようにソ連が辺境地モンゴルの革命支援に積極的であったのは、ロシア内戦において白軍最後の砦となっていたウンゲルン軍が外モンゴルを占領しており、これを壊滅させることが内戦終結の最後の課題となっていたこともあったであろう。
 一方、モンゴル人民党にとっても、圧政を敷くウンゲルン軍を排除することが完全な独立獲得の条件であったため、ソ連赤軍の支援を必要としており、両者の利害が一致した。こうして、人民党の軍事部門である人民義勇軍とソ連赤軍の共闘関係により、1921年7月にはウンゲルン軍を破り―ウンゲルンは赤軍に拘束後、即決処刑―、首都を制圧した。
 これによって外モンゴルの再独立が成り、さしあたりボグド・ハーンを戴く君主制が維持されたが、1911年革命とは異なり、新政権の中心は人民党にあり、ボグド・ハーンは名目的な君主とされたので、1921年再独立革命は将来の共和制移行を見込んだある種の立憲革命と見ることができる。


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