ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

マルクス/レーニン小伝(連載第37回)

2012-11-30 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第1章 人格形成期

(4)弁護士資格取得

農場経営失敗
 父イリヤの死後、ウリヤーノフ一家の長となっていた母マリアは、子どもたちの政治活動には干渉しなかったが、大学を追われ、復学許可の運動も実を結ばなかったレーニンの将来に関してはかなり心配していたようで、彼女は1888年5月、サマラ県アラカエフカ村という所に農場を購入する。
 母は長男アレクサンドルのようにだんだん革命思想に傾いていきそうなウラジーミルに地主の道を示したわけだが、元来外国留学の希望を持っていた彼には満足できない道であった。レーニンは当局に二度留学の許可を申請したが、いずれも却下された。当局はレーニンのような「危険分子」のロシア人青年が外国で反露的活動を組織することを警戒していたものと見られる。
 納得のいかない地主稼業に成功するはずもなく、「地主レーニン」は5か月で挫折した。母もあきらめた模様で、購入した農場は小作人に貸しておいて、一家は10月にはサマラ市内へ転居した。
 しかし、5か月間の農場経営体験はレーニンに農村問題への関心を掻き立てる役割は果たしたと見え、彼は後にサマラで農村の実態調査を集中的に行ったほか、ナロードニキ系の活動家ともコンタクトをとるようになった。こうした経験は、革命家レーニンが労働者と貧農の同盟という独自の労農革命論のアイデアをはぐくむうえでも糧となったと考えられる。この点は、農村体験を持ったことがなかったマルクスとレーニンとを分ける大きな分岐点ともなるのである。

司法試験合格
 復学も留学もかなわず、地主にも納まり切らなかったレーニンがどうにか収入の道を得るために残されていたのは、司法試験に合格して弁護士資格を取得することであった。
 しかし、そのためにも当局の許可を必要とする身であったから、彼はまたしても母の力に頼ることになった。そして母が上京のうえ、文部大臣にまで嘆願した結果、一年後にようやく受験の許可が下りたのである。このように、レーニンの母マリアは長男アレクサンドルの一件以来、子どもたちの救出・復権のために駆け回る猛母であった。レーニンもこの母に何度も助けられたのである。
 さて、受験許可が下りたといっても、大学中退者のレーニンは大学法学部の全科目を独習し直さなければならなかった。ここではしかし、レーニンの「学校秀才」ぶりがフルに発揮される。彼はペテルブルク大学の校外生として受験に臨み、1891年秋、一番の成績で合格を果たしたのだった。こういう詰め込み式猛勉強は、秀才レーニンの得意技であったようだ。当時のロシアでは帝国大学が実施する国家検定試験が即司法試験であったため、これによりレーニンはとりあえず弁護士補の資格を取得することができた。
 この点でも、父から弁護士となることを期待されたマルクスがどうにか大学を卒業はしたものの、中途で法学から哲学の道に逸れ、弁護士資格の代わりに哲学博士号を取得したこととは対照的であった。本質的に学究肌であったマルクスに対して、レーニンはより実務的な人間であったと言えるかもしれない。
 このことは、積極的に党派を形成せず、権力も求めず、無産知識人を貫いたマルクスと、やがて自らの党派を形成し、権力の座に就くレーニンの生き方の決定的な違いにもつながっていくであろう。

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マルクス/レーニン小伝(連載第36回)

2012-11-29 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第1章 人格形成期

(2)兄の刑死

畏兄アレクサンドル
 ウリヤーノフ家の長男アレクサンドルもやはりシンビルスク古典中学校から帝都の名門ペテルブルク大学へ進み、化学と生物学を専攻した成績優秀者で、自然科学者としての将来が嘱望されていた。レーニンはこの4歳年長の兄を深く畏敬し、模範とみなし、妹オリガの回想によると、彼は食べ物に至るまで兄にならっていたほどだという。
 その畏兄アレクサンドルが1887年3月、突然逮捕された。容疑は、農民社会主義を唱導するナロードニキの流れを汲み、すでに1881年3月に時の皇帝アレクサンドル2世を暗殺した“実績”を持つ過激組織「人民の意志」のメンバーとして、皇帝アレクサンドル3世暗殺謀議に加わったというものであった。
 アレクサンドルは実際、大学在学中、レーニンら家族も知らない間に「人民の意志」に加入していた。皇帝暗殺の謀議に加担したことも真実であったようで、アレクサンドルは法廷でも堂々と自己の行為の正当性を主張し、死刑判決を受けた。そして、息子の助命のため奔走していた母マリアが勧めた恩赦の申請もきっぱり拒否した彼は5月、死刑を執行された。逮捕から処刑までわずか2か月足らずというスピード執行には、当局の見せしめの意味が込められていた。
 旧ソ連の公式伝記によると、レーニンは敬慕する兄の処刑に義憤を感じて革命の道を志したとされるが、これは真実とは違うようである。兄が刑死した当時、レーニンはまだ古典中学校最終学年の17歳にすぎなかった。
 しかし、模範としてきた兄の刑死は、その前年の父の死以上にレーニンにとってショックであったはずで、大学進学直前の多感な時期にそうした体験を持ったことは、レーニンの人格形成上少なからぬ影響を及ぼしたことは事実であろう。

(3)逮捕と追放

学生運動への関わり
 レーニンは兄の処刑の翌月、1887年6月にシンビルスク古典中学校を卒業後、同年8月、文豪トルストイの母校でもある近くのカザン大学へ入学する。専攻はマルクスと同じ法学であった。弁護士だった父の意向で法学部へ行かされたマルクスとは異なり、レーニンは自らの意志で法学部を選択したようである。
 しかし、レーニンの大学生活はわずか4か月で突然終わりを告げる。折からロシアの大学では先帝アレクサンドル2世時代のリベラルな改革の成果でもあった大学の自治を否定する84年の新大学令をめぐって、これに反対する運動が広がり、地方のカザン大学にも波及してきていた。この大学令は、暗殺されたアレクサンドル2世を継いだ息子のアレクサンドル3世が導入したものであった。3世は農奴解放を実現したリベラルな父帝とは異なり、反動思想の持ち主で、父帝時代の自由主義的な改革を覆すことに熱中していたのである。
 カザン大学新入生レーニンは87年12月4日に構内で開かれた学生運動の自由を求める集会に参加したが、この集会は大学側の要請で出動した警察によって解散させられ、レーニンも翌日逮捕されると同時に退学処分を申し渡されてしまったのである。彼は2日後に釈放されたものの、当局からカザン市退去命令を受け、母方の親類が住むカザン県コクーシキノ村という僻地に転居を余儀なくされた。
 こうして秀才レーニンは早々と大学を追われたうえ、法的にも追放の身となった。これは同年代のマルクスよりも多難な船出であった。

『資本論』との出会い
 レーニンと『資本論』の出会いについては、旧ソ連の公式伝記によると、兄アレクサンドルが夏季休暇で帰省した際に持ち帰ってレーニンに手渡したのが最初であったとされるが、これも真実とは違うようである。
 むしろ彼が『資本論』と出会ったのは、母の猛烈な運動により88年にカザン市追放命令が解除され、一家で転居したカザン市内で、ある思想サークルに入会したのがきっかけと見られる。そこで『資本論』第1巻に接した早熟な18歳は、たちまちにしてマルクスの虜となったようである。
 姉アンナの回想によると、レーニンはこの時期に早くもマルクス学説の基礎理論とその意義を理解したとされるが、確証はなく、彼が『資本論』を本格的に研究し、自らマルクス主義者となるのは、弁護士資格を取得した後のことと考えられる。
 しかし、帝政ロシアで革命運動と言えば、兄アレクサンドルが参加していたナロードニキ系のものが主流であった時に、レーニンが早くからマルクスの主著に触れたことは、彼をしてナロードニキを経ずに初めからマルクス主義へ到達した最初の世代のロシア人とするうえで大きな契機となったことは、間違いなかろう。
 当時はマルクスの死から5年、エンゲルスもまだ存命中であった。そしてロシアでは後にレーニンの思想上の師となるナロードニキ出身の哲学者ゲオルギー・プレハーノフが一連の著作を通じてマルクス理論の普及を開始していた。そんなロシアの革命思潮・運動における過渡期に、レーニンという人格が形成されつつあったのである。

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似非「緑」か、先駆け「緑」か

2012-11-29 | 時評

嘉田由紀子滋賀県知事が旗揚げした「卒原発」新党が注目されている。脱原発を掲げるメディアや運動の間では日本版緑の党の先駆けとみなされ、救世主扱いとなっているようである。しかし、事が政治に関わる場合は、よほど用心深く見る必要がある。

環境派知事にして環境学者でもある嘉田氏が今年7月に結成されたばかりの緑の党の党首に就くなら自然な流れであるし、一定の期待は持ち得るだろう。しかし、今般の新党には小沢一郎氏のグループや維新の会との合流が取り沙汰されていた減税日本までが合流してきている。

この合流劇の仕掛け人は、結局小沢氏ではないか。言葉は良くないが、本物の緑の党が2013年参院選で本格参入などど暢気に構えている間に(拙稿「遅れてきた緑の党」参照)、嘉田氏はマスコットガールとして小沢グループに「拉致」されてしまったのだ。

嘉田新党は脱原発世論の受け皿をうたうが、原発維持の自民が支持を回復し、原発維持派の急先鋒・石原前都知事を党首に担ぎ込んだ維新の会がブームという情勢下、裁判で無罪となってもなお灰色イメージが払拭できない小沢氏を擁して、どれだけの当選人を出せるだろうか。当選者は“選挙のプロ”小沢氏自身とその子分たちだけとなりかねない。

仮に小沢氏の力で一定以上の当選者を出し得たとしても、選挙対策を通じて小沢支配の党となることは確実である。新党では小沢氏は「無役」になるとアナウンスされているが、影で隠然と影響力を行使するのが氏の得意技であるから、「無役」であることは小沢支配にとって何の障害にもならず、むしろ表に出ない分、いっそう「闇将軍」となりかねない。

「無役」の小沢氏は党運営が自己の意に沿わなければ内部から揺さぶりをかけ、それでも埒が明かなければまた子分を連れて出て行くだろう。まさに小沢氏を選挙対策上迎え入れた民主党の二の舞である。

期待の渦の中ではかき消されそうだが、筆者は嘉田新党を似非緑の党とみなす。似非なら放っておけばよいというわけにいかない。失敗すれば、環境政党全般のイメージダウンとなり、ひいては真正「緑」の障害ともなる。仮に似非「緑」が成功すれば、真正「緑」のお株を奪い、真正「緑」が日本政治に根付くチャンスを失うことになる。

それでも嘉田新党が脱原発のプラットフォームとなれば・・・という一縷の期待もあろう。だが、真正の「脱原発」―遠くない将来の原発全廃―を目指すには、それに合意できる大政党と環境政党が連立しなければ無理である。

現状、二大政党がそれぞれ電力資本と電力労組に支えられている以上、真正の「脱原発」に向かう大政党は存在し得ない。よって「脱原発」を議会政治の枠内で実現することは当面不可能であるというのが、日本の厳しい政治的現実である。

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マルクス/レーニン小伝(連載第35回)

2012-11-23 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 ウラジーミル・レーニン

第1章 人格形成期

彼は兄をとても慕っていました。
―妹マリア・ウリヤーノヴァ


(1)中産階級的出自

混血系中産階級
 本連載のもう一人の主人公ウラジーミル・レーニン(本名ウリヤーノフ)はロシア旧暦で1870年4月10日、父イリヤ・ニコラエヴィチと母マリア・アレクサンドロヴナの第三子として、ヴォルガ河畔の町シンビルスク(現ウリヤーノフスク)に生まれた。
 父イリヤは地元で著名な教育家であり、数学・物理学教師から視学官となり、地域の学校教育の発展に尽力したことで、名誉貴族称号を授号された人であった。
 従来、レーニンの父方祖母がモンゴル系少数民族カルムイク人であったとする説が流布されてきたが、近年の研究でこの説は根拠を欠くことが明らかとなった。ただ、モンゴル系説が出ても不思議はないほど、レーニンと父イリヤの風貌にモンゴル的要素が認められなくもないことからすると、確認できない遠祖の中にモンゴル系の血が入っていた可能性はなお残る。それほどに、中世ロシアがモンゴル帝国の支配を受けたいわゆる「タタールのくびき」の時代は、血統的にもロシア人の中にモンゴル人の血を刻印していたからである。
 ちなみに父方祖父は、解放奴隷出身の仕立屋であった。従って、レーニンの父イリヤの代になって名誉貴族にまで昇格したウリヤーノフ家はアレクサンドル2世による農奴解放の申し子とも言える一族であった。
 一方、母マリア・アレクサンドロヴナはユダヤ系の医師であった父とドイツ人とスウェーデン人の混血であった母の間に生まれ、女性の教育機会が制約されていた時代に、独学で女学校卒業資格と国民学校(小学校)教員免許を取得した勉強家であった。
 このように、レーニンが生まれたウリヤーノフ家は、部分的にユダヤ人の血も引く教育家の混血系中産階級であり、ユダヤ系の法律家一族の出であったマルクスの出自とも少なからず共通点があったと言えるであろう。

自由主義者の父
 ウリヤーノフ家とマルクス家のもう一つの共通点として、父が自由主義的な知識人であったことが認められる。マルクスの父ハインリヒがフランス啓蒙思想の影響を受けた自由主義者であったことは第1部で見たが、レーニンの父イリヤも革命詩人ネクラーソフを愛し、教育者としては体罰反対論を実践する自由主義者であった。
 彼はトゥルゲーネフやドストエフスキーら「40年代人」にとって問題であった高邁な理想に燃えながら現実社会では役に立たない「余計者」としてのインテリゲンチャではなく、理想を教育者として実践する19世紀後半の帝政ロシアでは最も良質なインテリゲンチャの一人であった。
 このような父の薫陶を受け、レーニンを含む三男三女の6人の子どもたちは反骨心の強い人間に育ち、長男アレクサンドルをはじめとして全員が政治運動・革命運動に身を投じることになった。しかも、政治犯として刑死した兄アレクサンドルと、病気で夭折した妹オリガを除いて、姉アンナ、もう一人の妹マリア、弟ドミトリーはいずれもレーニンの革命運動に参加し、終生彼を支えた革命家兄弟姉妹という異例の一家であった。
 とはいえ、レーニンの父もマルクスの父と同様、本質的には体制派の進歩的保守主義者にすぎず、子どもたちが革命思想に感化されることを懸念していたと言われるが、本人も体制からはやや疎んじられていたと見え、25年勤続者の定年延長特典を事実上与えられないまま退職を余儀なくされ、1886年、失意の中で急死した。レーニン15歳の時であった。こうして父を比較的早くに亡くした点でもマルクスと似る。

エリート教育
 レーニンもマルクスと同様、幼少の頃から学才を示し、最年少9歳で地元シンビルスクの古典中学校に進学した。当時のロシアの古典中学校とは大学進学希望者が通過しなければならなかったギリシャ語・ラテン語の古典教育に力点を置くエリート校であって、ちょうどマルクスが最初の教育を受けたドイツのギムナジウムに相当する教育課程と言える。
 そして、レーニンもまたマルクスと同様に成績優秀者であり、1年次から最終8年次まで首席で通し、最年少17歳で卒業した時には金メダルを授与されている。この点、マルクスの場合、ギムナジウム卒業時の成績では意外にも物理が今一歩であったことと比べても、レーニンは傑出した「学校秀才」として人生をスタートした。この事実は、後年の革命家レーニンがマルクスには見られないエリート主義的な革命理論の主唱者となったことと無関係ではないかもしれない。
 ちなみに、レーニンが在学した当時のシンビルスク古典中学校長は、2月革命後に臨時政府首相にのし上がり、やがてレーニンの政敵として10月革命で政権を追われた後、亡命先の米国で客死したロシア革命を象徴するもう一人の人物アレクサンドル・ケレンスキーの父親であったという事実は、シンビルスクというロシアでも辺境の地の進歩的土地柄を象徴する偶然と言える。

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「赤いファシズム」対「ネオ・ファシズム」?

2012-11-17 | 時評

共産党中国の建国者・毛沢東は、建国から7年後1956年の時点で、45年後2001年の中国は「強大な社会主義工業国」になっているだろうと予言した。ただ、1963年の段階では、共産党員が官僚主義・修正主義・教条主義を避けられなければ、中国共産党は修正主義の党に変わり、ファシスト党に変わり、全中国は変色するだろう、とも予言していた。

この予言は、現在、半分くらいは的中しつつあるのではないだろうか。

現在の中国共産党は教条主義を避けられてはいるが、官僚主義は避けられておらず、それにどっぷりと浸かっている。プロレタリア革命を経たはずの国家にそぐわない「二世党員」の増加も目立ち、そうしたいわゆる「太子党」の代表格・習近平氏が党と国家のトップに就くことになった。

修正主義に関しては、共産主義を棚上げして、「社会主義市場経済」の名のもとに事実上資本主義の道を驀進している点で、現行路線の祖であるトウ小平をかつて「走資派」として排除した毛であれば、これを「修正主義」とみなすであろう。

ただ、現存中国共産党をファシスト党と決めつけるのは適切でなかろうが、共産主義的理想が棚上げされ、代わって愛国主義と領土主義が全面に押し出されてきている限りでは、ファッショ化の危険水域に入り始めているようにも見える。

ちなみに、毛は「愛国主義と国際主義の統一」を掲げてもいた。中国共産党の愛国主義は抗日パルチザンを担った歴史から元来、共産主義と並ぶ党のバックボーンであるが、それは決して偏狭な国粋主義ではなく、国際主義を踏まえた愛国主義であった。従ってまた毛は、強国になると予見した21世紀の中国に対しても、傲慢な大国主義的態度を厳に戒めてもいたのだった。

しかし「海洋強国」を謳い、周辺海域での海洋権益を強力に追求する現在の中国式愛国主義は、こうした毛の遺言とは異なる方向に流れているように見える。

一方、日本では、唐突な衆議院解散によって年内総選挙となり、政権が再び自民党に戻る公算が高まっている。そうなれば、党内最右派で、愛国主義・領土主義的主張が際立つ「二世議員」―日本版太子党―安倍晋三氏の首相復帰となることはほぼ確実である。

そのうえ、「第三極」と称する勢力が国会を席巻する可能性も取りざたされる。この勢力は日和見主義者を含む雑多な分子から成るとはいえ、大筋では国家(国粋)主義・権威主義という共通基盤を持つ。あえて言えば、日本型極右勢力であり、その行き着く先は21世紀型のネオ・ファシズムである。

とはいえ、野田首相の不意打ち的な解散決定は、新党が多い「第三極」にとっては準備不足をもたらし、ひとまずその躍進を抑制する効果を持つ可能性は残されている。「中道主義者」を標榜する首相がそうしたことも計算に入れてこの時期の解散を決めたのだとすれば、彼は後世、極右の伸張を抑止した救世主として記憶されることを望んでいるのかもしれない。

しかし、自民党が最右派政権を構成すれば、本質的には親和性のある「第三極」との公式・非公式の連携・協調は大いにあり得るので、日本の政治座標軸がいっそう右に寄る結果自体は変わらないだろう。

そうなると、互いに愛国主義・領土主義で武装した「赤いファシズム」対「ネオ・ファシズム」の中日衝突→武力紛争という構図も杞憂でないことになるかもしれない。両国の一般民衆はそんなことを望んでいないと信ずるし、そうはならないことを願って、表題に?(クエスチョン・マーク)をつけておいたのである。?にとどまらず、表題に×印がつくことを願うばかりである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第34回)

2012-11-15 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(5)正当な再埋葬(続き)

マルクスの「反価値」
 前回見たようなマルクスの「価値」に対して、マルクスの「反価値」、言わばバランスシートの負債に相当するものは何であろうか。
 その答えは、マルクスに反対の論者であれば―誤解・曲解も含めて―ほとんど無数に挙がるのであろうが、ここではマルクスを基本的に受容する立場にあっても看過することのできない重要な点に絞ってみていきたい。
 まず、最も重大な問題は、マルクスが想定する共産主義社会の内実とそこへ至る道筋が抽象的なままに終始したことである。「マルクスは未来社会の青写真を描かなかった」と評されるゆえんである。
 もっとも、前に見たように、マルクスは資本主義からプロレタリアート独裁期を経て低次共産主義社会、そして高次共産主義社会へ至る簡単なスケッチを示してはいた。そして、別のところでは共産主義社会の比較的まとまった定義として、「合理的な共同計画に従って意識的に行動する自由かつ平等な生産者たちの諸協同組合から成る一社会」と総括したこともあった。
 とはいえ、そういう社会を建設するための工程表や設計図をマルクスは残さなかったのも事実である。それは、彼が、先に見たように、空想を排して科学を強調したからである。科学者の役割は現存社会を分析することであって、未来のユートピアを描いてみせることではない。一応そう理由づけることができる。
 しかし、革命という企ては本来、科学よりも建築に近いと言える。革命を企図する以上、設計図を持っていなければ建築技術者たる革命家は仕事にならない。後世のマルクス主義者が置かれた状況は、そういうものであった。いきおい勝手に作った設計図をマルクスのものと称して建物を建てる羽目となった。これではしっかりした建物が立つはずもなく、ソ連をはじめマルクス主義を称した体制は構造計算を誤った欠陥建物のようなものにすぎなかった。
 この設計図なき建築のもととなったマルクスの科学主義は、19世紀後半における自然科学の飛躍的な発展という大状況に対応していることは明らかであるが、自然科学が対象とする自然とは異なり、人間界の制度や慣習を対象とする社会科学では、マルクスも『資本論』第1巻第1版序文で認めていたように、「顕微鏡も化学試薬も役立たない。抽象力がその両方の代わりをしなければならない」。
 そうだとすると、社会科学における「科学」の強調は抽象的法則性の偏重を生じやすく、それは理論の教条化につながる。そこにエンゲルス以降、マルクス理論の教条化が進んだ要因の根があるとみることができる。
 さらに、彼の無類の論争癖と論争相手を完膚なきまでに論破しなければ気が済まない過剰なまでのポレミカルな性格は、実際、彼の手を離れたマルクス主義にも神学的なポレミクスの性格を与えた。マルクス主義にあっては、他のどの思想体系よりも正統/異端(修正主義)をめぐる論争がことさらに激しく繰り広げられ、マルクス主義を標榜する政党・団体の内部では、時に人命の損失を結果する粛清を伴う激烈な党争も茶飯事となった。
 もちろん、そのすべてをマルクスの責めに帰することはできないが、宗教的思惟とは無縁のはずであったマルクス理論が擬似宗教化を免れなかったことは、マルクスその人の論争スタイルと関連があることも否めない。
 さらに、歴史的な観点からみると、19世紀初頭の西欧に生まれ、同世紀末に西欧で没したマルクスは、典型的に19世紀西欧知識人であった。このことをマルクスの「反価値」と呼ぶのは酷かもしれないが、それはマルクスをほとんど必然的に西欧中心主義に導いた。彼の活動舞台はほぼ独仏英を中心とした西欧心臓部に限定されており、歴史研究上「アジア的生産様式」に注目したことを別にすれば、アジア・アフリカは視野に収められていなかった。それゆえ、彼のアジア認識は「ロシアを略奪し、焼け野原にしたモンゴル人は、かれらの生産である牧畜にかなった振る舞いをした」(『経済学批判要綱』序説)というレベルのものにとどまったのである。
 実際のところ、モンゴル人は単なる略奪者ではなく、東西交易の強力な保証人にして、帝政ロシアの成立にも少なからず触媒の役割を果たしたのであるが。しかも、皮肉なことに、牧畜の国モンゴルはロシア10月革命後ほどなくして、世界で二番目にマルクス主義を標榜する社会主義国家として歴史に再登場したのであった。
 こうして、マルクスが19世紀西欧知識人であったことはまた、マルクス理論を生産力第一主義から免れ得ないものにした。マルクスが生きていた時代の西欧では、英国を中心に産業革命が進展し、生産力の著しい発展が見られた。彼はその様子を間近で観察しながら思索し、活動していたのである。
 そのため、彼によると、資本主義が発展していけばいずれ資本主義的生産諸関係それ自体が生産諸力の発展の桎梏となるのに対し、プロレタリア革命を経て高次共産主義社会の段階にまで達すれば、「生産諸力も増大し、協同組合的富のすべての源泉がいっそう溢れるほど涌き出るようにな」るはずだったのである。一般的な反共宣伝のマニュアルにおいては、「共産主義社会では生産力は減退し、社会は貧困化する」とされてきたこととは裏腹に、マルクスの説得法は「共産主義社会でこそ生産力は著しく伸びる」だったのである。
 それゆえに・・・・と短絡すべきではないが、ソ連をはじめマルクス主義を標榜した体制(東側陣営)は、生産力の競争において「西側に追いつき、追い越せ」を合言葉に、ひたすら生産力の増強を追求し、環境的持続可能性には無頓着な政策に終始した結果、西側を上回る自然破壊・公害問題を引き起こしたのである。
 今日でも、マルクス主義者は一般に、かれらの論敵である資本主義的成長論者と並んで、環境問題に関する懐疑論派を形成していることが少なくない。しかし、ソ連邦解体以降、地球環境問題は最重要の国際的関心事項となった。こうした状況の中では、たしかに我々はもはやマルクスに依存することはできないと言わざるを得ない。マルクスは、歴史の中の人なのである。(第1部了)

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マルクス/レーニン小伝(連載第33回)

2012-11-14 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(5)正当な再埋葬

偶像化と全否定の狭間で
 マルクスは人間として1883年に死んだが、その後「復活」し、“モスクワ教皇庁”となったソ連共産党によって偶像化された末に、なおも生き続けた。
 そのソ連共産党によって指導されたソ連邦はスターリンの下で強盛化し、その後は巨大な官僚制と常備軍に支えられた軍事的覇権国家として、米国とのいわゆる冷戦のライバルの立場で、核軍拡競争に明け暮れていく。そして、発達した「社会主義社会」への到達を謳い上げてから14年後の1991年、ソ連邦はあっけなく解体した。それとともに偶像マルクスも死んだ。彼は二度死んだのである。
 ソ連邦解体後は、資本主義の道を歩み直し始めた新生ロシアを含め、マルクス全否定の風潮が世界的規模で広がった。政体の上ではなおソ連型の共産党独裁体制を維持する中国でも、共産党指導下で事実上資本主義の道を行く路線転換を実現し、公式宣伝の場を除いては、もはやマルクスはお呼びでない。
 こうして今や、マルクスの偶像がバラバラに砕け散って、その破片が散乱している状態であるが、ほとんど誰もそれを顧みようともしない有様である。偶像化から全否定へ。これほど極端な扱いを受けた思想家は、古今東西マルクスをおいてほかにないであろう。
 しかし、マルクスを全否定する者も、彼が『資本論』第1巻の中で端的に示した次のような状況が現代的な形をとって地球的規模で生起してきていることは、認めざるを得ない。

「工場制度の巨大な突発的拡張可能性とその世界市場への依存性は、必然的に熱病的な生産とそれに続く市場の過充とを生み出し、市場が収縮すれば麻痺状態が現れる。産業生活は中位の活況、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞という諸時期の一系列に転化する。機械経営が労働者の就業に、従ってまたその生活状態に与える不確実と不安定は、このような産業循環の諸時期の移り変わりに伴う茶飯事となる。繁栄期を除いて、資本家の間では各自が市場で占める部分をめぐって激烈極まりない闘争が荒れ狂う。その領分の大きさは生産物の安さに比例する。そのために、労働力に取って代わる改良された機械や新たな生産方法の使用における競争が生み出されるほかに、どの循環でも労賃を無理矢理に労働力の価値よりも低く押し下げることによって商品を安くしようとする努力がなされる一時点が必ず現れるのである。」

 今まさに不確実と不安定の只中に置かれた我々は何をなすべきか。まずは散乱したままの偶像マルクスの破片を拾い集めて、彼を正当に再埋葬することである。ここでマルクスの正当な再埋葬とは、偶像化と全否定の狭間にあって、マルクスの「価値」と「反価値」とを総決算したうえで、マルクスを正しく乗り超えていくことと定義しておきたい。

マルクスの「価値」
 マルクスは何よりも価値論の理論家であったわけだが、マルクス自身の「価値」とは何であろうか。
 この問いに対する答えは様々であろうが、まず第一に、エンゲルスとともに『共産党宣言』を出した19世紀半ばという早い時期に、資本主義のグローバル化を未来完了的に見通していたことである。その意味で、マルクスはエンゲルスとともに、まさに現代21世紀の出来事の予見者であった。
 一方、主著『資本論』に代表される資本主義の分析を通じて、日常的な意識に上らないような不可視の構造を学理的に析出しようとする方法論を創出した点では、後に人類学の分野で確立された構造主義の先駆者としての価値を持つと言ってよい。
 ただし、すでに指摘したように、彼が資本主義の不可視の構造として析出したと信じた「剰余価値」は学理的なオーバーランによる錯覚であった。けれども、マルクス以降、彼が試みたような資本主義に対する体系的な批判を、マルクスを超えるような仕方で達成し得た者は一人もいないという限りでは、依然として大きな「価値」を保っている。
 さらに共産論の分野では、現実の社会的経済的諸条件を考慮しない―マルクスに言わせれば「空想的」な―共産主義を却下し、共産主義を現実的・科学的なものに練り上げようとした―後述するように、この点は問題含みでもあるが―共産主義の刷新者であった。
 なかでも、「資本主義が発達し切ったところで、共産主義への移行が始まる」という一見逆説的な原則命題は、後世の自称マルクス主義者たちに最も理解されなかった点であるが、このように旧来のものを単純に壊す革命ではなく、旧来のものの胎内に孕まれた新しい要素を解放してやる―言わば「脱構築的」な―革命という考え方は、ポストモダンの脱構築理論の先駆けとしての「価値」を持っていたと読み解くことさえできるように思われる。
 しかし、何と言ってもマルクス最大の「価値」は、在野・無産の知識人を最後まで貫いた彼の生き様そのものにあるのではなかろうか。
 そこには、反動的時代状況という制約もあったが、彼は並みの大学教授が決して及ばない学識を持ちながら大学教授のような安定した地位をあえて求めず、なおかつ自ら政党を組織したり、あるいはそれに加入したりして権力の座を追い求めることもせず、まるで中世の托鉢修道士を思わせるような自発的貧困の中にあって、自らプロレタリアートの頭脳となることを期待した理論を提供し続けたのである。
 こんな独異な生き方をした思想家は古今東西マルクスをおいてほかにないと言ってよく、そういう点での彼の希少価値はこれからも決して失われることはないであろう。

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大学設置利権

2012-11-10 | 時評

10年ほど前、自民党政権の外務大臣時代にお騒がせを演じた田中真紀子氏が、今度は民主党政権の文部科学大臣としてお騒がせを演じてみせた。しかし、前の「指輪紛失騒動」とは異なり、今度の「大学設置不認可」騒動は、社会的に意味ある騒動ではあった。

とはいえ、「大学の乱立防止」といった一般論だけで、具体的な理由を示さずに個別の大学設置の不認可を決定するというやり方は、行政執行における適正手続を無視した恣意的な手法であり、批判を浴びても致し方なかった。

しかし、問題の本質はそこにあるのではない。今回、大臣が1週間も経たずして方針撤回に追い込まれたのは、不認可決定を受けた学校側に訴訟を起こされ敗訴したからではなかった。三つの学校が速やかに徒党を組んで地元及び中央政界に猛烈な働きかけをしたためである。

これは、各産業界が政界に働きかけて自己に不利な行政処分や法案などを撤回ないし修正させるという日本ではお馴染みのやり方と全く同じである。このことは、大学に関してもある種の産業的利権が存在するということを示唆している。

日本の新設大学の多くは、短大や専門学校が大学化したもの―「大学成り」―である。その中には少子化の渦中で定員割れ・経営難に陥っているところも少なくないし、その傾向は今後一層高まるだろう。

さらに、大学の倍々ゲーム的増加で大卒資格の価値下落はさらに加速し、学生の就職難も深刻化する。とりわけ、従来から大学間の価値序列が厳然として存在する日本社会にあって、「大学成り」による新設大学は既存の著名大学に比べ社会的認知度・評価のうえで劣勢であることを考えれば、問題は深刻である。

そんなこともお構いなしに、毎年、大学の新設が続くのは、一部論者が解説してみせるような「競争政策」の結果なのではなく、大学誘致による「経済効果」を狙う地元財界や誘致実績を作りたい地元選出議員をはじめとする政治家らと天下り先の増加を狙う文科省―お馴染み「政官財トライアングル」の教育版―の思惑によると看破されるべきである。

こうした利権的思惑は、面倒で時間のかかる司法手続きによるまでもなく、所管大臣の(それ自体としては不当な)方針を数日で撤回・謝罪へ追い込めるほどの潜勢力を持つことを図らずも示してくれたのが、今回の「騒動」であった。

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マルクス/レーニン小伝(連載第32回)

2012-11-09 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(4)ソ連体制とマルクス(続き)

国家社会主義
 レーニンは経済政策の面では「統制経済から社会主義へ」という構想を抱いており、第一次世界大戦中の総力戦とそれに引き続く内戦の間の統制経済を社会主義体制へ転化させることができると信じたのである。彼はこの信念に基づき、内戦の間、いわゆる「戦時共産主義」と称する統制経済政策を施行し、特に工業生産の国家的集中(国有化)を推進していった。
 しかし、この「戦時共産主義」はその中の最も問題含みのプログラムであった食糧の強制的な割当徴発制が農民層の強い反発を呼び、農民反乱を引き起こしたことから、レーニン政権は内戦終結後、事実上資本主義を復活させる新経済政策(NEP:ネップ)に転換する。
 ただ、これは農民慰撫と経済復興を兼ねた技術的・一時的な政策転換にすぎず、レーニンの真意が生産手段の全般的な国有化にあったことは間違いない。このような国有化政策は、マルクス(及びエンゲルス)も『共産党宣言』の中で提言していたところであるから、この点に関してレーニンはマルクスに忠実であるように見える。
 しかし、レーニンにあっては統制経済と計画経済とが十分に識別されていない。マルクスが想定していたのは、パリ・コミューンの敗因分析に関連づけて言われていたように、「協同組合連合会が共同計画に従って全国的生産を調整し、そのうえでそれをかれら自身の管理下に置」くような計画経済システムであった。つまり、ここでは生産企業である協同組合が連合して自主的に「共同計画」を策定・実施するような体制が予定されているのである。
 ところが、レーニン存命中の1921年に創設され、後継者スターリンの下で本格始動した国家計画委員会(ゴスプラン)は行政機関であり、ここでの「計画」とは官僚の手による国家主導のプランにほかならず、その本質は統制経済である(行政指令経済)。ただ、民間経済を国家が政策的に統制するにとどまらず、一応生産手段の国有化が実現した限りではこれを「社会主義」と呼んでも誤りではなかろうが、それは国家中心の社会主義=国家社会主義である。
 もっとも、マルクスも資本主義社会から共産主義社会へ移行する過渡期の段階―国家論としてはプロレタリアート独裁に相当する―としては、資本を国家にいったんは集中する国家社会主義体制を想定していたと解し得るかもしれない。
 この点、先の77年ソ連憲法前文は当時のソ連社会の発展段階を「発達した社会主義社会」と規定しつつ、それは「共産主義への道における法則にかなった段階である」とも規定していた。しかし、マルクスに「発達した社会主義」と「共産主義」の段階的区別は存在しない。よって、憲法前文の言う「法則」とは、少なくともマルクス自身の立てた法則ではない。
 結局、ソ連では、マルクスにおいてはせいぜい過渡期の段階にすぎない国家社会主義が遷延し、定在化してしまったのだと考えざるを得ない。「共産主義への道」はすでに空文句と化して久しかったのである。
 ちなみにマルクスより2年先に没したロシアの文豪ドストエフスキーは、問題作『地下室の手記』の中で一人称の主人公にこんなことを言わせている。「人間は何かを達成するプロセスは好きなくせに、目的を達成してしまうことはあまり好まないときている」。ソ連体制はマルクスよりも地下室の主人公の「法則」のほうにかなっていたのではなかろうか。

“モスクワ教皇”スターリン
 レーニンが病気のため10月革命のわずか7年後に世を去ると、後を継いだのは晩年のレーニンから「粗暴」と懸念されたグルジア人のスターリン(本名ジュガシビリ)であった。
 スターリンはレーニン存命中から党書記長として台頭していたが、当時の書記長職はせいぜい事務局長といったところで、スターリンは党の実務責任者として「豪腕」を発揮し始めていた。レーニンはスターリンの解任を検討していた形跡があるが、実現しないまま没した。
 スターリンは十分な知的素養を欠く党専従活動家であり、後のソ連社会で支配層を成す党内官僚の第一世代であった。当然マルクス理論に対する彼の理解度はレーニンにも遠く及ばなかった。彼の得意分野は理論闘争よりも権力闘争にあった。その正反対のキャラクターであったライバルのトロツキー(本名ブロンシュテイン)を退けたスターリンはあっという間に党内権力を確立、以後第二次世界大戦をまたいで1953年に死去するまで、マルクスとは似ても似つかない個人崇拝的な独裁体制を保持したのである。
 レーニンと異なり、理論面では何ら独創性も深味もなかったスターリンは、マルクスとレーニンの異質な理論を教条的につなぎ合わせて「マルクス=レーニン主義」なる体制教義を作り上げ、これをマルクス主義の正統/異端を分ける教理問答集に形骸化させた。そのうえで党組織の官僚化を完成させ、ソ連共産党をマルクス主義の教皇庁に仕上げたのである。こうしてスターリンはいよいよ擬似宗教の度を高めたマルクス主義の言わば初代“モスクワ教皇”の座に就いたのだ。
 レーニンとスターリンの関係をめぐっては、「レーニンの正しい理論と路線を粗暴な独裁者スターリンが歪めてしまったためにソ連体制は失敗に終わった」とする理解が根強く残る。こうした理解がどこまで妥当であるのかについては、第2部で改めて検証するとして、マルクスとの関係で言えば、マルクス=レーニン主義なる体制教義はマルクスその人とは全く無関係であると断じてよい。
 実際、本当にマルクスが「復活」してマルクス=レーニン主義に接すれば、それは自らとは何ら関係ないとして、あの「ゴータ綱領批判」のような手厳しい批判論文を書き、自身の名を削除するよう求めたに違いないようなシロモノなのである。
 もっとも、マルクス=レーニン主義とマルクスとの乖離は、すでに概観してきたように、レーニンによるマルクス理論からの離反によって生じていたことの延長ではあるが、それにしてもスターリン治下でのマルクス主義の教理問答化は、後に明るみに出る大量粛清などの組織的人権侵害に象徴される「スターリン主義」までマルクスの責任に帰するような「冤罪」にマルクスを巻き込むことになったのは確かである。
 そういう点で、レーニンの後継者にスターリンという特異な人物が座ったことは、そもそもロシア10月革命がマルクスからの離反者レーニンの指導でマルクスの名において実行されたことに続き、マルクスにとって二重の不幸であった。それではスターリンの代わりにトロツキーが就任していればより良かったのかと言えば決してそうではない。しかし、この問題もそれを論ずるにふさわしい第2部に譲ることにしたい。

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マルクス/レーニン小伝(連載第31回)

2012-11-08 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(4)ソ連体制とマルクス

共産党独裁体制
 レーニンを権力の座に就けたロシア10革命の結果登場したのは、ボリシェヴィキ改めロシア共産党(後にソ連邦共産党と改称)による一党独裁体制という怪物であった。
 この体制がマルクス主義を体制教義としたことで、共産党独裁がマルクスの提唱したプロレタリアート独裁(以下、原則として「プロ独」と略す)の具現化であるかのように錯覚されてきたが、このような錯覚はまさにソ連体制が内外の人々をそう信じ込ませようとした宣伝の結果でもある。
 この点、レーニンがカウツキーを「背教者」呼ばわりするきっかけとなった論争は、レーニンのプロレタリアート独裁論をめぐるものであった。レーニンは当初、10月革命を下支えする原動力となったソヴィエト(労働者‐兵士評議会)への全権集中をもってプロ独とみなしていたが、カウツキーは議会主義者としてこのようなレーニンの所論を非民主的と批判したのである。
 これに対するレーニンの反論はプロ独と民主主義を二律背反的にとらえるのは誤りで、プロ独とはプロレタリアにとって最高の民主主義の形態であるというものであった。
 しかし、ここにすでにマルクス理論からの離反が認められる。たしかにマルクスはパリ・コミューンの性格づけとしてプロ独という概念を導いたので、彼がこれを反民主的と認識していたはずはない。
 とはいえ、前にも指摘したとおり、マルクスにとってプロ独とは資本主義社会から共産主義社会へ至る過渡期の国家形態にすぎず、しかもその「独裁」とは反革命反動に対する防御的独裁であって、積極的な独裁ではなかった。ところが、レーニンの場合、プロ独の過渡的・防御的性格に対する認識が希薄であり、将来における「国家の死滅」―これもすでに指摘したとおり、マルクスは「国家の死滅」ではなく、政治国家から経済国家への転換を説いたのであるが―が抽象的に予示されはするものの、プロ独が積極的な国家形態として把握されているのである。
 こうした把握の仕方が、やがてレーニンとボリシェヴィキの権力掌握後にはソヴィエトの骨抜きとボリシェヴィキ改め共産党の一党独裁という特異な政治体制への転化を結果したのである。この体制が「ソヴィエト連邦」を名乗るようになったのはレッテル詐欺と言うべきもので、ここでの「ソヴィエト」は10月革命時のソヴィエトとは似て非なるものであった。それは共産党の決定を追認するだけの名目的な会議体と化していたのだ。
 さらに言えば、マルクスのプロ独はまさにパリ・コミューンのようなコミューン(自治体)を基礎として、複選制代議機関を通じて中央政府には最小限度の機能だけが残されるような非中央集権型「独裁」であったのであるが、レーニンにはこのような視座は欠落しており、共産党独裁体制はボリシェヴィキの中央集権型組織をそのまま国家体制に平行移動させた巨大な中央集権国家として立ち現れた。
 こうしたマルクス理論とはかけ離れた体制のあり方について、ローザ・ルクセンブルクは端的に「たしかに独裁ではあるが、プロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治屋たちの独裁、つまりブルジョワ的な意味での独裁である」と切り捨てた。また、遠く日本から固唾を呑んでロシア革命の行方を注視していたアナーキスト・大杉栄も「真相はだんだんに知れてきた。労農政府すなわち労働者と農民との政府それ自身が、革命の進行を妨げるもっとも有力な反革命的要素であることすらがわかった」と書き付けたのである。
 このレーニン的な意味におけるプロレタリアート独裁国家は、10月革命から60年後の1977年に制定された新憲法前文によると、「ソヴィエト国家はプロレタリアート独裁の任務を果たし終え、全人民国家となった。全人民の前衛たる共産党の指導的役割が大きくなった。」とマルクスが仰天しかねない地点へ到達したのだった。
 マルクスの場合、プロ独を終了した後のプロレタリアートは「階級としての自分自身の支配を廃止する」。そして、その後直接に共産主義社会へ移行していくのであり、プロ独が終わった後になおも「全人民国家」であるとか、「全人民の前衛たる共産党」などがグズグズと残留する余地はない。
 こうして、ソ連体制はマルクスの名においてマルクスとは無縁の森へ迷い込んでいく。そして、共産党の前衛的指導性を高らかに謳い上げた新憲法の制定からわずか14年後に、ソ連体制は終焉したのである。

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黄昏の超大国

2012-11-08 | 時評

オバマ大統領の再選が決まったアメリカ合衆国の現状は旧ソ連末期の状況に等しい━。こう言えば多々異論もあろう。 しかし、筆者の目にはオバマとソ連最後の指導者となったゴルバチョフとがダブって見える。

ともに体制の危機に、異例の若い年齢で体制内改革派として異例の急浮上を見せて超大国の指導者に就き、揺らぐ体制を立て直すため、「改革」に着手する。だが、より根本的な変革を求める勢力からは「改革」の中途半端さに失望され、体制護持の守旧派からは憎悪すら混じった激しい反撃を受ける。

この点、旧ソ連の国是であった国家社会主義と共産党独裁体制に手を付けたゴルバチョフは守旧派のクーデターを招き、一時失墜したものの、体を張ってクーデターを阻止した急進改革派と市民勢力の手で救い出された。

オバマはアメリカの国是である経済自由主義と「小さな政府」に手を付け、保守派の激しい反発と挑戦を受けたが、今般の再選を賭けた選挙で勝利することによってこれをはね返した。

この先のゴルバチョフとオバマの運命は大きく分かれるだろう。弱体をさらけ出したゴルバチョフは自身を救出した急進改革派によって事実上追放される形で権力の座を降り、ソ連体制解体の幕引きを演じさせられたが、合法的選挙の勝利者となったオバマは追放されないだろう。

しかし、今後も保守派に足を引っ張られる体制内改革者にすぎないオバマも結局のところ、アメリカ合衆国という体制の終末期を演出するだけである。

アメリカ合衆国がソヴィエト連邦のようにもろくもばらばらに解体し去ることはないかもしれない。しかし、2008年世界大不況以降、努力すれば誰もが成功するという“アメリカン・ドリーム”なる神話が崩れ去ったアメリカ社会は、貧富二層―アメリカではほぼ人種の分割線に沿っている―にくっきりと分断されており、すでに「一国二社会」のような分裂を来たしている。

この分裂は、共和/民主という本質的には大差ない二大政党による事実上の分断支配―二党支配体制―という、これまた一つのアメリカ的国是によって、一層助長されていくだろう。

そして、こうした国内の分裂は、国際社会にあっては、中国に代表される新興諸国の台頭やロシアの「復活」という状況の中で、アメリカ合衆国を「唯一の超大国」の座から引き摺り下ろす引力となるであろう。

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マルクス/レーニン小伝(連載第30回)

2012-11-02 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(3)ロシア革命とマルクス(続き)

ドイツ11月革命の挫折
 ここでロシア10月革命と対比しておきたいのが、ロシア革命に引き続く波及現象として翌1918年11月、マルクスの祖国ドイツでも帝政を崩壊させたドイツ11月革命である。帝政が崩壊するまでの経緯はロシア革命(2月革命)と類似するが、その後の展開はロシアの場合とは好対照なものとなった。
 ドイツでは、前述のように一応マルクス主義的綱領を持つドイツ社民党が議会政治の枠内で順調な発展を続け、1912年の総選挙では100を超える議席を獲得して比較第一党の座に就くまでになった。そういう状況の下でのドイツ革命によって成立した臨時政府は社民党政権そのものであった。しかし、この頃の社民党内ではすでにベルンシュタイン流の離脱主義が党内の大勢を制していたため、この臨時政府の施策にはもはやマルクス的なものは何もなかった。
 こうした党の保守化に不服のローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトら党内左派は分裂してドイツ共産党を結成し、革命の一層の進展を求めて街頭闘争に入った。この党の指針はローザの理論に沿っていたが、彼女はレーニンの革命前衛理論に対しては批判的で、党が革命行動を先導するのではなく、労働者大衆のゼネストを通じた自然発生的な革命行動を期待するという消極的な立場をとっていた。
 その点では、マルクスの革命後衛理論に近いとも言えたが、ローザ理論はマルクスが共産主義者に求めた「断固たる推進力」や「洞察力」を軽視し、大衆の自発性への楽観的すぎる信奉に彩られていた限りでは、マルクス理論に対するある種神秘主義的な逸脱を示していた。そのうえ、ローザの場合も社会革命の経済的諸条件に関する認識は十分と言えなかった。
 共産党が肝心の労働者大衆に間にほとんど浸透しない中、社民党右派フリードリヒ・エーベルト率いる臨時政府は共産党に対する武力弾圧に乗り出し、「義勇軍」のような反動的民兵組織をも動員してルクセンブルクやリープクネヒトらを超法規的に処刑する―事実上の虐殺―に至る。
 こうしてドイツ11月革命はマルクス主義政党であるはずの社民党によってプロレタリア革命への進展が暴力的に阻止された末、結局ブルジョワ革命の線で収束した。その結果として、当時としては世界で最も先進的なブルジョワ憲法(ワイマール憲法)を持つ民主共和制(ワイマール体制)が樹立され、初代大統領にエーベルトが就いた。
 けれども、自らの血塗られた手でプロレタリア革命を阻止した社民党はワイマール体制の下、いよいよ離脱主義の度を深め、実質上はプチ・ブルジョワ政党に変質していった。
 こうしてマルクス主義政党社民党の保守化・反共路線によって始まったワイマール体制は、マルクスには思いもよらないナチズムの種子を播き、やがてドイツ国民はその苦い果実を味わうことになるのである。

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マルクス/レーニン小伝(連載第29回)

2012-11-01 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(3)ロシア革命とマルクス

ロシア10月革命の意義
 レーニンの「力への意志」は実際にレーニンを権力の座に導いた。その動因となったのが、あまりに有名な1917年のロシア10月革命であったことは言うを待たない。革命の詳しい経緯については第2部に譲るが、レーニンの指導の下、マルクス主義の名において実行された史上初の革命が果たしてマルクスその人とどう関わるのかをここで先取りして見ておきたい。
 いきなり結論からいけば、全く関係なしと断じて過言でない。すなわちロシア10月革命は徹頭徹尾「レーニンの革命」であった。それはしばしば誤解されてきたようなプロレタリア革命ではなかったのである。
 プロレタリア革命は、マルクスがバクーニン批判の文脈の中で端的に述べているように、「資本主義的生産とともに工業プロレタリアートが少なくとも人民大衆の中で相当な地位を占めるようになった時にはじめて可能」なものである。これに対して下層階級による一揆的な革命を説くバクーニンは、マルクスからすれば「彼は社会革命について全く何もわかっていない。あるのはそれについての政治的空語だけだ。社会革命の経済的諸条件は、彼にとって存在しない」ということになる。
 レーニンとボリシェヴィキの10月革命はもちろんバクーニン的な一揆ではなかったけれども、それは当時のロシアではまだ「工業プロレタリアートが少なくとも人民大衆の中で相当な地位を占める」ようになってはいない状況の下で敢行された「早まった革命」であった。10月革命はマルクスのプロレタリア革命論ではなく、レーニンの労農革命論に基づいていたのである。
 この点では、10月革命に反対したメンシェヴィキのほうがマルクスの理論により忠実であった。ユーリー・マルトフが指導し、マルクスと文通していたザスーリチや後にプレハーノフも参加したメンシェヴィキは、ブルジョワ革命の性格を持った2月革命によって誕生した臨時政府を支持し、まずはブルジョワ革命の完成と資本主義の発達を先行させるべきことを主張した。かれらは、ロシアにはまだプロレタリア革命の条件―マルクスの言う社会革命の経済的諸条件―は整っていないことを正しく認識していたからである。
 10月革命に引き続いて勃発した内戦をすべてレーニンの責任に帰するのは公平でなかろうが、マルクスが目撃したパリ・コミューンもそうであったように、革命後に巨大な反革命反動が襲いかかるのは、遡って革命の条件が熟していなかったことの証しである。
 だが、レーニンの偉大さはパリ・コミューンを教訓としつつ、困難な内戦を乗り切り、自身と党の権力を守り抜いた統治能力の高さにあった。この点では、後にも先にもレーニンに匹敵する革命家はいないであろう―強いて匹敵する者を見出すとすれば、キューバ革命の指導者フィデル・カストロかもしれない―。
 こうして本来はマルクス理論に反するロシア10月革命の成功によって、マルクス主義が初めて国家の体制教義に祭り上げられることになった。マルクスの死からわずか34年。これはナザレのイエスの死からローマ帝国によるキリスト教国教化まで4世紀近くを要したのと比べても圧倒的に早い。しかし実像と大きくずれた形でのマルクスの体制受容は、その偶像化をもたらすはずであった。

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