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近代革命の社会力学(連載第203回)

2021-02-24 | 〆近代革命の社会力学

三十 中国大陸革命

(2)革命根拠地の建設
 中国では、共和革命に相当する1911年辛亥革命の後、ロシア革命のように引き続いて社会主義革命へ移行するというプロセスを辿ることはなく、軍閥支配の混乱が後続したことは、第十六章でも見たところである。
 そうした混沌とした状況の中から、孫文の後継を自認する国民党の蒋介石が台頭してくる。彼は1924年、コミンテルンの仲介で成立した第一次国共合作の最中、北方軍閥を駆逐する北伐作戦の成功で声望と威信を高めていた。
 蒋は反共主義の職業軍人であり、国共合作体制の中、国民党左派と中国共産党(以下、中共)の発言力が増強されていることに危機感を持っていた。そこで、党内左派と共産党を排除すべく、1927年4月、上海にてクーデターを起こし、南京に国民政府を樹立した。
 この流血の軍事クーデターはよく練られており、蒋の目論見通り、中共は弱体化した。この時期の中共は依然として知識人中心の思想政党の性格が強く、国民党のように武装部門(国民革命軍)も擁していなかったから、国民党の軍事的攻勢には対抗できなかった。
 もっとも、中共も、1927年8月、クーデターに対抗して江西省南昌にて大規模に武装蜂起した。この蜂起は革命的様相を呈したものの、最終的には軍事的に優位な国民党軍に押し返され、撤退を余儀なくされた。
 こうして中共はいったん表舞台から去ることとなるが、そうした閉塞期に台頭してきたのが毛沢東であった。毛は教員出身で、早くからカリスマ的な指導力を発揮していたが、彼が党の主流と異なっていたのは、労働者階級より、当時の中国庶民階級の大多数を占めていた農民階級を軸とする党の組織化を志向したことである。
 毛のこうした志向性は、労農革命を目指したレーニン以上に農民及び農村に基盤を置く主義であり、帝政ロシア時代のナロードニキの思潮に近いものがあり、党内では異端視されたが、実践としては中国共産党の基盤を農村に置くことに成功し、やがてはこれが革命の成功要因ともなるのである。
 毛はまた、共産党を思想政党から革命政党へと変貌させるうえでも重要な役割を果たしているが、そうした党の性格転換の最初の明瞭な表れは、1930年の江西省瑞金を首都とする中華ソヴィエト共和国の樹立である。
 ソヴィエトを標榜するとおり、これはソヴィエト連邦を多分に意識した名乗りであったが、実態は農村に樹立した地方革命政府であった。中華ソヴィエトの樹立は中共が名実ともに革命政党となって実行した初の本格的な革命行動でもあり、19年後の人民共和国の樹立に至る建国革命から遡れば、予行革命とも言うべき段階に相当する。
 しかし、ここで外力の干渉が再び中共の性格を転換する契機となる。1931年、満州事変の勃発を契機に日本軍の攻勢が強まり、日本軍による満州占領という事態を迎えると、中華ソヴィエト共和国も1934年には日本に対して宣戦布告する。これに伴い、中共も単純な革命政党からレジスタンス政党へと転換することになった。
 ただ、このことが国民党の攻勢を阻止する契機にはならず、むしろ国民党は中華ソヴィエト共和国を新たな脅威ととらえ、軍事的な包囲作戦を発動した。五次に及んだ包囲作戦の結果、中共は瑞金を放棄し、1936年までかけて総計1万2500キロの行程を西遷するいわゆる長征に出ることになる。
 この長征の最終到着地は陝西省延安となり、以後、中共は1947年に至るまで延安を根拠地とする。かくして、革命根拠地が瑞金から延安に移された形となり、この延安時代に中共の基盤が確立されていく。


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