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近代革命の社会力学(連載追補2)

2022-11-14 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(7)ベルギー独立革命

〈7‐1〉南ネーデルラント地方の特殊性
 ウィーン会議の政治反動への反作用として、1820年から10年間に及んだ長期的な第一次欧州連続革命の余波事象の中でも、その最終期に当たる1830年のベルギー独立革命は今日のベルギー王国、さらにはルクセンブルク大公国の形成にも直接つながり、欧州の地政学にも影響を及ぼす固有の意義を持った。
 ベルギーは元来、単立の統一国家ではなく、スペイン支配を経て、18世紀以来、オーストリア領ネーデルラントと神聖ローマ帝国領(リエージュ司教領)に分裂していた。そうした中、1789年にオーストリア領ネーデルラントのブラバントとリエージュ司教領で同時的な革命蜂起があった。
 その結果、1790年にはリエージュを含めたベルギー合衆国の樹立が宣言された。その初発地の名を取って「ブラバント革命」とも称されるこの事象は単立国家ベルギーが形成される胎動ではあったが、オーストリア軍による迅速な鎮圧作戦により年末までに挫折した。そのため、この事象はベルギー独立革命としての持続性を持ち得なかった。
 その後のオランダはフランス革命に触発されたバタヴィア共和革命が挫折した後、フランス軍に侵攻され、フランス支配下に移ったが、ナポレオンの敗退後、1815年のウィーン会議を経て成立したネーデルラント連合王国(オランダ)の領土に編入されるという転変を経験した。
 このオランダ統治下の南ネーデルラントはカトリックが優勢で、フランス語を話すワロン系人口が多いなど、プロテスタントが優勢なオランダにあって、宗教的・民族的構成の点で異質的であった。
 そのうえ、フランス支配時代に先駆的な産業革命を経験していた南ネーデルラントはなお後進的な北ネーデルラントとは経済格差がある反面、政治的にはワロン人が疎外されるなど、政治経済的な南北不均衡が顕在化していたことは、南ネーデルラントの独立への希求を強めた。
 一方、この時期のオランダは、オラニエ家の世襲統領を擁する君主制的共和制から明確に君主制国家として再編されるという反動化の時代を迎えていた。中でも、時の初代国王ウィレム1世は開明的ながら「遅れてきた啓蒙専制君主」と称される専制的な統治手法で臨んでいたことも、革命を誘発する要因となった。


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