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近代革命の社会力学(連載第404回)

2022-03-31 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(3)バルト三国独立革命

〈3‐1〉ペレストロイカと蠕動
 ソ連邦解体革命の端緒となったのは、エストニア、ラトビア、リトアニアのいわゆるバルト三国の独立革命であった。この三国はソ連邦を構成した15の共和国中でも連邦編入の経緯に最も大きな瑕疵があったことから、住民の間には抑圧された怨嗟の感情が鬱積しており、元来、ソ連邦のアキレス腱と言える地域であった。
 1917年ロシア革命を機に、その翌年、いったんはそろって帝政ロシアから独立を果たしたバルト三国がソ連邦に編入されたのは、第二次大戦初期の1939年にナチスドイツとの間で締結された相互不可侵条約に隠された秘密議定書による勢力圏分割の密約が契機であった。
 これにより形式上はバルト三国とソ連の「相互援助条約」に基づいて平和裏にソ連軍の駐留が認められたが、1940年には軍事的な圧力によってソ連に併合され、構成共和国の一つとして主権を没収されることになった。
 しかし、翌年には不可侵条約を破ってソ連領へ侵攻したナチスドイツに占領されたが、ナチスドイツの敗戦後に改めてソ連の占領を受け、以後はソ連邦構成共和国として確定された。そのため、バルト三国もソ連共産党の指導下に、三国の共和国共産党による地方的統治が強制され、反ソ派は追放または弾圧された。
 このような閉塞状況の転機となったのは、ゴルバチョフ新指導部によるペレストロイカの展開であった。もっとも、ペレストロイカ自体はあくまでも体制内改革であり、バルト三国の独立を容認する趣旨を含まなかったが、思想・言論統制の緩和はバルト三国の民族主義を解凍し、独立運動の蠕動を促したことは確かである。

〈3‐2〉三国独立運動の始動
 バルト三国における独立運動の始動はそれぞれに固有であるが、直接に連携することなしにほぼ同時発生した点で、そこには集団的無意識の協働関係という興味深い集団力学が作用していた。
 先導したのは、三国のうち人口では最小のエストニアであった。エストニアでは1970年代から独立回復運動が立ち上がっており、72年には国際連合に独立回復を訴える書簡が送られるなど、公然たる民族運動の先駆が見られたが、当時これらの運動は保安機関によって厳しく弾圧された。
 このようにエストニアが先駆的であったのは、元来、民族的にフィンランドと近く、西側に属しながら隣接するソ連との善隣関係を維持しつつ(フィンランド化)、福祉国家政策によって高い生活水準を達成していたフィンランドとの水面下での結びつきから、エストニアでは早くからソ連体制への異論が醸成されていたためである。
 一方、リトアニアとラトビアではチェルノブイリ原発事故の後、原発の新設を含むソ連の経済開発政策に対抗する環境保護運動が立ち上がり、これがエストニアにも波及し、それぞれに開発計画の見直しを勝ち取るなど、従来のソ連体制ではあり得ないような譲歩を引き出した。
 そうした中、エストニアでは1987年に、如上の秘密議定書の公開を求める市民団体が結成されたのを機に、88年からはソ連邦からの経済的自立を目指す動きが活発化し、ペレストロイカの推進を目的とするエストニア人民戦線の結成が提案された。
 この新たな動きにはリトアニアがすぐに反応し、88年6月にリトアニア改革運動(通称サユディス)が結成されると、同年10月にはエストニアとラトビアでもそれぞれ人民戦線の結成が続いた。
 これらバルト三国の同種新組織は、当初こそペレストロイカへの支持という穏健な目的を掲げていたが、次第に独立運動組織へと転回していく。それを先導するのも、再びエストニアであった。


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