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近代革命の社会力学(連載第386回)

2022-02-25 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(4)東ドイツ解体革命

〈4‐4〉「ベルリンの壁」打壊から東ドイツ解体へ
 党内政変によるホーネッカー追い落としの後、成立したクレンツ新指導部が限定的な体制内改革を企てる中でまず着手したことは、長年にわたり厳しく制約されていた国民の海外渡航の自由の解禁であった。しかし、これが体制崩壊の起点となる。
 当初は指導部が目指した限定的な緩和策が批判を呼ぶと、最終的に出国査証発給の大幅な自由化という線で妥協し、速やかな施行が予定されていたところ、1989年11月9日の記者会見に臨んだ当局者が誤って、「東ドイツ国民は直ちにすべての国境通過点から出国できる」旨の声明を発出したことを契機に、国境警備隊も国境を全面開放するに至った。
 このような初歩的な誤発表が生じた要因として、クレンツの党内掌握が不十分でコミュニケーションが取れていなかったことに加え、発表に先立つ同月4日には推定100万人以上が参加したともされる大規模な抗議デモが首都東ベルリンで発生し、党指導部が恐慌を来していたこともあったであろう。
 しかし、誤発表が既成事実化したことで、それまで命がけの難関となってきた「ベルリンの壁」も例外でないと認識され、発表の翌日から一般市民が自主的に壁の破壊を始めた。国境警備隊もこれを阻止せず、やがては当局も正式に撤去作業を担うに至った。
 この誤発表の結果は、体制にとっては致命的な打撃となった。当然にも大量の脱出者が国境に押し寄せ、89年11月中だけで20万人を越える国民が脱出する事態となり、基本的な社会機能さえ停滞するに至った。これは、国外脱出という手段を通じた国民総体よるゼネストに近い抵抗であった。
 これにより実質上東ドイツ体制は終焉したに等しい状況となり、89年12月の憲法改正では社会主義統一党(SED)による支配体制の放棄が明記され、クレンツ書記長以下党指導部は総退陣した。
 その後、SEDはマルクス‐レーニン主義教義を放棄しつつ、民主社会党(PDS)に党名変更、改革派の前SED政治局員で、民主社会党副党首に就いたハンス・モドロウを首班とする政権が発足し、革命は一段落する。
 モドロウ政権は在野民主勢力との円卓会議を通じて、一党支配体制時代の膨大な法令の改廃作業に入り、平和的な体制移行を目指した。その中には、土地の私有を認めるという脱社会主義を象徴する基本的な法改正も含まれていた。
 この時点でのモドロウ政権は、東ドイツの存続を前提として、条約に基づく西ドイツとの国家連合構想を抱いていたが、明けて1990年になると、大衆は統一を強く望み、抗議デモの合言葉も「我々が人民だ(Wir sind das Volk)」から、「我々は一つの民族だ(Wir sind ein Volk)」に変容していた。
 さらに問題だったのは、東ドイツはすでにホーネッカー時代から膨大な対外債務を国家会計の粉飾によって隠蔽していたことが発覚しており、大量出国による労働力流出と合わせ、経済財政面ですでに完全に破産していたことであった。望んでも存続はほぼ不可能な状況にあった。
 そうした事情を見越した西ドイツの保守系キリスト教民主同盟(CDU)のコール政権は1990年3月に予定された東ドイツにおける最初で最後の複数政党制に基づく自由選挙ではキリスト教民主同盟(CDU)を支援して強力な選挙運動を行う一方、自由選挙に不慣れなPDSは苦戦し、CDUの圧勝に終わった。
 興味深いことに、CDUは東ドイツでも外形上の複数政党制の中で支配政党の衛星政党として存続していたため、CDUが政権党にある西ドイツにとってカウンターパートを支援することは容易だったのである。
 反対に、東ドイツでは旧SEDに吸収されていた社会民主党が西ドイツの政権党であったなら、異なる選挙結果になっていた可能性もあろうが、西ドイツ社会民主党はこの時、野党であった。
 東ドイツでも保守系政権が発足したことは東ドイツの解体と東西ドイツ統一のプロセスを早めることとなり、革命から一年もしない1990年10月には統一が成立した。対等合併型でなく、東が西に編入される吸収合併型の統一である。
 こうして、東ドイツは「ベルリンの壁」の打壊をほぼ直接的な契機として、非武装平和革命によって崩壊していった。結局のところ、東ドイツ社会主義体制は「壁」と共にあった冷戦の産物であり、「壁」と運命を共にすべき非人間的な体制であった。


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