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近代革命の社会力学(連載第54回)

2019-12-24 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

〈6‐3〉共和革命から反革命へ
 フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の戴冠拒否以降、立憲的な統一ドイツへの礎として期待されていたフランクフルト国民議会が頓挫すると、各領邦当局による反革命の動きが予見されたため、革命派は、憲法擁護を旗印として改めて革命のテコ入れとして第二波を起動しようとした。
 この革命第二波の局面は武力衝突に発展したため、「憲法戦役」とも称されるが、革命のプロセスとしては、当時のドイツ革命派の中では最も急進的だった共和主義者が主導した共和革命の段階と見ることができる。
 この第二波は各地で同時多発的に起きたが、先行したのはザクセンであった。ザクセンは、フランクフルト議会が発議した統一ドイツ憲法案を不承認とした反革命的な領邦の一つである。これに抗議する革命派が首都ドレスデンにて1849年5月3日に蜂起し、臨時政府の樹立を宣言した。
 ドレスデン蜂起の渦中、5月6日にはプロイセンのラインラント地方に属する工業都市エルバ―フェルトにて同様の革命的蜂起があった。ラインラントはプロイセンにおける産業革命の中心地として勃興中の地方であったが、それだけに近代的な労働者階級の形成も進んでいたことが、革命的蜂起の土台となった。
 エルバ―フェルト蜂起はすぐにラインラント地方の他の都市にも波及したが、最も組織化されていたのは、エルバ―フェルト蜂起であった。革命政府の樹立は宣言されなかったが、18世紀フランス革命にならって公安委員会が組織され、革命軍も結成されるなど、本格的な革命への動きが見られた。
 エルバ―フェルト蜂起は続いて、バーデンにも飛び火した。バーデンは前年の諸邦レベルの革命での先駆けとなった場所であるが、改めてこの地で革命の第二波が起こされたことになる。
 バーデンでは軍の一部が革命を支持したことから、時の大公レオポルトは亡命に追い込まれ、6月1日には革命派が共和国の樹立を宣言、臨時政府が設置されるに至った。一連のドイツにおける革命で君主が亡命したのは、バーデンだけである。
 バーデン革命はライン河を隔てて当時バイエルン領のプファルツに連動し、ここでも臨時政府が樹立された。こうして領邦の境界を越えてバーデン‐プファルツ革命連合が形成された。これを核に革命軍を各地に進軍させたうえ、フランクフルト国民議会を再起動させ、全ドイツ革命を成功させるという壮大な計画が立てられた。
 しかし、こうした革命第二波は結局のところ、成功しなかった。ザクセンのドレスデン蜂起はわずか6日にして当局によって鎮圧されたほか、ラインラント地方の革命もその主導勢力が中産階級であったため、革命の急進化を恐れて自ら活動を自粛するありさまであった。
 最も成功見込みがあったのは、バーデン‐プファルツ革命であり、ここでは最大時3万人に上る革命軍が組織されたが、それをもってしてもドイツ諸邦最強の軍隊を擁するプロイセンによる反革命反動を封じるだけの対抗力を持たなかった。革命政府は二月革命後のフランス第二共和国に軍事支援を求めたが、発足したばかりの不安定な共和国政府にその余裕はなかった。
 一方、プロイセン領内ではすでにフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が反転攻勢に出て、1848年末には保守的な欽定憲法を制定し、革命の火消しを済ませており、亡命したバーデン大公の救援要請を受け、革命鎮圧に着手していた。その結果、プロイセン軍は、1849年7月までに革命軍を打ち破った。
 前月には、議員の引き上げが続き、残部議会として形骸していたフランクフルト国民議会も、領邦国家の一つであるヴュルテンベルクの軍隊によって解散させられており、バーデン‐プファルツ革命の挫折をもって第二次欧州革命の一環としてのドイツにおける革命は終息した。
 中世以来の封建的な領邦国家の力が維持されていた19世紀半ばという時期に、統一ドイツの形成を一気に目指す共和革命という目標は時期尚早に過ぎ、むしろ軍事的に最強のプロイセンを頼った領邦国家の凝集性を高めることになり、これがおよそ20年後、プロイセン主導での統一ドイツ帝国の樹立を促進したのである。


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