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近代革命の社会力学(連載第222回)

2021-04-14 | 〆近代革命の社会力学

三十二 エジプト共和革命

(2)第一次中東戦争と自由将校団の台頭
 1952年エジプト革命において決定的な役割を果たしたのは、中堅・若手将校の革命集団である自由将校団であった。このグループは元来、自然発生的に形成された軍内部の秘密結社であり、政党のように具体的な日付や大会を伴って正式に旗揚げされた政治組織ではない。
 こうしたグループが誕生する直接的な契機となったのは、戦間期の1936年、従来は上流階級子弟に限られていた軍士官学校の入学資格に中流階級以下の特別枠が設定され、門戸が開かれたことであった。
 後に自由将校団のリーダーとして頭角を現すナーセルも郵便局員の息子であったが、そうした門戸拡大策によって士官学校に入学した一人である。また、ナーセルより一期上級ながら、自由将校団でナーセルの最側近メンバーとなり、後年、ナーセルを継いで第二代大統領を務めるサーダートも、エジプトでは少数派のスーダン系貧困階層の出自であった。
 この1936年という年度は、第一次大戦後の独立‐立憲革命を経て成立したブルジョワ政権がイギリスとの条約により、スエズ運河防衛のための部隊を除き、イギリス軍をエジプトから撤収させる合意を勝ち取り、括弧付きだった「独立」の内実を一段高めることにも成功した年度でもあり、ブルジョワ民主主義の枠内で中流以下階級への目配りも始まった転換点であった。
 そうした情勢の中で、職業軍人として育成されたナーセルと同様の階層から出た同輩らは、第二次大戦を機に再び反英感情が高まる中、ドイツ侵攻と同時に反英軍事クーデターを計画するという冒険的行動に出るが、これは未然に発覚し、失敗に終わった。
 この時点ではまだ組織化も不十分であり、士官学校を終えて間もない青年将校らの力でイギリスからの解放を担うのは不可能であった。自由将校団が戦略的な革命集団として台頭するには、第二次大戦後、イスラエル建国をめぐる第一次中東戦争を待つ必要があった。
 その前哨として、1947年に国際連合がパレスティナの分割とユダヤ人国家の建設を認める方針を固めると、ナーセルらは秘密裏に会合を開き、パレスティナ人(アラブ系)の支援に乗り出すが、おそらく、この時が自由将校団の事実上の発足時点であった。
 翌年に中東戦争が開始されると、少佐に昇進していたナーセルもアラブ連合軍に従軍し、負傷するも、軍功から叙勲されるほどの活躍を見せた。一方で、エジプト軍司令部の拙劣な戦略により、民兵組織から衣替えしたばかりの新生イスラエル軍に敗北したことは、ナーセルら若手将校の間に憤懣を高めた。
 そうした状況の中、1950年以降、ナーセルは自由将校団の組織化を本格化させる。この時点で、グループは半ば公然組織であったが、安全対策上、メンバーにコードネームを割り当てるなど、基本的には秘密結社として組織された。一方、中堅・若手中心の組織へのある種の権威付けとして、声望の高いベテラン、ムハンマド・ナギーブ将軍を顧問格の団長に招聘した。
 こうして、1950年代初頭、自由将校団はエジプト陸軍を中心とする軍部内で急速に勢力を拡大していくが、ほぼ軍内部の運動に限局されていて、革命集団としては限界があり、革命の道筋やイデオロギー的な軸も明確には定まっていなかった。
 そのため、当初は要人暗殺(未遂)のようなテロル戦術に向かうという誤りを犯したが、国王政府側も、軍内に根を張り、声望の高いナギーブ将軍を顧問格に擁する自由将校団の弾圧に乗り出すことを手控えており、革命前夜には、張り詰めた緊張関係が続いていた。


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