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近代革命の社会力学(連載第245回)

2021-06-09 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(2)バティスタ独裁への軌跡
 1959年のキューバ革命は、広く見れば、20世紀初頭以降、形式的な「独立」の中での対米従属状況に対する反作用として生じたものであるが、直接的には1950年代のキューバを支配したバティスタ独裁体制に対する青年知識層の反発が動因となっている。
 政権の主であるフルヘンシオ・バティスタという人物は、多くの矛盾を含むこの時代のキューバを象徴する興味深い独裁者であり、彼の軌跡自体が59年革命に至るキューバの社会力学を描出している。
 伝統的なキューバ支配層であるスペイン系白人ではなく、アフリカ系のほか、中国系、先住民系をも含む混血系出自であったバティスタは一兵卒からたたき上げた下士官であり、本来なら政治権力とは無縁のはずであった。そのような彼が一躍政界へ登場したのは、1933年の政変に際してである。
 当時、軍曹だったバティスタは、同志の下士官グループをまとめ、世界恐慌後の経済的・社会的混乱に対処できない当時の白人寡頭政権に対して決起し、学生運動とも連携して政権を打倒した。この1933年の政変は下士官と学生の連携による半革命という性格を持っており、この頃のバティスタには軍人革命家といった風情があった。
 この政変を契機に多くの幹部士官がパージされた軍内でバティスタは参謀総長への下克上的な昇格を果たし、やがては軍部を基盤に大統領を傀儡化するほどの実力者となった。
 この時代のバティスタは共産党(人民社会主義者党)とも連携しており、当時のキューバ政治においては左派座標に位置すると見られていた。実際、バティスタも寄与した1940年の新憲法は、それまでのキューバ史上最も進歩的な内容を備えていた。新憲法の下、彼は1940年の大統領選に勝利し、自ら大統領に就任した。
 しかし、1944年に任期満了で退任した後は一時勢力を失い、アメリカへ事実上亡命していたところ、1948年の上院議員選挙に不在のまま当選、50年に帰国を果たし、52年の大統領選挙に再立候補した。
 しかし、支持が伸び悩む中、業を煮やしたバティスタは、投票日の前に軍の支持を得てクーデターを断行し、自ら大統領に就任して再び政権を手にしたのである。これは革命とは言い難いまさにクーデターそのものであったが、意外にも、アメリカはこのクーデターをあっさり承認したのであった。
 当時のアメリカは、キューバにおける腐敗や貧困といった社会不安要素が共産主義革命を惹起することを懸念しており、クーデターを支持し、日和見主義のバティスタに親米政権を託したほうが国益上得策と打算していた形跡がある。
 このようにアメリカの承認と支持を唯一の政権の正当化根拠とした第二回のバティスタ政権はアメリカの計算どおり、強固な親米・反共政権となったのである。日和見主義の典型とも言える変節であった。
 その結果、バティスタ政権下のキューバはアメリカ資本の草刈り場となったばかりか、アメリカ滞在時代にコネクションを形成し、クーデターの準備金も提供したとされるマフィアの利権場ともなり、表裏両面でアメリカ経済への従属が進行した。
 政治的にも、過去の共産党との連携から一転して、共産主義を排除するべく、検閲を強化したほか、その名も共産主義活動抑圧局なる秘密警察を設置し、残酷な拷問や超法規的処刑などの方法で反体制派を弾圧した。この時期のバティスタ政権によって殺害された犠牲者は最大推計で2万人に上るともされる。
 このようにある種の革命家から反革命独裁者への変節を遂げたバティスタは、同時代のラテンアメリカにしばしば見られた同型の軍事独裁者とは毛色を異にしていた。その体制には、凍結された状態で革命が内包されていたとも言えるのである。


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