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近代革命の社会力学(連載第99回)

2020-04-29 | 〆近代革命の社会力学

十四 ポルトガル共和革命:1910年10月革命

(5)第一共和政の崩壊過程
 第一次世界大戦への参戦は、発足して間もないポルトガル第一共和政にとって、高い代償を支払わせることとなる。戦費調達は国家財政を疲弊させたうえ、国民には徴兵の負担がのしかかり、兵士を送り出す農村の荒廃、凶作が重なり、国民生活は窮乏した。特に農村では、暴動が相次ぐ。
 こうした社会不安は民主党内閣への不満を高め、その機に乗じた少壮軍人シドニオ・パイシュ陸軍少佐が1917年、クーデターで政権を奪取した。パイシュは革命以来雌伏していた王党派から強い支持を集めたばかりか、民主党に反発する労働組合など、翼賛的な支持基盤のもとに、翌年1918年に初の直接選挙による大統領に就任した。
 しかし、これは民主化の進展というより、全体主義ポピュリズムの動きであり、後のファシズムの予行演習のようなものであった。パイシュ新大統領は、選挙で得た正統性を旗印に権威主義独裁政治を展開し、「国王大統領」の異名を取った。
 しかし、このような政治反動には革命のバネが働き、軍内部の反乱を機に、全国的に反政府行動が拡大する中、18年末、パイシュは一人の左派活動家の手によりあっけなく暗殺された。明けて19年1月、王党派が南北で反乱を起こし、王政復古宣言を行うが、こうした復古反動にも革命のバネが働き、反乱は短期で鎮圧された。
 かくして民主党内閣が復活するのであるが、パイシュ政権は短命に終わりながら、二つの点で第一共和政の終わりの始まりを画していた。一つは、革命で退けられていたカトリックの復権であり、もう一つは軍人、広くは軍部の政治介入である。後者は、民主党自身が権力基盤強化のため、軍人に依存したことで、助長された面もある。
 さらに、王党派の復権は成らなかったとはいえ、パイシュ政権以降、ポルトガルの政治座標軸が保守・右傾化したことは否めず、1919年10月には共和党派生政党のうち民主党と競合的な鼎立関係を形成していた改進党と統一党が合併し、共和主義保守政党としての自由党が結党された。
 こうした中、第一次世界大戦終結後の1920年代は、右派軍人による反乱、クーデターが相次ぐことになった。幾度かの失敗の後、1926年5月、大戦の英雄でもあるマヌエル・ゴメシュ・ダ・コスタ将軍を担いだ軍事クーデターが成功し、第一共和政は崩壊したのであった。
 このクーデターは第一共和政末期の混乱に嫌気がさしていた左派をさえ含めた国民各層から支持を受け、反対行動は起きなかった。軍政内部の権力闘争から7月には第二次クーデターにより、アントニオ・オスカル・カルモナ将軍が政権を掌握したが、大勢に変わりはなかった。
 軍事政権大統領に就任したカルモナが財政再建のため起用したのが、経済学者出身のアントニオ・サラザールであったが、彼は単にテクノクラートのお雇い大臣にとどまらず、首相就任の翌年、1933年からカトリック保守主義に基づく独自のファシズム思想から「エシュタド・ノヴォ」(新国家)の樹立を宣言し、病気で罷免された68年まで首相の座を独占して権威主義独裁体制を率いることになる(その特徴については、拙稿参照)。
 こうして、1910年共和革命によって成立した第一共和政は民主的共和体制を確立することに失敗した結果、軍部の台頭を許し、最終的にファシズム体制に転化していったと言える。その契機となった第一次世界大戦は、同じ連合国陣営に付いたロシアの場合とは逆に、革命を反転・反動化させる触媒として機能した。


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