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近代革命の社会力学(連載第463回)

2022-07-22 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(5)イエメン革命

〈5‐2〉緩慢な革命過程
 2011年のイエメン革命も、エジプトと同様、チュニジア革命からの直接的な波及事象とみなしてよいものである。こうした自然発生的な民衆革命の常として、どの時点を革命の開始時とみなすかは難しいが、イエメンでは2011年1月18日の首都サナア大学の学生によるデモが端緒と見られる。
 しかし、その後の展開はチュニジアとエジプトとは異なり、収束するまでに一年以上を要する緩慢な経過を辿った。そのような展開となった要因として、サーレハ大統領の政権固執意思が強固であったことに加え、南部の再分離運動や部族対立が複合的に絡み、国家の分裂危機が生じたためである。
 当初、サーレハは2011年2月の段階で2013年の次期大統領選に立候補せず引退することを公約して慰撫を図ったが、これはエジプト革命時にムバーラク大統領が見せたのと同様の延命策であり、こうした術策に対してはエジプトと同様、即時辞職を求める民衆が反発し、かえってデモは拡大した。
 ここまでの展開はエジプトと同様であるが、イエメンでは南部で南イエメンの再分離を求める運動が立ち上がり、南部の最大都市アデンでも反体制デモが誘発され、北部のデモと共振する形でデモが全土に拡大された。
 これに対し、サーレハ側は即時辞職は拒否しつつ、年内の辞職を表明し、譲歩を見せたが、民衆は承服せず、治安部隊との衝突による死傷者が増加した。ここで湾岸協力会議が仲介役として登場するも交渉は進捗せず、調停は失敗したため、主要国首脳会議が介入し、大統領の早期退任と平和的政権移行を声明する国際的関心事にまで至った。
 それでも政権に固執するサーレハの意思は変わらない中、反政府側ではイエメン伝統の部族対立も絡み、2011年6月には大統領府が反政府系部族勢力の武力攻撃を受けて、サーレハ大統領が負傷する事態となったことも、革命過程を一層複雑化した。
 こうして内戦の様相を帯びる中、ここで再び、湾岸協力会議が調停に乗り出し、大統領権限の移譲や訴追免除、年内の退任、挙国一致政府の形成などを盛り込んだ調停案が成立し、ようやく収束に向かった。
 この調停案に基づき、明けて2012年2月に実施された大統領選挙では旧南イエメン軍出身のハーディ副大統領が単一の候補として立候補、当選した。ハーディは南イエメン出身とはいえ、サーレハ政権の内部者であり、革命としては不完全であったが、これによりひとまず革命は収束した。

〈5‐3〉南北再分裂と持続的内戦への転化
 ハーディ政権の発足は、しかし、革命の成功には程遠い新展開を招いた。南部出身のハーディ政権には北部の伝統的なシーア派が反発していたところへ、復権の野望を持つサーレハがシーア派の有力武装勢力アンサール・アッラー(通称フーシ派)と連携したこと―2017年に絶縁した直後、暗殺―が、新展開の動因となる。
 アンサール・アッラーは元来、2004年にサーレハ政権から指導者の殺害を含む大規模な弾圧を受けて以来、軍事化傾向を強め、反サーレハの立場で革命にも一役買ったが、湾岸協力会議やアメリカを後ろ盾とするハーディ新政権とは対立関係に陥り、2014年9月に首都サナアに進軍、翌1月にはハーディ大統領を辞任表明に追い込み、2月に政権を掌握した。
 アンサール・アッラーはイマームの神権統治を理想とするが、当面は最高革命委員会(2016年以降、最高政治評議会)を指導機関とする暫定政権を発足させた。これは半イスラーム革命とも言える事象であり、背後にはシーア派枢軸のイランの支援があると見られている。
 こうした「フーシ革命」に対して、2015年3月以降、ハーディ政権を支持するサウジアラビアを中心とするスンナ派諸国の有志連合が空爆作戦でフーシ政権の殲滅を開始し、内戦が本格化するとともに、民間人の犠牲者も増大していった。
 その後、2015年7月、復権を目指すハーディ派が暫定首都とする南部の中心都市アデンを奪還し―2018年以降、アデンはハーディ派を離脱した南部分離独立派が占領―、北部をフーシ政権が実効支配する状況となった。
 結果として、再びイエメンは南北分裂に陥った。現時点でも大量の国内難民が飢餓に直面する凄惨な内戦が持続するが、サウジアラビアやアラブ首長国連邦、イランなど周辺諸国の利害も絡み、解決の糸口は見えない状況である。その点で、イエメン革命は「アラブの春」の最も無残な失敗例となった。


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