ザ・コミュニスト

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奴隷の世界歴史(連載第13回)

2017-08-29 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

リベリア―解放奴隷の帰還国家
 アメリカの奴隷制廃止運動が南部で行き詰まっていた19世紀前半、アフリカ西海岸に独立国家リベリア(*)が誕生した。ラテン語の「自由」に由来する国名を持つこの国家は、アメリカの解放奴隷の故地入植によって建国された帰還国家であり、アフリカ史上初の共和制国家でもあった。
 その発端となったのは、1847年の建国に遡ること31年、1816年に当時のアメリカ植民協会が企画した解放奴隷のアフリカ帰還運動にあった。その点、英国でも解放奴隷のシエラレオーネへのアフリカ帰還計画が進行していたのと並行している。
 ただし、英国の計画が奴隷制廃止運動の中から生まれたのに対し、アメリカ植民協会は奴隷制所有者もメンバーに多数参加するなど、奴隷制廃止の理念は曖昧で、解放奴隷をアフリカへ「返還」するという発想が強かった点に相違がある。
 この計画は1820年、早速実行に移され、90人近い解放奴隷の移民を乗せた第一回の植民船エリザべス号がニューヨークを出航した。最初に到着した場所はリベリアの隣りのシエラレオーネであったが、慣れない熱帯風土の中でたちまち伝染病が蔓延し、多数が死亡した。
 続いて、翌年には二号船も到着・合流し、生き残りの移民とともにとりあえず初期植民者が出揃う。かれらはシエラレオーネより南の今日のリベリアに向かい、地元部族に半ば脅しで土地を売らせ、最初の植民地ケープメスラドを建設したのである。
 当初の植民地は狭隘な岬にすぎなかったが、リベリア植民地に改称された1824年までに領域を拡張して、後にリベリア共和国の原型となるリベリア植民地が形成された。アメリカからのリベリア植民は、当初アメリカ植民協会主導で行われたが、その後も、メリーランド州をはじめ、州レベルでの植民協会が出来始め、続々と植民地が形成されていく。
 1839年には複数の植民地が統合され、リベリア連合が成立していたが、1847年に至って、リベリア共和国として正式に独立する運びとなった。黒人解放奴隷主体の独璃国家としてはカリブ海のハイチに次ぐ存在である。その点、独立が20世紀後半まで持ち越されたシエラレオーネとは異なる道を歩んだのである。
 新生リベリアは、その建国の経緯からアメリカ憲法を模範とした立憲共和制国家として成立し、20世紀後半まで100年以上にわたり、アフリカの中では相対的に民主的な体制を維持していくのである。
 しかし、その社会の実態は最初の入植者であったアメリカ生まれの解放奴隷の子孫―アメリコ・ライベリアン―が政治経済の支配権を独占し、先住黒人部族を従属下に置くという差別構造に支えられることになった。アメリコ・ライベリアンたちは、白人がアメリカで作り上げたのと同様の社会をリベリアに作ろうとしたのだとも言えるだろう。
 この非対称な社会構造に対する先住部族勢力の歴史的な不満の鬱積が、先住部族を主体とする国軍下士官らが決起した1980年の軍事革命(クーデター)とその後の軍事独裁、凄惨な内戦による国家破綻という惨事を招来するのである。

*正確には「ライベリア」が本来の発音に近いが、ここでは、日本語で慣例化された誤表記を踏襲する。

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奴隷の世界歴史(連載第12回)

2017-08-28 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

アメリカの奴隷制廃止運動
 アメリカでは、最初の植民地形成当時から黒人奴隷制が存在しており、アメリカの形成は奴隷制と不可分には語れない。初代大統領ジョージ・ワシントンをはじめ、アメリカ建国の父たちの多くも奴隷所有者であったし、建国初期の帰化法では帰化条件を「自由白人」に限定していた。
 一方、奴隷制廃止運動は建国に先立って立ち上げられていた。その先陣を切ったのがクエーカー教徒であったことは、英国の場合と同様である。最初の奴隷制廃止運動体は、1775年にペンシルベニア植民地のフィラデルフィアで結成された「不法拘束下自由黒人救援協会」であった。
 この運動は独立戦争中のやむを得ざる中断を経て、1785年、建国初期の進歩的知識人にして、建国の父の一人でもあるベンジャミン・フランクリン―彼も奴隷所有者であったが、改心していた―を会長に迎えて再開された。
 これに前後して、進歩的な北部では州単位での段階的な奴隷制廃止が進行していくが、全面的な廃止に踏み切った最初の州は、1783年のペンシルベニアであった。世紀をまたいで、1804年までには北部の全州で奴隷制は廃止された。
 とはいえ、この「廃止」は廃止法制定前の奴隷に関しては一定年齢に達するまで解放を免除するなど、奴隷主に有利な条件が付されており、完全な奴隷解放は19世紀半ば過ぎのリンカーン大統領による奴隷解放宣言とその後の憲法修正第13条を待つ必要があった。
 さらに、州の内政自治権を最大限尊重する厳格な連邦制を採用する合衆国憲法上、連邦は州に奴隷制廃止を強制することができず、1820年には中西部の連邦未編入領域では奴隷制を認めないという妥協(ミズーリ妥協)が連邦議会によって図られた。
 しかし、これはあくまでも新設される州への規制(奴隷制拡大防止策)にとどまり、国内での州際奴隷取引を禁じていなかったこともあって、主産業である農業分野で奴隷労働力に依存する南部諸州では奴隷制廃止は一向に進まなかった。
 そうした中、1831年、奴隷制護持の拠点とも言えるバージニア州で黒人奴隷ナット・ターナーに率いられた奴隷反乱が発生した。ターナーは読み書きができたが、日食を徴とする半ば神がかった信条から、同志を募って子どもを含む白人の男女60人近くを殺害するというテロ行動に出たのだった。
 この反乱は州当局により短時間で鎮圧され、ターナーは残酷に処刑された。同時に反乱参加者50人以上が処刑され、反乱部外者を含む200人近くの黒人が怒れる白人暴徒によって報復的に殺戮される事態が続いた。
 この事件の後、1830年代には、社会運動家ウィリアム・ロイド・ガリソンを中心に反奴隷制協会が結成され、より理性的・非暴力的なやり方で奴隷の即時解放と全米での奴隷制廃止が目指され、奴隷救援組織が秘密のルートを中継して奴隷の逃亡を支援する運動が開始される。いわゆる「地下鉄道」である。
 この「地下鉄道」で案内役となる「車掌」として活躍した黒人女性にハリエット・タブマンがいる。自身逃亡奴隷として「地下鉄道」で救済された彼女は、90歳を越える生涯を奴隷制廃止/差別撤廃運動に捧げた黒人女性運動家の先駆者として女性史上も傑出した存在である。
 これに対し、南部では1850年、対抗的に逃亡奴隷の返還を義務づける逃亡奴隷法を連邦議会に制定させることに成功したが、奴隷の逃亡先となる北部の廃止州では人身保護法を制定して逃亡奴隷を保護するようになった。こうして、アメリカ合衆国は連邦制構造の中で、奴隷制をめぐり、北部と南部に亀裂が生じていく。

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アメリカン・ファシズム?

2017-08-27 | 時評

筆者は、昨年、トランプの大統領当選直後の拙稿「アメリカン・ファシズムへ?」で次のように書いた。

一般得票数で下回った候補を勝たせてしまうアメリカの古式な間接選挙制度は、・・・・・危うい道を用意してしまったようだ。とはいえ、労働者階級の反動化がファシズムの底流になるという歴史法則どおりの結果ではある。しかし、現時点ではタイトルに?印を入れておくのは、トランプ次期政権がアメリカン・ファシズムの性格をはっきりさせるかどうかはまだ確定しないからである。

現在、トランプ政権は発足からすでに半年を過ぎているが、この間の政権の軌跡を見る限り、政策・政治手法の両面でそのファッショ的性格は濃厚である。特に大統領令の乱発、大統領自身のネット発信による情報操作、支持者を動員した喝采集会といった手法はファシスト特有のものである。大統領の巧妙に煽動的なネット発信に刺激され、白人至上主義やネオナチなどの極右勢力が蠕動し始めてもいる。

そのため、「アメリカン・ファシズムへ?」のクエスチョンマークは外してもよさそうであるが、しかし、政策面では政権に行き詰まりも見える。その要因は、トランプ当選前にものした連載「戦後ファシズム史」最終節の末尾で指摘した「アメリカにおける「自由主義」の牽制力」ということに集約されるだろう。

「アメリカにおける「自由主義」の牽制力」の内実をもう少し分節すれば、一つはアメリカ憲法である。憲法上、アメリカ大統領は法案提出権を持たないから、大統領は自身の政策の立法化に当たっては、議会に要請するしかない。そこで、トランプは議会を迂回できる大統領令を乱発してきたが、それにも限界がある。

そのこととも関連して、トランプ政権が独自の政党を持たず、「偉大なる古き党」(GOP)の異名を持つ伝統的な共和党の枠組みに収まっていることがある。そのため、議会で多数派を握る共和党との協調が避けられないところ、トランプ政権に懐疑的な議会共和党執行部との確執が見られることも政権の足かせとなっている。

しかし、本質的に日和見な議会以上に強力な「「自由主義」の牽制力」は、政権発足後もいまだ続き、今月のヴァージニア州シャーロッツヴィルでの白人至上主義テロ事件後はさらに高まっている反トランプ抗議活動に象徴される民衆の抵抗である。これも、元をただせば憲法上保障された言論の自由に基づく草の根の牽制力である。

この草の根牽制力はことのほか強く、実際、メディアが強調するほど社会の「分断」は進行していないように見える。トランプ政権は人事面でもイデオロギー上の助言者を放出するなど軌道修正を余儀なくされる方向にある。従って、「アメリカン・ファシズム?」のクエスチョンマークを外すのはまだ早計のようである。 

行き詰まりの根本的打開のためには、過去の多くのファシスト政権がしたように憲法改定に走るか、議会共和党に妥協して「共和党右派政権」に収斂されるか、半年を過ぎた政権は岐路に立っている。前者なら「アメリカン・ファシズム?」からクエスチョンマークが消え、後者なら「アメリカン・ファシズム」のタイトル自体が消える。

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民衆会議/世界共同体論(連載第5回)

2017-08-25 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第1章 「真の民主主義」を求めて

(4)民主主義と共産主義
 民衆会議/世界共同体の構想は共産主義を土台として「真の民主主義」を追求するものであるが、このような言明は「共産主義=全体主義=反民主主義」という、現時点でもなお世界的な常識となっている図式的理解に真っ向から抵触するであろう。そうした固定観念の誤りはすでに拙論『共産論』でも指摘しているが、ここで改めて詳しく論及し直すことにしたい。
 このような「常識」の出所は冷戦時代の米国を盟主とした西側の反共宣伝にあり、そこで念頭に置かれていたのは共産党が独裁支配した旧ソ連の体制であった。たしかに、旧ソ連の体制はどう贔屓目に見ても民主的とは言い難かった。
 しかし、これもすでに論じたように、旧ソ連は共産党が支配していても、実際は共産主義体制ではなく、共産主義へ至る「途上」段階にあったことは、旧ソ連自身が憲法前文で明白に自認していたところでもある(拙稿参照)。よって、旧ソ連の体制モデルを共産主義と見立てたうえで、共産主義=非民主的と断ずるのが早計であることは、繰り返し強調しなければならない。
 本来、共産主義は経済体制に関わる概念であるので、そこから直接に政治体制論を抽出することができないことは、資本主義の場合と同様である。従って、理論上は共産主義、資本主義ともに一党独裁制や軍事独裁制とさえ結びつくことが可能である。
 ただ、生産活動の非営利的な共同性を特質とする共産主義が全体主義と親和性を持つと考えられやすいことは、事実である。しかし、それは国家の存在を前提に、国家主導の経済計画を志向した場合のことである。これは、まさに疑似共産主義、すなわち集団主義であった旧ソ連モデルそのものである。
 しかし、生産組織自身による共同計画という、より自由な共産主義体制を構想する場合には、全く違ってくる。この場合には、国家という枠組みを打破しつつ、より民主的な社会運営を可能とする政治制度が要請されるからである。民衆会議/世界共同体構想は、このような「自由な共産主義」という方角から抽出される政治制度である。
 では、そのような政治制度を資本主義と結合させることはできないのか、という疑問もあり得るかもしれない。これも原理的に不可能とまでは言えないが、実際上は無理であろう。
 資本は政治的なパトロンを擁して政策を自己に有利に取り計らわせることで持続性を確保し得るゆえに、パトロン政治集団―政党もしくは政党類似の党派的集団(官僚制や軍部のような公務員集団でも可)―の存在を必要とする。民衆会議/世界共同体はこうしたパトロン政治とは対極にある一般民衆を主人公とする政治制度であるからして、資本主義の上部構造としては有効に機能しないと考えられる。
 そうした意味では、次章以下で詳説していく民衆会議/世界共同体はすぐれて共産主義的な政治制度であると言える。同時に、それは旧ソ連が体現していた「共産党独裁」という偽りの“共産主義”に対するアンチテーゼともなる政治制度でもあるのである。

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民衆会議/世界共同体論(連載第4回)

2017-08-24 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第1章 「真の民主主義」を求めて

(3)国家は民主的ではない
 民主国家と非民主国家という対比がよくなされる。その際も、通常は議会制が存在しているかどうかが最大かつほぼ唯一の指標とされ、一応議会制が存在していれば民主国家として合格点とされている。
 ただ、表面上は議会制がグローバルに普及してきた近時は、合格点のハードルが若干高くなり、議会制が単に存在するだけでなく、それが有効に機能し、定期的な政権交代が可能な状態になっているかどうかという基準が加味され、存在だけの形式的な議会制にとどまっている場合は、欠陥民主主義と評されることもある。
 いずれにせよ、理想的な「民主国家」はあり得るということが、世界的な通念となっていることに変わりはない。しかし、その通念を一度棚上げして、果たして「民主国家」なるものがあり得るかと問うてみたい。言い換えれば、国家が民主的に運営されることはあり得るのかという問いである。
 国家とは、国民を保護するまさに家のようなものであり、実際正常に機能している国家は種々の政策をもって国民を保護していることも、事実である。しかし、国家は保護と引き換えに、国民に国家への服従を求め、義務を課し権利を制限もする。国民が主人公の国民主権を謳う諸国にあっても、国民の実態はいまだ被支配者である。
 そこで、国民が自らの代表者を選ぶ議会制によって国民主権の理念をいくらかでも国家に反映させようというのが、議会制民主主義の構想であるが、実際のところ、その狙いは政党という非公式の政治権力によって妨げられている。選挙の候補者は政党員もしくは政党の推薦を受けた党友的存在に限られ、有権者と呼ばれる一般民衆は政党から提示された選択肢に投票する受け身の存在にすぎない。
 では、議会制によらない民主国家は構想できないか。これについては、従来多くの提案と少数の実践例もあった。ソヴィエト連邦が国名にも冠していたソヴィエト制(会議制)もそうした議会制によらない民主主義の実践例であろうとしたが、党派対立を排するため、非民主的な一党支配制と接合しようとしたため、民主主義としては失敗に終わった。
 とすると、およそ政党を排除することが「民主国家」の秘訣となるのではないかという考え方もできる。たしかに政党の排除は真の民主主義への第一歩であるが、民衆の上にそびえる国家という権力支配の制度そのものを除去しない限り、単純に政党抜きの代表機関を創設したところで、国家を管理する官僚・軍人らの公務員集団が国家運営の実権を握るだけである。
 実際、議会制が有効に機能しているとみなされる「民主国家」にあっても、国家の日常的な管理運営に当たる公務員集団の実権が強まることはあれ、弱まることはなく、議会の役割が程度の差はあれ象徴的なものとなっていることは、必然的な現象である。
 国家は本質的に民を支配する権力体であって、民が主人公となって運営することを予定していない制度なのではないか―。こうして国家という地球人が長く慣れ親しんだ政治制度への未練を断ち切り、「国家は本質的に民主的でない」いう出発点に立った時、真の民主主義が発見されるだろう。

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奴隷の世界歴史(連載補遺)

2017-08-23 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

ラテンアメリカ独立と奴隷制廃止
 スペイン・ポルトガルの支配下にあったラテンアメリカでは両国が持ち込んだ奴隷制度が全般に存在していたが、17世紀、メキシコの独立を先駆的に構想したアイルランド出身の革命家にして奴隷制廃止論者でもあったウィリアム・ランポートは革命蜂起に失敗し、異端審問により処刑された。
 その後、18世紀のフランス革命とその渦中でのハイチの奴隷反乱を契機とするハイチ独立は、当時、主としてスペインの支配下にあったラテンアメリカ諸国にも続々とドミノ的な独立革命の機運をもたらした。
 そうした独立革命の中で、南米では「子宮の自由」という標語のもとに、奴隷の子として出生した者を奴隷身分から解放する制度が普及していった。ただし、ラテンアメリカでは奴隷主である大土地所有者層の抵抗も根強く、その時期やプロセスは国によって相当に異なっていた。 
 「子宮の自由」を最初に実行したのは1811年、独立前のチリであったが、チリでの完全な奴隷制廃止は独立後の1823年であった。チリに続いて、アルゼンチンでも独立前の1813年に「子宮の自由法」が成立したが、完全な奴隷制廃止は1853年の憲法制定まで持ち越された。
 南米独立運動の英雄シモン・ボリバルも奴隷制廃止論者であり、彼が建設に尽力した大コロンビア共和国(今日のコロンビア、エクアドル、ベネズエラ、パナマを包含)では、1819年以降、段階的な奴隷制廃止が実現したが、奴隷主の大土地所有者層の抵抗もあり、完全な実現は大共和国解体後の1850年代まで持ち越された。
 中米では中央アメリカ連邦共和国(今日のグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカを包含)が1824年に、メキシコが1829年に奴隷制を廃止している。
 ただし、当時メキシコ領だったテキサスでは、奴隷制廃止に不満を募らせたアメリカ人入植者らが決起し、1836年にテキサス共和国を分離独立させると奴隷制が復活し、テキサスはアメリカ内戦前の45年に米国に合併され、南部奴隷州の一つとなった。
 以上に対して、スペイン統治が長く続いたプエルトリコでは1873年、キューバでは独立前の1886年、1822年に独自の帝国としてポルトガルから独立したブラジルでは全アメリカ大陸において最後となる帝政最末1888年のいわゆる「黄金法」をもって奴隷制度が廃止されるに至ったのである。

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奴隷の世界歴史(連載第11回)

2017-08-22 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

ハイチ独立―奴隷の革命
 19世紀初頭以来の歴史を持つカリブ海の独立国家ハイチは、イスパニョラ島西部の旧フランス植民地サン‐ドマングが独立して興された国であるが、独立前のサン‐ドマングはサトウキビやコーヒーを主産とするフランスの代表的なプランテーション植民地であり、決して広大ではなかったけれども、最も利潤を上げる海外植民地でもった。
 そのプランテーション労働力として投入されていたのが、アフリカ西海岸から強制連行された黒人奴隷たちだった。ただ、前回も述べたように、フランス植民地の黒人奴隷制は比較的寛大で、個別的な解放奴隷も少なくなく、また白人と混血した自由人ムラートも相当数に上っていた。
 そうした状況下で、自由・人権を掲げたフランス革命が勃発、これに触発される形で、1791年、ハイチの黒人奴隷とムラートが奴隷廃止を求めて蜂起した。その中心に立ったのは、解放奴隷出身のトゥーサン・ルーヴェルチュールであった。
 彼はフランス革命に対抗する反革命派のイギリス・スペインの軍を撃退しつつ、1801年にはイスパニョラ島全島を制圧し、奴隷制を廃止したうえ、自治憲法を制定、自らイスパニョラ島総督に就任して事実上の独立国家を樹立した。
 しかし、これは正式なハイチの独立ではまだなかった。フランス革命政府を乗っ取ったナポレオンが02年には強力な軍を派遣して反撃、ルーヴェルチュールを捕らえて反乱を鎮圧したからである。この苦境を打開したのが、ルーヴェルチュール麾下の有能な部将であったジャン‐ジャック・デサリーヌである。
 彼は03年にはフランス軍を撃退し、翌年04年に正式にハイチ独立を宣言したのである。これは奴隷による独立革命という歴史上も稀有な出来事であり、かつ当時まだ軒並み西洋列強の植民地下にあったラテンアメリカ初の独立国家の誕生という記念すべき出来事でもあった。
 ただ、権力欲の強いデサリーヌは共和制に飽き足らず、敵のナポレオンにならって皇帝に即位、ジャック1世となった。ここから、フランス革命同様の反動化が始まる。この帝政ハイチでは、奴隷制は廃止されたものの、産業基盤のプランテーションを維持するため、解放された奴隷たちの多くはプランテーション労働者に転向させられたのである。
 デサリーヌの統治は民主的とは言えず、白人への憎悪から白人の大量処刑を断行する一方、国の行政・軍事機構を整備するために、知識層のムラートを登用したことから、ムラートの勢力が台頭し、やがてかれらが支配階級としてハイチの政治経済を独占する基礎が作られた。
 デサリーヌへの不満はすぐに高まり、06年、彼は反対勢力の手により暗殺された。その後のハイチは、政治的に共和制と君主制(帝政)の間を揺れ動き、経済的には奴隷制廃止に対するフランスへの多額の賠償金の支払いで経済が崩壊し、一時は奴隷制を復活させるなど、「解放奴隷国家」という特異な誕生経緯ゆえの苦境を何世紀も経験することになるのであった。

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奴隷の世界歴史(連載第10回)

2017-08-21 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

フランス―革命と奴隷制
 フランスにおける最初の奴隷制廃止は14世紀、時のルイ10世の勅令に遡る。そこでは、すべての人間は自由人として生まれると宣言し、フランス王国内での奴隷制の廃止を規定している。
 これは啓蒙思想が現れる数百年も以前における開明的な施策として注目すべきものがある。とはいえ、この勅令は主として農奴制の改革を念頭に置いたもので、その後、帝国化していったフランスの海外植民地やフランスも当事者として関わった奴隷貿易には適用されなかったのである。
 奴隷貿易時代のフランス奴隷制度はルイ14世時代の黒人法によって容認されていた。黒人法は黒人奴隷に対する虐待を禁止するなどある程度「人道的」な規制を伴っていたが、奴隷主の懲罰権や人種間結婚の禁止などを含む差別的な立法であった。
 ただ、フランスでは先のルイ10世勅令の影響も残り、奴隷制の運用は寛容で、個別的な解放奴隷も多かったうえ、人種間結婚の禁止も厳守されなかったため、特にカリブ海の西インド諸島植民地では混血系のムラートが中間層として形成された。
 啓蒙の時代になると、フランスでも奴隷制廃止論が盛んとなり、1788年には英国のトマス・クラークソンの助言の下、初の奴隷制廃止運動団体として「黒人の友協会」が設立された。翌年の革命の後、92年には有色自由人へのフランス市民権の付与を経て、94年に第一共和政ロベスピエール政権下で奴隷制廃止が決定、翌年の憲法にも盛り込まれた。
 このような急展開の背景には、91年、カリブ海の代表的なフランス植民地サン‐ドマング(後のハイチ)における奴隷反乱が影響していた。この反乱は後にハイチの独立という成果に結びつくが、これについては次回改めて見ることにする。
 さて、年代だけを取ると、フランスでの奴隷制廃止は英国より40年近く先駆けたまさに革命的な出来事であったが、ロベスピエールらジャコバン派の失墜とナポレオンの登場によるフランス革命の反動的終息が逆行的な経過をもたらす。
 第一統領に就任したナポレオンは西インド諸島マルティニーク島出身の妻ジョゼフィーヌの一族もそうであった旧奴隷主の支持層からの圧力を受け、1802年、奴隷制の復活を決断したのである。この反動政策への反発は、04年のハイチ独立革命を呼び起こした。
 結局、フランスで最終的に奴隷制が廃止されるのは、ナポレオンの失墜と1830年の七月革命をまたぎ、さらに1848年の二月革命による第二共和政の樹立を待たなければならなかった。

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奴隷の世界歴史(連載第9回)

2017-08-16 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

英国の奴隷制廃止立法
 英国議会における奴隷制廃止立法の動きは、ウィリアム・ウィルバーフォース議員を中心に18世紀末から開始されるが、当初は困難を極めた。奴隷所有者も多く参加していた当時の英国議会では、言わば「奴隷既得権」の壁は厚かったのである。
 1791年における最初の廃止法案は大差で否決された。ウィルバーフォースはその後も粘り強く活動を続けるも、18世紀中に実現することはなかった。転機は19世紀に入ってからである。まずは奴隷制そのものではなく、奴隷貿易の禁止に重点を置く戦術にあえて後退させたことが突破口となり、1807年に奴隷貿易廃止法が成立する。
 この法律により、英帝国全域での奴隷貿易は違法化されたとはいえ、妥協策であるため、違反への罰則は軽く、闇の奴隷貿易は横行し続けるなど、「ザル法」の嫌いは否めなかった。それでも、1808年以降、王室管理地となったシエラレオーネは奴隷貿易取締りの拠点となり、取締り艦隊の摘発により、多くの奴隷が解放されるなど、相応の効果も上げたことは事実である。
 しかし、これは始まりに過ぎず、ウィルバーフォースら奴隷制度廃止派の最終目標は当然ながら奴隷制度そのものの廃止にあった。運動を強化すべく、1823年には従前の奴隷制廃止促進協会が反奴隷制協会に再編された。
 その結果、1824年には07年法の罰則強化が実現し、1833年、ついに奴隷制廃止法が成立した。このような急展開の背景には、1830年、長く野党だった改革主義的なホイッグ党が政権を獲得したことが大きく関わっていたと考えられる。
 もっとも、この33年法は当初、「年季奉公」という形態の抜け道を残していたほか、東インド会社所有領を適用除外としていたが、これらの抜け道も1843年までには順次撤廃された。
 ただ、妥協策として旧奴隷主に対する補償を伴う有償廃止の方式が採られた結果、英国政府は総額で2000万ポンドの補償金を支払うことになった。その一方で、解放奴隷たちは全く補償されることがなかったのである。
 こうした非対称な解決法の道義的・政策的な是非はともかく、議会での討議を通じ、奴隷制廃止を実現させた英国の先例は歴史上も画期的だったと評してよいであろう。以後、英国は39年に反奴隷制協会から英国及び海外反奴隷制協会に再編された国際的な奴隷制廃止運動の拠点となる。

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奴隷の世界歴史(連載第8回)

2017-08-15 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

英国の奴隷制廃止運動
 英国で奴隷制廃止運動の先鞭をつけたのは、17世紀に創設された非英国国教会系のキリスト教宗派クエーカー教徒たちであった。かれらが奴隷制廃止に目覚めたのは、元来クエーカー教では平等主義の教義が強かったためと考えられる。
 これに触発される形で、英国キリスト教主流派である国教会側でも改革的な福音主義の立場から奴隷制廃止に賛同する潮流が生じ、両者が合流する形で、1787年に奴隷貿易廃止促進協会(以下、協会と略す)が設立された。以後、協会が奴隷制廃止運動のセンター機能を果たしていくことになる。
 協会設立の原動力となったのは、当時まだ20代のトマス・クラークソンであった。そのきっかけはケンブリッジ大学の学生時代、ラテン語の論文コンクールで「奴隷制」のテーマを与えられて奴隷制について詳細な研究をしたことにあった。
 彼の論文は賞を取り、英語にも訳されて多方面で反響を呼んだ。協会の設立もその延長上にあり、生涯を奴隷制廃止運動に捧げたクラークソンは おそらく歴史上最初の職業的な人権活動家であったかもしれない。
 クラークソンが協会の理論的支柱だったとすれば、英国議会側で実務を担ったのがウィリアム・ウィルバーフォースであった。クラークソンと同じケンブリッジ大学卒業生であった彼は以後、英国における奴隷制廃止立法の中心人物となる。
 協会はまた、解放奴隷オラウダ・エキアーノの奴隷体験を綴って反響を呼んだ自伝の出版と販売促進にも努めた。エキアーノ自身も奴隷制廃止運動に参加し、ゾング号虐殺事件をはじめとする奴隷貿易に関する詳細な情報提供者の役割を果たしたのである。 
 協会の活動は単に奴隷制に反対するばかりでなく、解放奴隷をかれらの先祖の地であるアフリカ大陸へ帰還させる派生的な運動を生んだ。その中心となったのは、クラークソンらよりも一足早く奴隷支援の活動を始めていた聖書学者グランヴィル・シャープである。
 彼はアフリカのシエラレオーネ半島に解放奴隷の入植地を創設する計画の中心人物となり、それを実現する植民組織として、シエラレオ-ネ会社を設立した。最初の植民地は彼の名にちなみ、グランヴィルタウン(現フリータウン)と命名された。
 これが現在は独立国家となったシエラレオーネの発祥であるが、初期の植民活動は地元部族との確執や伝染病などから困難を極め、失敗を重ねた。結局、シエラレオーネは王室管理地から英国植民地となり、入植者の子孫たちは現地部族と混血して、支配力を拡大していく。
 一方、英国本国では、19世紀に入ると、ウィルバーフォースの尽力もあり、議会で段階的に奴隷制廃止立法が進んでいくが、これについてはまた稿を改めて見ていくことにする。

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奴隷の世界歴史(連載第7回)

2017-08-14 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

奴隷制廃止の萌芽
 奴隷制度は人間を人間に恒常的に隷従させる制度であるが、古代ローマや中世イスラーム世界の奴隷は主人によって個別的に解放されることもあった。このような個別的奴隷解放は、制度としての奴隷制廃止とは明確に区別された奴隷制度の運用上の柔軟化にすぎない。
 また、国内(及び植民地の一部)を中心とした限定的な奴隷制廃止は、フランスでは中世の14世紀、ポルトガルでも18世紀後半には実現しているが、これらは両国も参加していた大西洋奴隷貿易には適用されなかった。
 現代では―少なくとも法的な建て前としては―、奴隷制度が全世界的に禁止されていることは第一章で見たが、そこに至るまでには、まさに歴史的な長年月を要した。そうした国境を越えた奴隷制廃止への最初のステップとなったのは、奴隷貿易の中心にあった英国における奴隷制廃止運動であった。
 その小さなきっかけは18世紀後半、ジェームズ・サマーセットなる一人の逃亡黒人奴隷をめぐる訴訟である。逃亡したサマーセットを拉致した主人に対し、サマーセットの支援者らが人身保護を申し立てた事件で、裁判所は史上初めて奴隷の解放を命じた。
 当時の英国には奴隷所有に係る法は存在しなかったが、法の不存在ゆえに英国内で奴隷は存在し得ないという形式論理でサマーセットの解放を導いたこの判決は、裁判所の判例を優先法源とみなす判例法主義の英国ならではの歴史的転換をもたらした。
 この事件の10年ほど後には、奴隷運搬船が航海中に奴隷130人以上を海に遺棄した事件(ゾング号虐殺事件)で、奴隷の喪失は保険金支払の対象になるかという争点に関し、裁判所は奴隷は家畜同様の所有物であるゆえに保険会社は損害保険金を支払う義務があると判決した。
 サマーセット事件と同じ裁判長が関わったこの判例は、奴隷を家畜並みに所有権の対象としつつ、その棄損を保険金でカバーできるという不当なものであったが、後に奴隷制を法律をもって廃止する際に、奴隷所有主らに補償金を支払う妥協的な有償廃止方式―そうしなければ、議会を通過しなかっただろう―に影響した可能性がある。
 いずれにせよ、「法の支配」の祖国たる英国では、司法の力により、奴隷制廃止の最初の一歩が踏み出されたことは注目に値する。とはいえ、その第一歩も反奴隷制の思想に目覚めた先駆的な人々の尽力なくしてあり得なかったことも事実であるが、これについては稿を改める。

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民衆会議/世界共同体論(連載第3回)

2017-08-12 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第1章 「真の民主主義」を求めて

(2)直接民主主義の不能性
 
議会制(広くは代議制)は一名、間接民主制とも呼ばれる。「間接」と称されるのは、議会制にあっては、議員が一般有権者の投票という形で付託を受け、代表者として政治を執行するという間接性に着目してのことである。
 しかし、この間接性が曲者で、議員は選挙民に直接拘束されないから、日常的には選挙民から自由に行動することができる。その自由な行動が理にかなっている限りでは、間接性にも利点はあるが、おうおうにして議員の行動は恣意的かつ支援団体・業界への利益誘導的なものとなりがちである。議会制の現状を見る限り、間接性の利点が真に生かされている国は極めて少ない。
 そうした間接民主制への不満は、議会制のような代表システムによらず、有権者が直接集会して政治的な決定に参画する直接民主制の魅力を高める。その際、古代ギリシャの都市国家アテネの民会制度が常にモデル化されてきた。現代では、スイスの州・準州(カントン)のレベルにおける州民総会制がよく引証される。
 しかし、こうした直接民主制を真の意味で実践することは不可能である。モデルとされるアテネの民会にしても、参加資格は成人男性市民に限られ、女性と奴隷の参加は許されていなかったという点では、事実上は成人男性による代議制とみなすこともできる制度であった。スイスの州民総会も現在では人口の少ない二つの州・準州で実践されているのみで、その余は地方議会制である。
 このように、純粋の直接民主制は比較的小さな政治単位では実践可能な余地はあるものの、そうした場合にあっても、参加資格に何らかの制限が加わることが多い。また直接民主制には有権者の意思がまさに直に政治に反映される利点は認められる反面、数の論理が間接民主制以上に重視され、多数派独裁的な暴民政治に陥る危険性もある。
 議会制はこうした直接民主制の欠陥を回避しつつ、議員を直接投票で選出することとして、間接民主制の枠内で直接性を高めようとしている面もあり、そうした限りでは合理性も認められるが、そのことがかえって当選に不可欠な資金と票田作りの必要から金権・パトロン政治を助長している。
 こうした難問を解決するには、直接/間接という二分法からいったん離れ、代議制であるが、より多くの一般市民が自ら代表者(代議員)として参加可能な民主制のあり方を改めて創案する必要があるのである。

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民衆会議/世界共同体論(連載第2回)

2017-08-11 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第1章 「真の民主主義」を求めて

(1)民主主義の深化
 民主主義が地球的な価値観となって久しい。しかし、その民主主義が今、色褪せてきている。民主主義のモデルを称する諸国でも、議会政治は金権政治と同義となり、政治は財界・富裕層の利益調整の場と化している。一方で、しばしば米欧主導の戦争・軍事介入の大義名分として標榜される「民主主義」への反発から、イスラーム圏を中心に、反民主主義思想も過激な形で台頭してきている。
 そういう混迷した状況の中で提唱される民衆会議/世界共同体の構想は、改めて「真の民主主義」を追求・確立せんとすることに理念的な基礎を置いている。「真の民主主義」とは月並みな言い回しであるが、民主主義の深化と言い換えてもよい。
 現時点で世界のスタンダードとされている民主主義とは、ほぼ議会制民主主義を指す。あるいは大統領のような国家元首を選挙によって選出する制度が加味されることもあるが、そうした大統領選挙制も議会制民主主義を土台とすることではじめて「民主的」との評価を得られる。
 しかし、議会制民主主義は上述のとおり、真に民主的に機能していない。改革を施せば民主的に機能するというほど単純ではない。本来、議会制度は古代的・封建的な王侯貴族政治を市民革命により打破する中で成立した制度であり、普通選挙制の確立以降、選挙過程を通じて政治参加の枠を拡大した功績はあり、その限りにおいては「民主的」であった。
 ここで、あったと完了形で書かなければならないのは、議会制が民主的であった時代はもはや終わりを告げているからである。現代の議会制は財力と党派的なコネクションがものをいう金権・パトロン政治の代表例となっており、むしろ一般民衆を定期的な投票機械に貶め、日々の政治的決定からは遠ざける制度となっていることは明らかである。
 その意味では、もはや議会制と民主主義とを直につなぐ「議会制民主主義」という言い回しは正確なものではない。とはいえ、用語慣習上、当ブログでも「議会制民主主義」という言い回しを使ってきたのは事実であるが、本連載ではこの用語を以後、避けることにする。
 かといって、議会政治を独裁政治と同視するような性急さも避けなければならない。先に指摘したような議会制の歴史的な功績と現在的な限界性を両面考慮すれば、議会制は「限定民主主義」と呼ぶのがふさわしい―「議会制限定民主主義」―が、煩雑になるので、単に「議会制」と称すれば足りるであろう。

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民衆会議/世界共同体論(連載第1回)

2017-08-10 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

改訂版まえがき

 本連載は元来、『共産論』で提起した共産主義的な民主的政治制度を敷衍して論じた派生連載であるが、先般連載を終えた『共産論』増訂版において、司法制度の部分を中心に旧版に変更を加えた関係上、本連載についても改訂する必要が生じてきた。その間の事情は、先行して改訂版連載を開始した『共産法の体系』と同様である。併せて、一部の用語や表現に修正を加えつつ、ここに『民衆会議/世界共同体論』改訂版の連載を開始する。


序言

 筆者は、先に連載終了した『持続可能的計画経済論』の最終章で、共産主義的な計画経済にふさわしい政治制度の概要について言及した。それは、主権‐国民国家制度によらない世界共同体及びその構成要素ともなる民衆会議というものであった。その概略的な制度構想については、すでに別連載『共産論』においても論じているところである。
 ただ、民衆会議/世界共同体の制度は現在我々がすっかり馴染んでいる主権国家をベースとした国際連合や国民国家の議会制度などの内外諸制度とは大きく異なるため、概略説明のみでは理解されにくい。そこで、これまでの記述では十分に触れてこなかった世界共同体/民衆会議の理念的な基礎や制度の詳細設計に関して、改めて独立した連載を立てて論じてみたいと思う。
 繰り返せば、民衆会議/世界共同体の構想が理解されにくいのは、国家という馴染み深い政治制度から脱しようとするからである。国家という制度やその理念は、もとより世界中にあったわけではなく、西洋近代政治学が生み出した一つの政治モデルにすぎないが、それは民衆より以上に統治者にとって有益なツールであったことから、世界中に拡散し、日本のような非西洋圏でも定着した。 
 それへの反発から、アナーキズムの思潮も現れたが、人間は本来的に秩序を求める生物であり、純然たるアナーキー状態では生存できないようである。結局、アナーキズムはアンチテーゼ以上のものとならず、いつしか退潮していった。結果、国家制度は地球的常識となった。
 そのため、国家という政治単位を前提としないあらゆる政治思想が脇に押しやられ、思考されないものとなってしまっている。脱国家的な制度構想は過激なアナーキズムの再来のように受け取られかねない状況である。
 しかし、すでに公表してきた概略的な記述からもわかるとおり、筆者の提唱する民衆会議/世界共同体構想は、決してアナーキーなものではなく、国家とは別の手段によって一つの秩序を志向するものである。そのため、そこには伝統的な国家諸制度との連続性も一定は認められる。
 これまでの議論においても、現行国家制度との対比に努めてきたつもりであるが、本連載ではいっそうクリアな形で、そうした対比によって現行国家制度の限界性を浮き彫りにすることを通じて、民衆会議/世界共同体の具体像を示していく。それは同時に、西洋近代政治学常識に対する―否定的ではなく―脱構築的な挑戦の試みともなるであろう。

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奴隷の世界歴史(連載第6回)

2017-08-08 | 〆奴隷の世界歴史

第一章 奴隷禁止原則と現代型奴隷制

隷属的外国人労働
 児童労働が主として後発国における現代型奴隷制だとすれば、外国人労働は主として先発国または資源国に遍在する現代型奴隷制である。
 一般国民の生活水準が一定以上に発達した諸国では、一般国民が敬遠するようになった低賃金の単純労働・底辺労働の担い手不足が深刻化するため、外国人労働力にそれらを依存するようになる。これが外国人労働の慣習を生み出す共通根である。
 外国人労働はいちおう契約によって成立するとはいえ、しばしば契約内容が不当であり、隷属的な地位に置かれることが多い。中でも、中東産油諸国で一般化している外国人家政婦労働ではしばしば主人による種々の虐待や秘密裏の転売すら行われ、外国人家政婦の家事奴隷化が指摘されている。
 これら中東産油国の中には、人口構成上外国人のほうが国民より多い例すらあり、それら外国人のすべてが奴隷状態に置かれているわけではないとしても、国民としての権利の保障が受けられないまま、従属民化されている。
 他方、先発国向けでは、不法就労と人身売買とが結びつき、組織犯罪集団の資金源となっている疑いが指摘される。中には到着次第、旅券などの必要書類を取り上げたうえ、拘束的環境で強制労働させるような形態もあるとされる。それとも関連して、外国人を性労働者として海外で働かせる性的奴隷慣習と結びついた形態も少なくない。
 ちなみに近年、アフリカから欧州への移民を目指す人々の中継地となっているリビアで移民を拘束し、奴隷として売買する奴隷市場が形成されていることが報告されている。こうした闇の奴隷市場が確立されれば、まさに復刻奴隷制となる。 
 移民受け入れ政策を公式に打ち出している諸国にあっては、外国人労働者はいずれ移民として定住していくため、合法的外国人労働者にも相応の権利保障がなされるとはいえ、永住権を取得するまではしばしば不当な労働条件を強いられ、永住後も低所得層に押し込められることが多い。
 その点、移民政策を採らない日本では1990年代から「外国人技能実習制度」として、外国人労働者を技能実習名目で正規に受け入れる制度を導入してきたが、この制度は実態として、外国人労働者を「実習生」とすることで、労働基準法を脱法し、外国人に隷属的労働を強いる手段の温床とされてきた。
 国際社会では1990年に「国連移住労働者権利条約」を採択し、その中で移住労働者を奴隷状態に置くことを禁止している。しかし、同条約を批准しているのは労働者送り出し国を中心としたわずか50か国弱にすぎず、日本やアメリカその他の受け入れ国側はほとんどが未批准の状態で放置しており、条約体制として全く不備な状況にある。
 外国人労働は、奴隷制が原則的に禁止された現代にあって、奴隷制を補填する手段として、ある意味ではまさに現代型奴隷制の典型なのかもしれない。

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